鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.4.新緑の丹沢三ツ峰縦走  その1

2007-05-03 07:11:41 | Weblog
 登山口から見上げる薄明の空は、雲一つない。まったくの快晴でまさに登山日和。コンクリート製の階段をゆっくり登り始めると、近くの山の中からうぐいすの鳴き声が聞こえ、遠くでカラスの鳴き声も聞こえます。

 5:12、向かい側の山の斜面の上部が朝陽で輝き始め、東側の経ヶ岳の上の空が、やはり朝陽で白くなってきました。登山道に差し掛かる木々の新緑が、可憐さを感ずるほどにみずみずしい。山の一日の始まりです。

 春の木丸を登った時から、歩数2000歩で休憩を入れることを原則としています。登りは歩幅を極力狭くして、歩数を稼ぐようにする。なだらかな尾根道は、いつものウォーキングよりはゆっくり目に歩く。

 5:25、仏果山(ぶっかさん)の稜線上に朝日が輝きながら差し上ってきたのを、新緑の間から見詰める。木の幹の、朝陽に当たっている半面が白く輝き、山中から山鳩の声が聞こえます。

 三差路のバス停に、宮ケ瀬行きの本厚木からの一番バスが到着するのは、7:39。東京方面からやって来る登山客は、たいていはこのバスを利用して登山道に入りますが、私の場合はそれよりも3時間近く早く、日の出とともに取り掛かることが出来る。まったく地の利だといっていい。

 左手に杉林、右手に雑木林を見て、6:30に「高畑山山頂0.2km」の標示があるところに到着。この高畑山は先日登ったので、やり過ごし、先に進みます。

 高畑山は、頂上付近がたいらに広がっているのですが、ここは宮ケ瀬村(現在は湖の下)のカヤ場として昭和30年頃まで利用されたところ。カヤは、萱葺(かやぶ)きの屋根や炭俵の原料として利用されたもので、村や集落ごとに共有のカヤ場がかつてはありました。12月のカヤ刈りは、村人総出で行われたということです。
 ということは、毎年12月には、この宮ケ瀬から高畑山までの山道は、カヤを背に担いだ宮ケ瀬村の村人たち(老若男女)で賑わったということになります。

 左手が崖となり木橋をいくつか渡ります。崖崩れで垂れ下がっている木橋もある。
 
 6:51、右手はるか下の方に「虹の大橋」が小さく見えました。下からゴーゴーという音が聞こえてきます。早戸川(はやどがわ)上流の「幻の大滝」の滝音でしょうか。

 鉄板の橋をいくつか渡ると、新しい道標。「丹沢山6.2km 宮ケ瀬4.6km」。左手の切り立った斜面に延びる道を進むと、やがて「金冷し」という難所に差し掛かります。大きな岩の上にへばりつくようにして上がり、木橋を渡る。この木橋がないと、ここは確かに怖いところです。しばらく進むと、周囲の開けた尾根道に出ます。7:10。
 ここでやや長めに休憩をとることにしました。

 周囲の山々の濃淡あい混ざった緑を眺めながら、スポーツドリンクを飲む。うぐいすの伸びやかで軽やかな鳴き声とともに、「ホッホッホッー」という低く響く鳥の鳴き声も聞こえます。「ピーピーピー」という甲高い鳥の鳴き声も。なんという鳥なのだろう。鳥の名前や草花の名前を知っていると、もっと山歩きが楽しくなるのでしょうが。

 さらに進むと、「丹沢山5.4km 宮ケ瀬5.6km」の道標。7:30。左手下方からせせせらぎの音。丹沢山までの行程の半分を過ぎたことになります。ここまで2時間40分。

 ここからの登りがややきつく、汗が額に噴き出てきます。「歩数を稼げる」という気持ちで、出来るだけ歩幅を短くしてゆっくりゆっくりと登る。

 7:55、初めて登山客に会いました。30代後半の男性。ハンドタオルで顔の汗を拭き拭き会話。

 昨日は「みやま(山荘)」(丹沢山頂にある山小屋)に泊まったとのこと。天気が崩れて、14:00過ぎには雹(ひょう)が降り、丹沢山には雪も積もったらしい。これから宮ケ瀬の三差路まで行き、バスで帰るとのこと。

 「あと何時間ほどでしょう」
 「ここまで宮ケ瀬から3時間かかっているから、あと2時間くらいでしょう」
 「どちらまで」
 「大倉まで。大倉から渋沢へ出ます」
 「すごいですね」
 「え、まあ」

 「すごいですね」と言われて、まんざらでもない気分を味わう。

 やりとりをノートに記録していると、今度は20代半ばの青年がやって来ました。2人目です。

 しばらく進むと、登山道の両側にブナの木が見え始めました。前方から人の声。30代
半ばかと思われる男女二人連れ。さらに4人の男性に会いました。

 立ち枯れて道を塞いでいるブナの木がありました。

 8:50、「本間の頭」に到着。標高1345メートル。標高差1000メートルほどを登ったことになります。60代かと思われる2人の登山客が休憩していました。二人連れではなさそう。お一人は、昨日午後2時頃に「みやま(山荘)」に入り、もうひとかたは午後3時過ぎに「みやま」に入ったとのこと。午後2時頃、雹が降り、その上に雪が積もったそうです。

 「いやあ、みやまはきれいになりましたよ。前は崩れそうな建物だったのに。鹿が少なくなりました。丹沢山には昔いっぱいいたけれど」

 「鍋割(山)には3頭いたよ」

 ともうひとかた。

 「今日は富士山がきれいに見える。南アルプスもよく見えるよ」

 これから三差路へ出て、本厚木駅から小田急線で東京に帰られるとのこと。

 「昨年の5月3日にも登ったが、あの時に較べると登山客は少ないね。天気はいいけれど、カラッとはしていないね」
 「ここの標高はどれぐらいでしょう」
 もうひとかたが、登山地図を見ながら「1345メートルですよ」と教えてくれました。

 宮ケ瀬では、近世の遺跡から炭焼き窯の跡が発見され、炭焼きが行われていたことを知ることが出来ますが、丹沢山麓の多くの村々が炭焼き窯を築いて炭を焼くようになったのは、明治後半頃からだそうです。戦中・戦後(第2次世界大戦)の頃には、燃料不足のため国が炭焼きを奨励したことにより、山のいたるところで炭焼きの煙が立ち上っていたそうです。宮ケ瀬村の炭焼き職人は、この「本間の頭」あたりまで炭焼きのために通ったと言われています。

 江戸時代、この「裏丹沢」を含む東丹沢一帯は、江戸幕府直轄の御林で、「丹沢御林」「丹沢御留山(おとめやま)」などと呼ばれていました。モミ・ツガ・ケヤキ・スギ・カヤ・クリは「丹沢六木」と言われ、「御用木」として伐採が禁じられていました。丹沢で有名なブナは、幹芯が捩(よじ)れて成長するため建築用材としては不適であり、「丹沢六木」の中には入っていません。

 「丹沢御林」の見回り役を課せられたのは、愛甲郡の宮ケ瀬村と煤ケ谷(すすがや)村、大住郡の寺山村と横野村の、合わせて四ケ村。その代わり年貢・諸役を免ぜられていました。

 江戸からの役人が、「丹沢御林」の見回りのために丹沢に入っていく道=「丹沢御林道」というのが、江戸期にはありました。厚木からの場合、横町(今の元町)→戸室・林の境の坂→尼寺原→矢崎→白山橋→むじな峠→煤ケ谷(→札掛〔ふだかけ〕)→宮ケ瀬→丹沢山中、というコースでした。もう一つの「丹沢御林道」は、菩提→菩提峠→諸戸山林→札掛のコースでした。

 ということは、この宮ケ瀬から丹沢山へ向かう山道は、江戸からやってきた役人が、宮ケ瀬村の見回り役の者たちに案内されて、「御林」「見回り」のために通った道でもあったのでしょうか。

 9:12に、「宮ケ瀬8km 丹沢山3km」の標示。この辺りはブナの倒木が目立ちます。

 9:17、背後から30代の若い男性がやって来ました。6:00に宮ケ瀬から登ってきたとのこと。私より1時間もあとに登り始めて、もう私を追い越す。若いんだなあ。宮ケ瀬までは車で来たようです。丹沢山に行って戻るとのこと。ここまで4時間ちょっと歩いて、私を追い抜いた人は初めてです(以後、丹沢山まで1人もいませんでした)。

 「けっこうきついですね」
 とその青年。
 「けっこうアップダウンがありますからね」
 と私。

 ここからの尾根道からは、大山・大山三峰(みつみね)越しに平野が見え、日の光を反射した屋根が点々と光っています。

 しばらく行くと5人のハイカーが下りてきました。男性が2人に女性が3人。50代前後でしょうか。うち1人の女性は、両手にアイゼンを持って、さっそうと坂道を下りていきました。見るからに都会の人のよう。

 「円山木の頭」に到着。先ほど追い越していった青年と、60代の男性が休んでいました。あとで青年が追い抜いていった時、「あのおじいさんは、道に迷って、道なき道を上がってきたのだ」と、教えてくれました。

 10:02、「太礼の頭」(標高1352m)に到着。ブナの大木が周囲に立ち並んでいます。15年ほど前に丹沢山に初めて登った時、流れる霧の中からブナの林が立ち現れてきたのはこのあたりだったでしょうか。

 日差しが暑くなってきました。南に丹沢山、その右手に蛭ケ岳が見えます。
 手前のブナの木の根元には、紺色の保護網がめぐらしてあります。
 
 歩きやすい尾根道の両側には、「植生保護柵」が延びています。

 10:17、緑濃い苔の生えた、白く巨大なブナの倒木に座って、長めの休憩を取りました。周囲のブナの枝ぶりは、空につかみかからんばかりの荒々しさ。若芽が出、葉が出揃うと、この目の前のブナ林の光景は一変するに違いない。その頃にまたここにやって来たいもの。

 うぐいすの伸びやかな声を聴きながら、10:27出発。女性のハイカーがやって来ました。この辺りで女性1人は珍しい。

 やがて堂平分岐点。「堂平2.5km 丹沢山0.2km」の標示。
 見晴らしが一気に広がりました。大山の両側に平野が広がり、家々の屋根が点々と光っている。

 丸太の階段の下やブナの木の根元の日陰の部分には白い雪が残っています。昨日の午後に降った雪。

 11:10、丹沢山に登頂。
 
 西方に見える富士山は、頂上付近が浮かび上がるように白く光り、その白い頂きの下に薄紫色のもやがかかり、そのもやの下にすそ野が青く広がっていました。このような富士は初めて見ました。 そして右手やや離れたところに、意外と小さく南アルプスの白い稜線が浮かんでいました。

 丹沢山頂の広場には40名ほどの登山客が休憩していました。頼まれて記念写真を撮り、そしてまた記念写真を撮ってもらいました。
 
 「よかったわー。ほんとうに幸せー」と、感嘆していた中年の女性の姿が印象的でした。


 ということで、今回はここまで。

 続きは次回。

 では、また。


○参考文献

・『丹沢自然ハンドブック』(自由国民社)
・『厚木産業史話』厚木市史編纂委員会(厚木市役所)


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