左手に富士山を望みながら丹沢山頂を11:35に出発。竜ケ馬場で昼食を摂りました。南西に大山を見下ろし、その向こうに相州の平野が広がっています。毎朝ウォーキングをしている相模川の流域を見ながらおにぎりをほうばる。手前の山が薄紫色を呈し、その向こうの大山の斜面は濃い緑と薄い緑が切り絵のように混ざっています。足元は原っぱ。手前の稜線は長尾尾根。いつも相模川から見上げている大山が、眼下に見えるというのは不思議な感覚です。
12:15に竜ケ馬場を出発。ここから塔ケ岳に向かう尾根道は、右手に富士山を望み、左手に大山を望むなど、広大な景色を楽しめます。道は表丹沢だけあって木製の歩道が設けられていたりして歩きやすい。個人的には、枯れ葉の敷き積もった柔らかい土の道の方が好きですが。
塔ノ岳への坂道になると、道は歩きにくくなり、額に汗が噴き出てきます。
12:59、塔ノ岳に到着。
なんと頂上一帯は、人、人、人。
およそ200名ほどはいます。
見晴らしは360度きく。湘南の海、横浜方面、秦野盆地、相模川流域、そして西に富士山や箱根連山。その左手(南方)に伊豆の山々。確かにここからは、夜景も綺麗だろうな、と思わせる景色です。
江戸時代、この塔ノ岳の頂上付近には、「尊仏岩」(通称「尊仏さま」)という高さ17~8メートルほどもある巨岩が立っていて山麓の村々の人々の信仰を集めていました(「農神さま」「雨乞いの神さま」として)。
『アルペンガイド 丹沢 大山・道志山塊』(山と渓谷社)の「尊仏岩雑記」(P98)によると、江戸時代より、毎年1回、5月15日に祭礼が開催され、山麓各村の人々がそれぞれのルートから登ってきて尊仏岩に詣で、岩の前に、稲・麦・粟などを供えて五穀豊穣を祈りました。
さらに、害虫除けになると信じられていた尊仏山付近の土を持ち帰って各戸の田畑にまき、また、この尊仏岩に付着した苔を煎じて飲むと貧血症などの病に効くと信じられていたために、これも持ち帰って集落の病人に分け与えていたそうです。
面白いのは、このお祭りでは、「尊仏さま」に向かう各ルート上の広場や塔ノ岳山頂の広場で賭博(とばく)が開催されていたということ。新緑がさわやかな春の山地の一角に陣取って、「丁々発止(ちょうちょうはっし)」と賭け事に興ずる農民・商人・博徒などの姿が見られたというのです。親・兄弟や友だちに誘われて「賭博」デビューをした若者もいたに違いない。
この尊仏岩は、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災のため崩れて大金谷に転落したため、当然のことながら現在は見ることは出来ません。
塔ノ岳山頂は見晴らしはいいものの、登山客で混んでいるのですぐに通過して、大倉に向かうルートを進みます。「鍋割山2.8km 大倉7km」「ヤビツ峠7.9km 三ノ塔4.2km」の標示。大倉7kmの道(大倉尾根。通称「バカ尾根」と言われて、秦野方面から丹沢に入る代表的なコースですが、相当にきつい登り道として有名)は、初めて通る道です。
途中、ガレ場ながらところどころに広場があります。村々が眼下に見え、里山の広がりが望めます。西には富士山が見え、また東には大山が見える。こういうところに莚(むしろ)を敷いて「丁々発止」とやっていたのでしょう。ともかく爽快な気分であったろう。
13:32、花立山荘。
14:31、木漏れ日の中で長めの休憩。見上げる新緑が、太陽の光りに透き通るよう。
この大倉尾根のガレ道・階段道は、下りるだけでもかなりきつい。登って来る人も多いし、また「ハアハア」言いながら上がって来るので、「こんにちわ」の声もかけづらい。 ハイカーの中には、70過ぎと思われる年配の女性もおられる。しかも1人で。ただ者ではない。
時々、走って下りていく猛者(もさ)もいる。
この大倉尾根を、重い荷物を背負って、走って上り下りする「ボッカ駅伝という競技があるとか。そのきつさはちょっと想像できない。私的には、やはり景色を楽しみながら、周囲に目をやりながら、ゆっくり歩きたい。
ベンチの隣に休憩した初老の男性に、
「下りるだけでもけっこうきついですねえ」
と声を掛けると、
「大倉を登れれば、日本中どこでも登れるというから。気をつけないと膝をやられる。階段を上るのはいいけれど、足が痛くて下りれなくなるよ」
とのこと。
と、話していると、少し離れたベンチに先ほど下から走りこんで来て、息を整えていた40ほどの男性が、私たちに話し掛けてきました。
実はその男性が、ボッカ駅伝の競技の参加者だったのです。
「リュックは何キロあるんですか」
「25キロ」
「中身は水ですか」
「石だよ。40キロを背負うのに誘われているけれど、ちょっと厳しいので20キロのに参加しています」
「靴は?」
「普通のランニングシューズ。登山靴はダメです」
ひとしきり話した後、その男性は25キロのリュックを背負って、そこから走って引き返していきました。
さて、丹沢や丹沢周辺で伐り出された木材や炭などの林産物ですが、それらは、相模川上流の場合、筏(いかだ)や帆船で下流の町に運ばれました。
玉切り→山落とし→修羅(しゅら)出し→中津川では一本ずつの菅流し・半原(はんばら)村より下流では筏流し→厚木より相模川を利用→平塚の須賀湊→江戸や小田原、 といった手順とルート(中津川・相模川利用の場合)です。
丹沢御料林の伐採は、明治の終わり頃から大倉組が一手に施業したらしい。神ノ川(かんのがわ)上流・早戸(はやと)川上流・玄倉(くろくら)川上流を大規模に伐採し、そこにアカマツ・スギ・ヒノキといった樹種(成長が早く収入の多い樹種。しかし、ブナやケヤキなどと違って、崩れ易い山地には一番弱い樹種)を適地・不適地の見境なく植えていきました。
これによる手ひどいしっぺ返しを受けたのが、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災と、翌13年(1924年)の丹沢地震。これにより丹沢はいたるところで崩壊してその山容を変え、川は土砂とともに流木がひしめきあい、アカマツ・スギ・ヒノキなどの造林地は跡形もなくなった、とのこと。
昭和7年(1932年)4月告示で、神奈川県「丹沢御下賜林」(おおよそ現在の県有林)
が決定。帝室(皇室)財産の「御料林」が、神奈川県に「下賜」されることになったのです。
そしてその年のうちに、蓑毛(みのげ)→札掛(ふだかけ)→宮ケ瀬を結ぶ「丹沢開発林道」の工事が着手され、昭和9年(1934年)に完工しました(戦後、昭和25年〔1950年〕に県道20号秦野清川線として県道に移管)。
昭和18年(1943年)より、全国的にブナ林が一斉に伐採されるようになります。ここ丹沢においても例外ではなく、山北の旧三保村浅瀬地区から森林軌道が敷設されて、切り出されたブナ材が大又沢に集積されました。また津久井郡内では、神の川林道が突貫工事で造られ、大規模なブナの伐採が行われました。それらにより、丹沢中腹のブナ林は姿を消しました。
なぜ、この時期、ブナが伐採されたのか。
ブナは、幹芯が捩(よじ)れていたために建築用材としては不適であって、「丹沢六木」の中にも入っていなかったはず。
実は、このブナの木は、その幹芯の捩れが飛行機(軍用機)のプロペラ材に適合していたのです。
そして戦後、県は、丹沢の天然林を大伐採して、スギ・ヒノキの人工林に変えていきました。それにより、標高800メートル以下の、土壌の堆積のよいところには、いたるところにスギ・ヒノキの人工林が広がることになったのです。以前は、標高800メートルの付近にもブナの原生林はあったのです。
小田原北条氏の時代、丹沢は「御留山」で、山奉行が置かれて管理がなされていたことは先に触れました。「六木御留山」として北条氏が伐採を禁止したのは、「スギ・ヒノキ・モミ・ツガ・ケヤキ・ブナ」の「六木」でした。ブナがなぜ入っているのかというと、ブナは、ケヤキとともに根張りが強く、山を守り崩落地を安定させる木であったからです。それに対してスギ・ヒノキ・マツは、確かに建築用材として有用ではあるものの、根張りが弱く崩壊を招きやすい。つまりブナやケヤキは山を守る樹木であったのです。小田原北条氏は、ブナやケヤキの伐採を禁ずることによって、丹沢の「自然保護・生態系の保全」を行っていたことになります。
それに対して、江戸幕府が伐採を禁じた「丹沢六木」は、すべて建築用材として有用な樹種でした。幕府は、樹木を建材としてしか考えていなかったのです。
その考え方は、明治以後も受け継がれ、関東大震災での丹沢の大規模な崩壊を招いた要因になったと考えられます。
またブナの原生林の大規模伐採は、戦争(第2次世界大戦・軍用機のプロペラ材)と深くつながってもいたのです。
この事実を、私は、つい最近まで知りませんでした。
知ったのは、『丹沢を駆け抜けた戦争』という、秦野の「夢工房」という出版社が出した小冊子によってでした(先の記述の多くは、これに拠っています)。
さて、大倉尾根に戻ります。
15:06、観音茶屋。あと大倉まで1.6キロ。
犬の野太い鳴き声が遠くから響いてきて、人里が近いことを感じさせます。
15:30、人家が見えてきました。左手に乗馬クラブ。バス停まで0.6キロ。
無事、下山したことを妻に携帯で連絡していると、秦野戸川公園のバス停が見えてきたのですが、ざっと60名ほどのハイカーが列をつくってバスを待っていました。バス停周辺には、トイレを利用する人、ベンチに座って休息する人、靴を洗う人、アイスクリームを食べる人……。
私もさっそくトイレに寄り、水場で靴にくっついた泥を洗い落としました。
15:58、ぎゅうぎゅう詰めになったバスに乗り、16:10に渋沢駅着。
小田急線で、16:49、本厚木駅着。
駅前の有隣堂(書店)に立ち寄って見つけたのが、先に紹介した『丹沢を駆け抜けた戦争』という小冊子でした。ほかに『厚木の歴史探訪 4 寺院』『同 5 神社』(厚木市文化財協会)も購入。
バスセンター近くの「福家(ふくや)書店」にも立ち寄り、18:20発のバスに乗って、家路につきました。
途中、西の方向(進行方向左手)に、大山・大山三峰(みつみね)・丹沢山系が、影絵のように黒く横たわり、その上に、薄く夕焼け色になった空が広がっていました。
あの大山のてっぺんを、今日の昼ごろは竜ケ馬場よりおにぎりをほうばりながら見下ろし、その大山の右手に長く伸びる丹沢三ツ峰の稜線を、新緑に包まれながらウォーキングしたのです。 感慨無量!!
昨年ゴールデンウィーク明けからの、まる1年間の早朝ウォーキング。その結果として今日がある。我ながらよく頑張ったものだ、と、自らを褒めるばかり。
一時期、体調を崩した時には、山歩きはもう出来ないものとあきらめていたのですが、朝のウォーキングの継続により、ここまで心肺機能も、足腰も回復した。体重も1年間で10キロ減(昨夜、達成!)。眼圧も、右19、左16であったのが、それぞれ16、13に。きちきちであったズボンがだぶだぶに。
翌日以後も、ふくらはぎが痛くなったりして歩行困難になることもなし。膝が痛むこともなし。ただ足の裏の筋肉と、左足のつま先が(大倉尾根のきつく長い下りの際に、体重がかかったため)痛くなった程度でした。
日ごろ、トレーニングをしておけば、長い山歩きをしても、足は痛くならないものだということを初めて知りました。
そう言えば、若い時は、準備もせず、力まかせに、大股で、山歩きをしていたっけ。あれじゃ、足が痛くなるのはあたりまえでした。
ということで、目標10キロ減を達成しましたが、今後も、朝のウォーキングを継続していくことにします。
では、また。
○参考文献
・『アルペンガイド 丹沢 大山・道志山塊』(山と渓谷社)
・『丹沢を駆け抜けた戦争』生命の環・むすびの衆 企画・編集(夢工房)
※「軍用機のプロペラ材にされた檜洞丸のブナ」(篠田健三)
「札掛のモミ原生林は何故守られたのか」(加藤利秋)
・『厚木市史史料集(4)地誌編』(厚木市役所)
12:15に竜ケ馬場を出発。ここから塔ケ岳に向かう尾根道は、右手に富士山を望み、左手に大山を望むなど、広大な景色を楽しめます。道は表丹沢だけあって木製の歩道が設けられていたりして歩きやすい。個人的には、枯れ葉の敷き積もった柔らかい土の道の方が好きですが。
塔ノ岳への坂道になると、道は歩きにくくなり、額に汗が噴き出てきます。
12:59、塔ノ岳に到着。
なんと頂上一帯は、人、人、人。
およそ200名ほどはいます。
見晴らしは360度きく。湘南の海、横浜方面、秦野盆地、相模川流域、そして西に富士山や箱根連山。その左手(南方)に伊豆の山々。確かにここからは、夜景も綺麗だろうな、と思わせる景色です。
江戸時代、この塔ノ岳の頂上付近には、「尊仏岩」(通称「尊仏さま」)という高さ17~8メートルほどもある巨岩が立っていて山麓の村々の人々の信仰を集めていました(「農神さま」「雨乞いの神さま」として)。
『アルペンガイド 丹沢 大山・道志山塊』(山と渓谷社)の「尊仏岩雑記」(P98)によると、江戸時代より、毎年1回、5月15日に祭礼が開催され、山麓各村の人々がそれぞれのルートから登ってきて尊仏岩に詣で、岩の前に、稲・麦・粟などを供えて五穀豊穣を祈りました。
さらに、害虫除けになると信じられていた尊仏山付近の土を持ち帰って各戸の田畑にまき、また、この尊仏岩に付着した苔を煎じて飲むと貧血症などの病に効くと信じられていたために、これも持ち帰って集落の病人に分け与えていたそうです。
面白いのは、このお祭りでは、「尊仏さま」に向かう各ルート上の広場や塔ノ岳山頂の広場で賭博(とばく)が開催されていたということ。新緑がさわやかな春の山地の一角に陣取って、「丁々発止(ちょうちょうはっし)」と賭け事に興ずる農民・商人・博徒などの姿が見られたというのです。親・兄弟や友だちに誘われて「賭博」デビューをした若者もいたに違いない。
この尊仏岩は、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災のため崩れて大金谷に転落したため、当然のことながら現在は見ることは出来ません。
塔ノ岳山頂は見晴らしはいいものの、登山客で混んでいるのですぐに通過して、大倉に向かうルートを進みます。「鍋割山2.8km 大倉7km」「ヤビツ峠7.9km 三ノ塔4.2km」の標示。大倉7kmの道(大倉尾根。通称「バカ尾根」と言われて、秦野方面から丹沢に入る代表的なコースですが、相当にきつい登り道として有名)は、初めて通る道です。
途中、ガレ場ながらところどころに広場があります。村々が眼下に見え、里山の広がりが望めます。西には富士山が見え、また東には大山が見える。こういうところに莚(むしろ)を敷いて「丁々発止」とやっていたのでしょう。ともかく爽快な気分であったろう。
13:32、花立山荘。
14:31、木漏れ日の中で長めの休憩。見上げる新緑が、太陽の光りに透き通るよう。
この大倉尾根のガレ道・階段道は、下りるだけでもかなりきつい。登って来る人も多いし、また「ハアハア」言いながら上がって来るので、「こんにちわ」の声もかけづらい。 ハイカーの中には、70過ぎと思われる年配の女性もおられる。しかも1人で。ただ者ではない。
時々、走って下りていく猛者(もさ)もいる。
この大倉尾根を、重い荷物を背負って、走って上り下りする「ボッカ駅伝という競技があるとか。そのきつさはちょっと想像できない。私的には、やはり景色を楽しみながら、周囲に目をやりながら、ゆっくり歩きたい。
ベンチの隣に休憩した初老の男性に、
「下りるだけでもけっこうきついですねえ」
と声を掛けると、
「大倉を登れれば、日本中どこでも登れるというから。気をつけないと膝をやられる。階段を上るのはいいけれど、足が痛くて下りれなくなるよ」
とのこと。
と、話していると、少し離れたベンチに先ほど下から走りこんで来て、息を整えていた40ほどの男性が、私たちに話し掛けてきました。
実はその男性が、ボッカ駅伝の競技の参加者だったのです。
「リュックは何キロあるんですか」
「25キロ」
「中身は水ですか」
「石だよ。40キロを背負うのに誘われているけれど、ちょっと厳しいので20キロのに参加しています」
「靴は?」
「普通のランニングシューズ。登山靴はダメです」
ひとしきり話した後、その男性は25キロのリュックを背負って、そこから走って引き返していきました。
さて、丹沢や丹沢周辺で伐り出された木材や炭などの林産物ですが、それらは、相模川上流の場合、筏(いかだ)や帆船で下流の町に運ばれました。
玉切り→山落とし→修羅(しゅら)出し→中津川では一本ずつの菅流し・半原(はんばら)村より下流では筏流し→厚木より相模川を利用→平塚の須賀湊→江戸や小田原、 といった手順とルート(中津川・相模川利用の場合)です。
丹沢御料林の伐採は、明治の終わり頃から大倉組が一手に施業したらしい。神ノ川(かんのがわ)上流・早戸(はやと)川上流・玄倉(くろくら)川上流を大規模に伐採し、そこにアカマツ・スギ・ヒノキといった樹種(成長が早く収入の多い樹種。しかし、ブナやケヤキなどと違って、崩れ易い山地には一番弱い樹種)を適地・不適地の見境なく植えていきました。
これによる手ひどいしっぺ返しを受けたのが、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災と、翌13年(1924年)の丹沢地震。これにより丹沢はいたるところで崩壊してその山容を変え、川は土砂とともに流木がひしめきあい、アカマツ・スギ・ヒノキなどの造林地は跡形もなくなった、とのこと。
昭和7年(1932年)4月告示で、神奈川県「丹沢御下賜林」(おおよそ現在の県有林)
が決定。帝室(皇室)財産の「御料林」が、神奈川県に「下賜」されることになったのです。
そしてその年のうちに、蓑毛(みのげ)→札掛(ふだかけ)→宮ケ瀬を結ぶ「丹沢開発林道」の工事が着手され、昭和9年(1934年)に完工しました(戦後、昭和25年〔1950年〕に県道20号秦野清川線として県道に移管)。
昭和18年(1943年)より、全国的にブナ林が一斉に伐採されるようになります。ここ丹沢においても例外ではなく、山北の旧三保村浅瀬地区から森林軌道が敷設されて、切り出されたブナ材が大又沢に集積されました。また津久井郡内では、神の川林道が突貫工事で造られ、大規模なブナの伐採が行われました。それらにより、丹沢中腹のブナ林は姿を消しました。
なぜ、この時期、ブナが伐採されたのか。
ブナは、幹芯が捩(よじ)れていたために建築用材としては不適であって、「丹沢六木」の中にも入っていなかったはず。
実は、このブナの木は、その幹芯の捩れが飛行機(軍用機)のプロペラ材に適合していたのです。
そして戦後、県は、丹沢の天然林を大伐採して、スギ・ヒノキの人工林に変えていきました。それにより、標高800メートル以下の、土壌の堆積のよいところには、いたるところにスギ・ヒノキの人工林が広がることになったのです。以前は、標高800メートルの付近にもブナの原生林はあったのです。
小田原北条氏の時代、丹沢は「御留山」で、山奉行が置かれて管理がなされていたことは先に触れました。「六木御留山」として北条氏が伐採を禁止したのは、「スギ・ヒノキ・モミ・ツガ・ケヤキ・ブナ」の「六木」でした。ブナがなぜ入っているのかというと、ブナは、ケヤキとともに根張りが強く、山を守り崩落地を安定させる木であったからです。それに対してスギ・ヒノキ・マツは、確かに建築用材として有用ではあるものの、根張りが弱く崩壊を招きやすい。つまりブナやケヤキは山を守る樹木であったのです。小田原北条氏は、ブナやケヤキの伐採を禁ずることによって、丹沢の「自然保護・生態系の保全」を行っていたことになります。
それに対して、江戸幕府が伐採を禁じた「丹沢六木」は、すべて建築用材として有用な樹種でした。幕府は、樹木を建材としてしか考えていなかったのです。
その考え方は、明治以後も受け継がれ、関東大震災での丹沢の大規模な崩壊を招いた要因になったと考えられます。
またブナの原生林の大規模伐採は、戦争(第2次世界大戦・軍用機のプロペラ材)と深くつながってもいたのです。
この事実を、私は、つい最近まで知りませんでした。
知ったのは、『丹沢を駆け抜けた戦争』という、秦野の「夢工房」という出版社が出した小冊子によってでした(先の記述の多くは、これに拠っています)。
さて、大倉尾根に戻ります。
15:06、観音茶屋。あと大倉まで1.6キロ。
犬の野太い鳴き声が遠くから響いてきて、人里が近いことを感じさせます。
15:30、人家が見えてきました。左手に乗馬クラブ。バス停まで0.6キロ。
無事、下山したことを妻に携帯で連絡していると、秦野戸川公園のバス停が見えてきたのですが、ざっと60名ほどのハイカーが列をつくってバスを待っていました。バス停周辺には、トイレを利用する人、ベンチに座って休息する人、靴を洗う人、アイスクリームを食べる人……。
私もさっそくトイレに寄り、水場で靴にくっついた泥を洗い落としました。
15:58、ぎゅうぎゅう詰めになったバスに乗り、16:10に渋沢駅着。
小田急線で、16:49、本厚木駅着。
駅前の有隣堂(書店)に立ち寄って見つけたのが、先に紹介した『丹沢を駆け抜けた戦争』という小冊子でした。ほかに『厚木の歴史探訪 4 寺院』『同 5 神社』(厚木市文化財協会)も購入。
バスセンター近くの「福家(ふくや)書店」にも立ち寄り、18:20発のバスに乗って、家路につきました。
途中、西の方向(進行方向左手)に、大山・大山三峰(みつみね)・丹沢山系が、影絵のように黒く横たわり、その上に、薄く夕焼け色になった空が広がっていました。
あの大山のてっぺんを、今日の昼ごろは竜ケ馬場よりおにぎりをほうばりながら見下ろし、その大山の右手に長く伸びる丹沢三ツ峰の稜線を、新緑に包まれながらウォーキングしたのです。 感慨無量!!
昨年ゴールデンウィーク明けからの、まる1年間の早朝ウォーキング。その結果として今日がある。我ながらよく頑張ったものだ、と、自らを褒めるばかり。
一時期、体調を崩した時には、山歩きはもう出来ないものとあきらめていたのですが、朝のウォーキングの継続により、ここまで心肺機能も、足腰も回復した。体重も1年間で10キロ減(昨夜、達成!)。眼圧も、右19、左16であったのが、それぞれ16、13に。きちきちであったズボンがだぶだぶに。
翌日以後も、ふくらはぎが痛くなったりして歩行困難になることもなし。膝が痛むこともなし。ただ足の裏の筋肉と、左足のつま先が(大倉尾根のきつく長い下りの際に、体重がかかったため)痛くなった程度でした。
日ごろ、トレーニングをしておけば、長い山歩きをしても、足は痛くならないものだということを初めて知りました。
そう言えば、若い時は、準備もせず、力まかせに、大股で、山歩きをしていたっけ。あれじゃ、足が痛くなるのはあたりまえでした。
ということで、目標10キロ減を達成しましたが、今後も、朝のウォーキングを継続していくことにします。
では、また。
○参考文献
・『アルペンガイド 丹沢 大山・道志山塊』(山と渓谷社)
・『丹沢を駆け抜けた戦争』生命の環・むすびの衆 企画・編集(夢工房)
※「軍用機のプロペラ材にされた檜洞丸のブナ」(篠田健三)
「札掛のモミ原生林は何故守られたのか」(加藤利秋)
・『厚木市史史料集(4)地誌編』(厚木市役所)