山梨県は丸石型道祖神が特徴的なところで、わけても甲府市周辺がその密分布地帯である(『甲府の石造物』)けれども、旧甲府の町々の道祖神は石祠型道祖神が主流でした。
しかしその石祠型道祖神も山八幡・穴切神社・城東二丁目の金比羅神社にわずかに残るばかりだという。
これは明治5年(1872年)11月14日に山梨県令土肥実匡が道祖神祭礼禁令の布達を出したことなどにより、とりわけ甲府においてそれが徹底されたからでした。
その禁令の内容は、「道祖神祭礼…向後右祭礼断然停止候事…但路中設有之(もうけこれあり)石祠ハ取纏メ産土神社ヘ遷(うつ)シ置跡地可取片付事(とりかたづけるべきこと)」というものでした。
道路上に設けられている石祠はまとめて近くの産土神社へ移して、その跡地は片付けるようにというものであり、この布達の徹底によって石祠型道祖神は撤去されて、甲府における道祖神祭礼は行われなくなったのです。
一方、『石にやどるもの』中沢厚(平凡社)によれば、甲府旧市内の道祖神は町内ごとに造った木造の小祠であり、祠内に納めるものはおそらく道祖神の御札であったろうとのこと。
道祖神の御札は町内ごとに版木があって、祭礼の際に若者たちが刷って各戸に配るのが習いであったという。
つまり甲府旧市内の道祖神は木祠型道祖神であったことになります。
そして中沢さんは次のようにまとめられています。
「甲府旧町内の道祖神は、もともと御神体の丸石と神像などがなく各町ごとに形式的に小祠を造って祀った。そして祭事だけは近隣農村集落の祭りに合わせ盛大に行ったものと思われる。要するに道祖神信仰が村落から町方に波及し、町では町らしい祭りに成長させていく。」
「甲府旧町内」とは「新府中」のこと。
「新府中」の前は武田3代の府中、つまり「古府中」であり、その時代においても小正月の行事は町毎に行われていたはず(それが「道祖神祭礼」といわれていたかどうかはわからないが、道祖神祭礼的なものが行われていた)であり、「新府中」になってからもその行事は継続されていて、江戸時代の初期(元禄年間より前)には道祖神祭礼はその内容がほぼ完成されていたと考えられます(『甲斐の道祖神考』)が、その際に導入されたのが石祠型道祖神や木祠型道祖神であったものと思われます。
村方では広い道祖神場が設けられ、そこでは「おやま」(御神木)が建てられ、「おかりや」が設けられ、そして「ドンド焼き」が行われたり芝居や手踊りなどが行われましたが、人家の密集地帯である町方では広い道祖神場を設けることはできず、また「ドンド焼き」は人家が密集していることから大火災が生ずる可能性があり、町々の路上に石祠型道祖神が設けられたり、木祠型道祖神が設けられたりしたのでしょう。
石祠型道祖神の石祠の中には丸石を置くものが多かったり、祠前に丸石を置くものもある(『甲府の石造物』)といったことを考えると、旧甲府の町々の石祠型道祖神の中には御札(神札)のほかに丸石を置いていたのかも知れません。
甲府の町方の人々にも「丸石」に対する信仰があった可能性があります。
その丸石型道祖神を入れる器が「石祠」であったのです。
甲府町方において道祖神がどのように祀られていたか分かる史料が明治2年(1869年)1月8日に出された「市村道祖神祭弊習禁止令」や山中共古がまとめた『甲斐の落葉』など。
それらによると、甲府町方においては小祠は人家の庇(ひさし)の上に保管され、1月14日になると通りに持ち出した長櫃(ながひつ)の上にその祠を安置するとともに「獅子頭」を長櫃の上に置いたらしい。
庇の上に保管されている小祠の中には、中沢厚さんによれば道祖神の「御札」(神札)が納められていました。
その庇の上の小祠を、道祖神祭礼の時には表通りに置いた長櫃の上に安置して、それを道祖神を祀る壇としたことになります。
道祖神の小祠は各町にあったから、道祖神祭礼の時期を迎えると各町の表通りにそのような道祖神を祀る壇がつくられていたことが分かるのです。
その長櫃の上には道祖神の小祠とともに「獅子頭」が置かれていたことが注目されます。
その「獅子頭」は何に使われたのか。
続く
※写真は甲府市城東の石祠型道祖神。
〇参考文献
・『甲府の石造物』(甲府市役所)
・『山梨市の石造物』(山梨市)
・『石にやどるもの』中沢厚(平凡社)
・『甲斐の道祖神考』山寺勉
・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)
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