鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その2

2015-04-02 06:25:44 | Weblog

 国道42号を伊良湖岬方面へと走り、途中で右折し、伊良湖小学校近くの空き地に車を停めたのが13:48。

 電柱に例の標高を示す標示があり、それには「ここの地盤の高さ海抜19.5m 伊良湖小学校」とありました。

 小学校の近くの広場にポツンと白い鳥居が立っており、コンクリート舗装の参道が藪の中へと延びています。

 これが伊良湖神社の参道だろうと判断して、その参道を進んで行くと、手水鉢のある小屋があり、奥の板壁には「平成二十六年度 初穂料奉納者」の名前が並んでいます。

 「小久保」姓の名前が多いのに気付きました。

 「小久保」と言えば、崋山の供人の鈴木喜六の縁者が住む堀切村(曹洞宗の常光寺があるところ)には小久保姓が多く、喜六の縁者も「小久保三郎兵衛」なる者でした。

 さらに進むと突き当りに注連縄をまいた大きな岩が突き出したところがあり、そこで参道は左折し、石段が続き、その石段を上がって行くと伊良湖神社の本殿がありました。

 きれいな茅葺き屋根の拝殿のある立派な社殿です。

 参道も含めて、伊勢神宮のミニチュア版を連想させるような雰囲気を漂わせています。

 「伊良湖神社」と記された案内板があり、それには、「明治三十八年伊良湖試砲場用地拡大に伴う集落移転の際、伊勢湾が一望できる宮山から現在地に遷座された」とありました。

 ということは、この伊良湖神社(かつては伊良湖明神)があった場所は、江戸時代においてはここではなく、伊勢湾が一望できる「宮山」にあったということになります。

 また伊良湖の集落も、「集落移転」したということであるから、かつての集落のままではなくなっているということになります。

 堀切村の小久保家を出立した崋山一行は、砂浜を抜け、さらに砂地の松林を抜けて、伊良湖明神の山下にある伊良湖村へと至り、その中の一軒、半農半漁の富農である彦次郎というものの屋敷にひとまず落ち着きました。

 崋山は以前(文政10年〔1827年〕)、三宅友信に従って田原に来た際、伊良湖明神に詣でたことがあり、その時、この彦次郎宅に宿泊したことがありました。

 この彦次郎宅は、伊良湖明神に参詣に来た人々が泊まる家でもありました。

 崋山はこの彦次郎家と伊良湖明神のある「宮山」をスケッチしています。

 彦次郎家はスケッチを見ると山の麓にあるようであり、2階建ての家屋が2棟並んでおり、屋敷の前には広い庭を隔てて田んぼか畑があるようです。

 おそらく「宮山」の麓にあったものと思われる。

 「宮山」のスケッチを見てみると、麓から石段の参道がまず横へと延び、突き当たってから今度は左折して、そこから急な石段が上へ上へと延び、その頂上付近と思われるところに社殿が描かれています。

 まず横に参道が延び、突き当たったところで左折して、石段が上へと続いているという点では、現在のものと共通し、また伊勢神宮とも共通するところ。

 途中の大きな常夜燈も描かれているし、参道登り口にある人家も描かれています。

 これが明治38年(1905年)遷座以前の伊良湖明神であり、崋山が文政10年(1827年)と天保4年(1833年)に参詣した伊良湖明神になります。

 伊良湖明神はかつては「宮山」の山頂付近にあったことになります。

 そして伊良湖村の人家は、崋山が記すように、「明神の山下」の「ところどころに」散在しており、「海風いとはげしけれバ」「多くは瓦屋(瓦屋根)」であったのです。

 彦次郎家に立ち寄った崋山一行は、それから伊良湖明神に参詣しますが、その間に神島へと至るための船(小さい帆船)の手配がなされています。

 ということは、おそらくその手配は彦次郎家が行ったものと考えられます。

 崋山は彦次郎家で、神島に渡りたいので一艘の船を雇いたいのだがと話を持ち掛け、彦次郎家が浜の知り合いへと船の手配をしたのでしょう。

 「けふハ伊良虞(いらご)の船をやとひたれバ、この浜よりぞ纜(ともづな)をとくなり」と崋山は記しています。

 彦次郎家より伊良湖の浜はそれほど遠くではない。

 そして「古山」の鼻(伊良湖岬の西端)を船が通過していくスケッチを見れば、伊良湖の「浜」とは、伊勢湾に面した現在の「ココナッツビーチ伊良湖」という海水浴場のあるあたりではなかったかと推定されます。

 かつての伊良湖の集落は、「宮山」の北側の麓一帯から浜辺にかけてあったのではないか。

 それが明治38年(1905年)の「伊良湖試砲場用地拡大」のために集団移転したことになり、またそれに伴って、宮山の頂上付近にあった伊良湖明神も「現在地に遷座」されることになったのです。

 崋山の「宮山」のスケッチは、今はなき、かつての伊良湖明神の姿を描いた貴重なものと言えるでしょう。

 では、「伊良湖試砲場」とは何なのか、という新たな疑問と興味関心が湧いて来ました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・「近代デジタルライブラリー 参加『』



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