1865年3月17日(和暦2月20日)の金曜日の午後、プチジャン神父は、天主堂(「二六殉教者教会」=現在の「大浦天主堂」)の入口に、男・女・子供の12人ないし15人の一団が、単なる好奇心だけでもない様子でたたずんでいるのを見かけます。
プティジャンは彼らのいる入口に行き、閉まっていた扉を開いて、彼らを招きいれました。
彼らとともに天主堂の中に入ったプティジャンは、祭壇の前に跪(ひざまず)き、主イエス・キリストを称(たた)え、「願わくば、私の唇に、人々の心を打つような、また私の周りの人々のうちから神の賛美者を得ることのできるような言葉を与え給わんことを」と祈りました。
すると、すぐに、50ないし60歳の3人の女性がやってきて、プティジャンのすぐ傍に跪き、そのうちの1人が胸に手を当てて、壁が彼女の声を聞くのを恐れるかのように低い声でプティジャンに言いました。
「ここにいる私たち一同は、あなたさまと同じ心の者です」
驚いたプティジャンは問いかけました。
「本当ですか。だが、あなたたちはどこから来たのですか」
「私たち一同は浦上の者です。浦上ではほとんど皆が私たちと同じ心を持っています」
そしてすぐに、この女性は、プティジャンに問いました。
「サンクタ・マリアの御像はどこ……」
感動と幸福感に満たされたにプティジャンは、その日まで知らなかった人々に囲まれ、父親を見つけた子供にせがまれるように促されて、彼らを聖マリアの祭壇へ導きます。
マリア像を見た人々は、
「そうだ、確かにサンクタ・マリアだ、御子ジエズスさまを抱いていらっしゃる」
と口々に叫びます。
傍にいた1人は、「四旬節」のことを語り、また彼らは「聖ヨセフ」のこともプティジャン神父に語ります。
しかし、役人がいつやって来るかも知れず、彼ら浦上村のキリシタンたちは名残惜しそうに天主堂を出て行きますが、プティジャンはその時、彼らに再び天主堂にやってくることを約束させました。
すると、翌日から、大勢のキリシタンたちが天主堂にやって来るようになったのです。
「三月十八日土曜日─朝10時から夜まで訪問者の群がつづいた。この異常な雑踏を不審に思った日本の役人は警戒心を強めた。…横浜での経験から、ローカニュと私は少し離れていた」
「三月十九日日曜日(聖ヨセフ祝日)─前日と同じ雑踏。…彼らの一人は…我々にこう告げた。『浦上ではすべての者が我々と同じではありません。お上の密偵が我々を探っています。同じ心をもっている者たちのなかにも、教えをよく知らない者が何人もいます。』」
「三月二十日月曜日─訪問者の数はさらに増えた。役人は教会の近くに立ち止(どま)って見張っていた。切支丹はこれらの二本差しをまるで火のように恐れていたが、宣教師と話すのを強く望んでいた」
「三月二十一日火曜日─朝10時から、訪問者の雑踏が再び始まった。役人は昨日のように見張っていた。教会の隣りの寺が見張小屋のようになった」
「三月二十二日水曜日─切支丹は確かに我々の勧告を伝えた。彼らのくるのは少なくなった。役人は姿を消した、そうでないとしても我々をだますために刀をはずした」
この「信徒発見」後も、プティジャンは、大村町の「語学所」でフランス語を教えることを継続しています。「三月二十三日木曜日」に次のように書いています。
「奉行は、私が学校で毎日引続き二時間フランス語の授業をするのに幾分満足しているようだが、もし我々が自由を得て人々に教えを説くようになったら、私をキリスト教に対するこの国の根づよい憎しみの犠牲にするに違いない」
この「信徒発見」以来のプティジャンの記述を見てみると、プティジャンは相当に日本語を聞き取ることが出来、また日本語を話すことが出来たことがわかります。
これはジラール神父やメルメ・カションにも共通することでした。
4月13日(和暦3月18日)と14日(同19日)には「異教徒」の盛んな祭りがあるために多くの者が長崎に集まり、天主堂にもおよそ1500人が見物にやってきます。
「九州の各国から人々がきた。プティジャンはかつて琉球であったことのある鹿児島人を見つけた。京都や、もっと遠い所からきた人もいた。宣教師ができる限りのことをしても、大勢の者が彼らの住宅にまで侵入してきた。切支丹はこれに便乗して、十字架と聖母像の前で秘(ひそ)かに彼らの信仰を満足させるのだった。十四歳の子供のパウロはそこにやってくるのに困難や危険にさえさらされたことを語って、『見つかったら、我々は投獄されるか死刑になります』と言った。それなのに、彼が宣教師と別れる時は心残りの様子だった」
6月30日(和暦閏5月8日)、プティジャンは、彼がフランス語を教える「語学校」での、次のようなエピソードを紹介しています。
「我が日本人は、あなたがたが我々に送って下さった本を少しカトリックすぎると思っています。彼らは一目見て気にいらない部分を切りとろうとしました。私はあらゆる点からみて無礼なこの行為に抗議しました。彼らが一字でも消すなら、私は授業をやめるといって脅(おど)しました。そこで彼らは宗教については決して話さないと約束させようとしました。私はなぜこのような提案が私に対してなされるのか分らない、それに応ずるのは私として極めて卑怯なことになる、私の授業中に生徒と十分な自由を享受できないなら他に教師を探したらよかろう、と答えました。彼らは私に対し言訳をし、江戸からの回答があるまで私の要求を認めました」
このことから分かることは、プティジャンは、この時点ですでにフランスから送ってきた本を教科書として使用していること、そしてどうやらキリスト教的な内容を授業において教えようとしていること、です。
プティジャンの言う「我が日本人」「彼ら」とは誰か。
文面から言って生徒ではなさそうです。
生徒ではなくて、プティジャンと接し、「宗教については決して話さないと約束させよう」とする人物(しかもフランス語の本の内容を理解することが出来る)となると、これは仏語長の平井義十郎と教員の志筑(しつき)龍三郎のことではないか。そう思われてきます。
「語学校」で、プティジャンのフランス語の授業を受ける生徒は、およそ20名。平井や志筑は、その生徒たちの監督(さらにはプティジャンとの折衝およびその監督)を行う立場にいたはずなのです。
プティジャンは、平日の「語学校」での授業を継続しながら、大胆にも浦上村に自ら足を運び、また「夜の遠出」をするようになります。7月(西暦)に入ってからのことです。
そして9月13日(和暦7月24日)から14日(同25日)にかけての夜には、西彼杵(にしそのぎ)半島の外海に面した小さな村、出津(しつ)に出かけています。
「夜は暗く、変装の必要はありませんでした。私は法衣を着て大胆な案内人とともに海岸に向かいました。航海も、上陸も、すべて無事に行われました。夜八時に出発し、十一時半に到着しました。この間、七人の頑強な漕ぎ手が私を七里の海上を運んでくれました。私が山の頂きにあって私の隠れ家となる小さい家に着くと、そこには三〇人以上の人がきていました」
この後、プティジャンとローカニュは、浦上・出津ばかりか、神ノ島・馬込・蔭尾島・平戸・五島・鷹島・生月などにいる信者たちとも連絡をとるようになります。
プティジャンとローカニュの仕事は増え、疲労は蓄積されていきます。徹夜仕事が続き、またプティジャンには、日中、新町の「済美館」(和暦慶応元年〔1865年〕8月に開校)に出向いてフランス語を教えるという仕事がありました。
「ローカニュと私は仕事に忙殺されています。そのためにすべてがその影響をうけます。我々は仕事の増えることはいやではありません。しかし我々は、親愛な切支丹にもっと役にたつようなやり方でそれをしたいのです」
土佐の高知城下から、中江兆民(篤助)が藩の留学生として長崎にやってきて、済美館においてプティジャン神父からフランス語を教わるようになるのは、この年の秋(おそらく10月〔和暦〕頃)のことでした。
これまでの記述からわかる通り、プティジャンは、この時期、夜も昼も、神父としての仕事(各地のキリシタンたちとの対応)、そして教師としての仕事(済美館におけるフランス語教授)に忙殺されていたのです。
○参考文献
・『人物中心の日本カトリック史』池田敏雄(サンパウロ)
・『日本キリスト教復活史』フランシスク・マルナス 久野桂一郎訳(みすず書房)
※この回の記述も、ほとんどがこの本に拠っています。
プティジャンは彼らのいる入口に行き、閉まっていた扉を開いて、彼らを招きいれました。
彼らとともに天主堂の中に入ったプティジャンは、祭壇の前に跪(ひざまず)き、主イエス・キリストを称(たた)え、「願わくば、私の唇に、人々の心を打つような、また私の周りの人々のうちから神の賛美者を得ることのできるような言葉を与え給わんことを」と祈りました。
すると、すぐに、50ないし60歳の3人の女性がやってきて、プティジャンのすぐ傍に跪き、そのうちの1人が胸に手を当てて、壁が彼女の声を聞くのを恐れるかのように低い声でプティジャンに言いました。
「ここにいる私たち一同は、あなたさまと同じ心の者です」
驚いたプティジャンは問いかけました。
「本当ですか。だが、あなたたちはどこから来たのですか」
「私たち一同は浦上の者です。浦上ではほとんど皆が私たちと同じ心を持っています」
そしてすぐに、この女性は、プティジャンに問いました。
「サンクタ・マリアの御像はどこ……」
感動と幸福感に満たされたにプティジャンは、その日まで知らなかった人々に囲まれ、父親を見つけた子供にせがまれるように促されて、彼らを聖マリアの祭壇へ導きます。
マリア像を見た人々は、
「そうだ、確かにサンクタ・マリアだ、御子ジエズスさまを抱いていらっしゃる」
と口々に叫びます。
傍にいた1人は、「四旬節」のことを語り、また彼らは「聖ヨセフ」のこともプティジャン神父に語ります。
しかし、役人がいつやって来るかも知れず、彼ら浦上村のキリシタンたちは名残惜しそうに天主堂を出て行きますが、プティジャンはその時、彼らに再び天主堂にやってくることを約束させました。
すると、翌日から、大勢のキリシタンたちが天主堂にやって来るようになったのです。
「三月十八日土曜日─朝10時から夜まで訪問者の群がつづいた。この異常な雑踏を不審に思った日本の役人は警戒心を強めた。…横浜での経験から、ローカニュと私は少し離れていた」
「三月十九日日曜日(聖ヨセフ祝日)─前日と同じ雑踏。…彼らの一人は…我々にこう告げた。『浦上ではすべての者が我々と同じではありません。お上の密偵が我々を探っています。同じ心をもっている者たちのなかにも、教えをよく知らない者が何人もいます。』」
「三月二十日月曜日─訪問者の数はさらに増えた。役人は教会の近くに立ち止(どま)って見張っていた。切支丹はこれらの二本差しをまるで火のように恐れていたが、宣教師と話すのを強く望んでいた」
「三月二十一日火曜日─朝10時から、訪問者の雑踏が再び始まった。役人は昨日のように見張っていた。教会の隣りの寺が見張小屋のようになった」
「三月二十二日水曜日─切支丹は確かに我々の勧告を伝えた。彼らのくるのは少なくなった。役人は姿を消した、そうでないとしても我々をだますために刀をはずした」
この「信徒発見」後も、プティジャンは、大村町の「語学所」でフランス語を教えることを継続しています。「三月二十三日木曜日」に次のように書いています。
「奉行は、私が学校で毎日引続き二時間フランス語の授業をするのに幾分満足しているようだが、もし我々が自由を得て人々に教えを説くようになったら、私をキリスト教に対するこの国の根づよい憎しみの犠牲にするに違いない」
この「信徒発見」以来のプティジャンの記述を見てみると、プティジャンは相当に日本語を聞き取ることが出来、また日本語を話すことが出来たことがわかります。
これはジラール神父やメルメ・カションにも共通することでした。
4月13日(和暦3月18日)と14日(同19日)には「異教徒」の盛んな祭りがあるために多くの者が長崎に集まり、天主堂にもおよそ1500人が見物にやってきます。
「九州の各国から人々がきた。プティジャンはかつて琉球であったことのある鹿児島人を見つけた。京都や、もっと遠い所からきた人もいた。宣教師ができる限りのことをしても、大勢の者が彼らの住宅にまで侵入してきた。切支丹はこれに便乗して、十字架と聖母像の前で秘(ひそ)かに彼らの信仰を満足させるのだった。十四歳の子供のパウロはそこにやってくるのに困難や危険にさえさらされたことを語って、『見つかったら、我々は投獄されるか死刑になります』と言った。それなのに、彼が宣教師と別れる時は心残りの様子だった」
6月30日(和暦閏5月8日)、プティジャンは、彼がフランス語を教える「語学校」での、次のようなエピソードを紹介しています。
「我が日本人は、あなたがたが我々に送って下さった本を少しカトリックすぎると思っています。彼らは一目見て気にいらない部分を切りとろうとしました。私はあらゆる点からみて無礼なこの行為に抗議しました。彼らが一字でも消すなら、私は授業をやめるといって脅(おど)しました。そこで彼らは宗教については決して話さないと約束させようとしました。私はなぜこのような提案が私に対してなされるのか分らない、それに応ずるのは私として極めて卑怯なことになる、私の授業中に生徒と十分な自由を享受できないなら他に教師を探したらよかろう、と答えました。彼らは私に対し言訳をし、江戸からの回答があるまで私の要求を認めました」
このことから分かることは、プティジャンは、この時点ですでにフランスから送ってきた本を教科書として使用していること、そしてどうやらキリスト教的な内容を授業において教えようとしていること、です。
プティジャンの言う「我が日本人」「彼ら」とは誰か。
文面から言って生徒ではなさそうです。
生徒ではなくて、プティジャンと接し、「宗教については決して話さないと約束させよう」とする人物(しかもフランス語の本の内容を理解することが出来る)となると、これは仏語長の平井義十郎と教員の志筑(しつき)龍三郎のことではないか。そう思われてきます。
「語学校」で、プティジャンのフランス語の授業を受ける生徒は、およそ20名。平井や志筑は、その生徒たちの監督(さらにはプティジャンとの折衝およびその監督)を行う立場にいたはずなのです。
プティジャンは、平日の「語学校」での授業を継続しながら、大胆にも浦上村に自ら足を運び、また「夜の遠出」をするようになります。7月(西暦)に入ってからのことです。
そして9月13日(和暦7月24日)から14日(同25日)にかけての夜には、西彼杵(にしそのぎ)半島の外海に面した小さな村、出津(しつ)に出かけています。
「夜は暗く、変装の必要はありませんでした。私は法衣を着て大胆な案内人とともに海岸に向かいました。航海も、上陸も、すべて無事に行われました。夜八時に出発し、十一時半に到着しました。この間、七人の頑強な漕ぎ手が私を七里の海上を運んでくれました。私が山の頂きにあって私の隠れ家となる小さい家に着くと、そこには三〇人以上の人がきていました」
この後、プティジャンとローカニュは、浦上・出津ばかりか、神ノ島・馬込・蔭尾島・平戸・五島・鷹島・生月などにいる信者たちとも連絡をとるようになります。
プティジャンとローカニュの仕事は増え、疲労は蓄積されていきます。徹夜仕事が続き、またプティジャンには、日中、新町の「済美館」(和暦慶応元年〔1865年〕8月に開校)に出向いてフランス語を教えるという仕事がありました。
「ローカニュと私は仕事に忙殺されています。そのためにすべてがその影響をうけます。我々は仕事の増えることはいやではありません。しかし我々は、親愛な切支丹にもっと役にたつようなやり方でそれをしたいのです」
土佐の高知城下から、中江兆民(篤助)が藩の留学生として長崎にやってきて、済美館においてプティジャン神父からフランス語を教わるようになるのは、この年の秋(おそらく10月〔和暦〕頃)のことでした。
これまでの記述からわかる通り、プティジャンは、この時期、夜も昼も、神父としての仕事(各地のキリシタンたちとの対応)、そして教師としての仕事(済美館におけるフランス語教授)に忙殺されていたのです。
○参考文献
・『人物中心の日本カトリック史』池田敏雄(サンパウロ)
・『日本キリスト教復活史』フランシスク・マルナス 久野桂一郎訳(みすず書房)
※この回の記述も、ほとんどがこの本に拠っています。
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