鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲斐の道祖神と道祖神祭礼 その7

2017-12-24 08:37:51 | Weblog

   表通りの長櫃(ながびつ)には道祖神の納められた小祠が置かれ、また神楽獅子の獅子頭が置かれていました。

 『甲斐廼手振』(宮本定正・嘉永3年)によれば、甲府の町毎に神楽獅子が一具ずつあって、「新規婚礼其余祝儀事」があった家へ舞い歩き、それらの家では「分限」に応じて祝儀を差し出したという。

 『甲斐の落葉』(山中共古)によると、獅子頭を持ち出して昼夜太鼓を叩き、夕刻からは獅子頭を家々の店先に担いで行って「舞ヒ歌」ったという。

 つまり婚礼など祝い事があった家の店先に出掛けて行って獅子舞をして「御祝儀」を集めたことがわかります。

 祝い事があった家などに「御祝儀」を出させることは、この獅子舞の時だけではなく、「道祖神様」がそれらの家に回った際にも行われました。

 『甲州道中記』(安藤安五郎・慶応2年)には次のような記述があります。

 「人がすゝめるにも非ず、当人も其気に非ず、何と無く神がのりうつり給ふ故か、道祖神と云ふ人出来る。其人の気風常とはかわり候が不思議なり。扨(さて)其年の前年に大普請をするか、但し嫁入などの祝儀事有之候(これありそうろう)を覚え置、町中の者羽織を着し、道祖神様になり候人をかこひ(囲い)、大勢祝の有し家へ参り、道祖神様は奥の床の間へ座す。一流町中の人左右に控(ひかえ)る。」

 ある人物が「道祖神様」となり、羽織を着た者たちがその「道祖神様」とともにその前年に新築や婚礼など祝い事のあった家に出掛けて行って、その家の中に入って「道祖神様」は「奥の間」へ座り、その左右に羽織を着た者たちが居並んだというのです。

 「当人亭主は袴羽織にて罷出(まかりい)で、一間もこなたに平伏する。道祖神被仰出候(おおせいだされそうろう)には、昨年来目出度事(めでたきこと)つゞき伜(せがれ)に嫁を取目出度事なり。夫(それ)より御祭の入用百両出せと云、亭主左右に控候人に向て何卒(なにとぞ)半金にて御用捨(ごようしゃ)可被下候(くださるべくそうろう)と願候上、道祖神様御帰被成候、若(もし)其意にそむき候はゞ忽(たちま)ち御罰蒙(こうむり)候につき、御意をそむき候者無し。」

 袴羽織を着て平伏している亭主に対して、「道祖神様」が目出たいことがいろいろあったのだから「百両」出すようにと言うと、亭主は左右に控える者たちに百両というのはいくらなんでも高額過ぎるから「半金」つまり50両でご容赦願えないかと申し入れ、交渉が成立すると「道祖神様」は退出していったということです。

 「身分相応」に「御祝儀」の金額をそれぞれの家から集めたようです。

 もし「道祖神様」の意に背いたなら「御神罰」をこうむるから、「道祖神様」の意に背くものは誰もいないという。

 「獅子舞」が回るのも「道祖神様」が回るのも「御祝儀」を集めるためのものであったことがわかります。

 祝い事があったり大普請があったりした家々はもちろんのこと、財産のある豪商から「小前の者」の家まで順々に家々を回って、それぞれの家の財産の多寡に応じて(「身分相応」に)「御祝儀」を集めて回ったのです。

 『甲州道中日記』の筆者である安藤助五郎は、柳町の「十一屋」という酒屋において、「道祖神様」が「百両」の御祝儀を請求した場面を実際に見ており、それをもとにこの場面を記しています。

 各町ごとにこのような「獅子舞」や「道祖神様」の巡回が行われ、「御祝儀」が集められており、これによって集められた「御祝儀」が毎年の盛大な道祖神祭礼を営む資金になっていたと推測されます。

 『富士吉田市史 民俗編』によると、上吉田では「青竹の御幣を持ってひげをはやした面をかぶるのが道祖神」であり、1月14日には新婚家庭に押しかけて行って、「オオカタぶてや オオカタぶてや オオカタ出せや ガンガラガンのガン」とか「ダーシャレ ダーシャレ オカタぶてや オカタオカタずろう」などと言って「御祝儀」を集めました。

 「オカタ」すなわち「新妻」を出せ、とはやし立て、丈夫な子を生むようにと「オカタ」(新妻)の尻を藁ツトで叩いたとあります。

 「御祝儀」が少なければ、「道祖神様」が不満だから「お直しなんしょ」と金額を上げ、金額が折り合えば「ご馳走(っそ)さんよ~」と言ってその家を退出したという。

 中沢厚氏の『石にやどるもの』によれば、かつて「三富村雷(いかずち)」では「若衆宿に集まった若者のうち若衆頭が道祖神代役」を行っていたとのこと。

 「道祖神代役」とは人間が扮した「道祖神様」にほかならない。

 「若衆宿」(「若者組」)の「若衆頭」が「道祖神様」に扮していたのです。

 甲府町方の道祖神祭礼の主体的な担い手も、村方と同様に「若者組」であったと推測することができ、おそらく家々を回って「獅子舞」を演じる者たちも、「道祖神様」に扮する者も、そして「道祖神様」とともに羽織を着て家々を回る者たちも、すべて「若者組」の連中であったものと思われます。

 「若者組」は村方においても町方においても、道祖神祭礼をはじめとした諸祭礼の担い手であり、とりわけ娯楽的行事や催し(芝居・手踊り・相撲興行など)の企画や運営を行う重要な存在でした。

 道祖神祭礼などで集めた多額の「御祝儀」は、その娯楽的催し(レクリエーション)の資金源であったに違いない。

 天保13年(1842年)の小正月から始まる道祖神祭礼における巨大な幕絵(広重の浮世絵風景画など)の展示という大企画も、そのようにして「若者組」によって甲府の町方の人々から集められた多額の「御祝儀」が財源となっていたと考えられます。

 

 続く(次回が最終回)

 

〇参考文献

・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)

・『富士吉田市史 民俗編 第2巻』(富士吉田市)

・『石にやどるもの』中沢厚(平凡社)



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