鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-番外編 相模川水運 その1

2017-08-26 07:55:52 | Weblog

 

  江戸時代の津久井地方や郡内地方における相模川水運の重要性を、甲州街道を大月あたりまで歩いてみてあらためて確認することができました。

 相模川の高瀬船は、上野原宿の南側の桂川沿いにある新田(あらた)村の河岸まで相模川を遡上していました。

 天保13年(1842年)の「甲斐国都留郡新田村差出帳」によれば、新田村の河岸(津出場)より相州須賀浦まで十三里、須賀浦より霊巌島(れいがんじま)まで海上三十六里とあり、江戸の霊巌島までおよそ五十里弱(約200km)近く。

 相州津久井県奥畑村に番所があって、そこでは人改手形を確認していました。

 この新田村からの高瀬船の航行は、秋元但馬守が谷村(やむら)藩主として郡内を支配していた頃からあり、「江戸表御屋敷」に郡中より納める薪を添えて須賀浦まで積み送るために行われ、代官支配になってからもその通船は継続して行われていました。

 「高瀬舟四艘、但し当時四艘、舟頭九人」とあり、天保13年当時、新田村は高瀬船を4艘所持していたことがわかります。

 『山と海を結ぶ道─相模川・相模湾の水運─』(平塚市博物館)によれば、通船を所持していた村は、新田村(甲斐国都留郡)のほかに相模国内に以下の村々がありました。

 吉野・寸沢嵐(すわらし)・三井(みい)・太井(おおい)・小倉(おぐら)・葉山島(はやまじま)・角田(すみだ)・磯部・厚木・岡田・酒井・門沢橋(かどさわばし)・倉見・田村・四之宮・一之宮。

 すべて相模川沿いの村々でした。

 この相模川水運については、天保2年(1841年)に大山街道厚木宿を訪れた渡辺崋山(1793~1841)が、きわめて要領よくまとめています。

 渡辺崋山は、小園(こぞの)村〔現在の綾瀬市小園〕に住む「お銀さま」(大川まち)を訪ねた日の夕刻、相模川を渡し船で渡って厚木宿に入り、「万年屋」という旅籠に泊まったのですが(9月22日〔旧暦〕)、9月24日の昼食後に「万年屋」を出立するまでの間に知り合った厚木村の人々からさまざまな情報を聞き取っています。

 崋山が相模川水運について触れることになったのは、厚木宿の繁栄がどのような地勢上の条件から生まれているのかという強い関心からでした。

 知り合った厚木村の人々から聞き取った相模川水運についてのさまざまな情報を要約して、崋山はその旅日記である『游相日記』に書き留めました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『上野原町誌(上)』(上野原町誌刊行委員会)

・『山と海を結ぶ道─相模川・相模湾の水運─』(平塚市博物館)

・『渡辺崋山集 第1巻 日記・紀行(上)』(日本図書センター)



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