攻撃開始予定日の2日前である11月1日、勿来(なこそ)の倉庫で誤爆事故が発生。負傷者は水戸の陸軍病院に運ばれたものの6名のうち3名が死亡しました。また攻撃開始予定日の3日にも、大津基地で誤爆事故が発生して3名が死亡しました。
そういったこともあって放球が開始されたのは11月7日。ついに下士官の「上げ!」の号令とともに、10m気球が空に上げられました。
「Wikipedia」の「風船爆弾」では、真ん丸にふくらんだ写真が掲載されていますが、打ち上げの際には、気球は下部がしぼんでおり「くらげ」のような形をしていました。というのは、水素ガスをいっぱいに入れて気球を放つと、気圧の低下とともに水素ガスが膨張し途中で気球が破裂してしまうからでした。気球には6割弱の水素ガスしか充填されなかったために、気球は上の方が膨らみ下の方がしぼんでいたのです。
常磐線の列車の乗客には、秘密保持のために窓のブラインドを下げるよう憲兵から命じられたとのこと。
さて、アメリカ大陸には風船爆弾は到達したのか。
11月14日、ハワイの沿岸警備隊が紙製の気球を発見しました。
12月6日、ワイオミング州のサーモポリスで風船爆弾が爆発炎上。
その後、アラスカ、カナダなどでも風船爆弾が発見されました。
1945年1月4日、オレゴン州メッドフォードの南1マイルの地点で気球の炸裂が目撃されました。カリフォルニア州セバストポールで紙気球が完全な形で捕獲されました。またワイオミング州サーモポリスの風船爆弾が日本製であることが判明。
アメリカに到達した「ふ号」の数は、361。アメリカ合衆国に221、カナダに94、アラスカに38、メキシコに3。
「ふ号」は紙と糊で出来ていて金属部分はいたって小さかったために、レーダーには捕捉されませんでした。
三つの放球基地から打ち上げられた風船爆弾の総数はおよそ9300個。そのうちアメリカ大陸に到達したのは361個(異説には1000個)。途中の太平洋上で破裂したり落下したりした数の方が圧倒的に多かったということでしょう。
1945年4月、ジェット気流の速度の低下とともに「ふ号」作戦は中止されましたが、アメリカのオレゴン州において5月5日、「オレゴンの悲劇」といわれる事件が発生しました。
牧師のミッチェルが妻と子どもたち7人でピクニックに出かけたおり、子どもが森に落下していた風船爆弾に触れ、爆弾が爆発。それにより妊娠していた妻エルシーと子どもを含め6名が死亡するという事故でした。これが風船爆弾攻撃によるアメリカ本土における死者でした。
アメリカが怖れたのは、気球に生物兵器が搭載されているのではないか、ということでした。麦の黒穂病・牛疫ウィルス・炭粗菌・赤痢菌……。
日本側にも、その搭載計画がなかったわけではないという(結局、実行には移されず)。
『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』の著者吉野興一さんは、「『ふ号』計画は…けっして幼稚なものなどではなく1944年当時の日本の国力の粋を集めた巨大プロジェクトといえる」と言われています。
片や、アメリカは原子爆弾を開発し、また日本全土の各都市の空襲(非戦闘員を含む無差別攻撃)を開始します。そして沖縄戦を経てついには長崎・広島に原爆を落とします。
南太平洋上の島々では、補給路を断たれたためにおびただしい数の日本兵が飢え死にしまた病死しています。戦死よりも飢え死にの方が多かったのです。
昭和17年にアメリカ軍機による本土空襲を許したことにより急遽起こったアメリカ本土への気球による攻撃計画。昭和18年7月の「ここまでは敵にやられっぱなしだが何か敵をアッと言わせるような手は無いものだろうか」という発言から急浮上した本土からアメリカ本土へ向けての風船爆弾による直接攻撃(撹乱)計画。それが「国家的プロジェクト」により進められ、実行されている間に、どれだけ多くの人々が犠牲になったことか。
櫻井誠子さんの『風船爆弾秘話』には、九州小倉に原爆を投下する計画(結局は長崎に変更された)は、風船爆弾攻撃に対するアメリカ側の恐怖とその報復のためだったかもしれないという指摘がありました。
ちなみに、吉野さんの本の末尾、「1944以降ふ号関係動員学校一覧」によると、神奈川県内の動員学校は、
小田原高女・神奈川高女・共立女学校・フェリス女学院・県立第二中学
の5校でした。
○参考文献
・『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』吉野興一(朝日新聞社)
・『風船爆弾秘話』櫻井誠子(光人社)
そういったこともあって放球が開始されたのは11月7日。ついに下士官の「上げ!」の号令とともに、10m気球が空に上げられました。
「Wikipedia」の「風船爆弾」では、真ん丸にふくらんだ写真が掲載されていますが、打ち上げの際には、気球は下部がしぼんでおり「くらげ」のような形をしていました。というのは、水素ガスをいっぱいに入れて気球を放つと、気圧の低下とともに水素ガスが膨張し途中で気球が破裂してしまうからでした。気球には6割弱の水素ガスしか充填されなかったために、気球は上の方が膨らみ下の方がしぼんでいたのです。
常磐線の列車の乗客には、秘密保持のために窓のブラインドを下げるよう憲兵から命じられたとのこと。
さて、アメリカ大陸には風船爆弾は到達したのか。
11月14日、ハワイの沿岸警備隊が紙製の気球を発見しました。
12月6日、ワイオミング州のサーモポリスで風船爆弾が爆発炎上。
その後、アラスカ、カナダなどでも風船爆弾が発見されました。
1945年1月4日、オレゴン州メッドフォードの南1マイルの地点で気球の炸裂が目撃されました。カリフォルニア州セバストポールで紙気球が完全な形で捕獲されました。またワイオミング州サーモポリスの風船爆弾が日本製であることが判明。
アメリカに到達した「ふ号」の数は、361。アメリカ合衆国に221、カナダに94、アラスカに38、メキシコに3。
「ふ号」は紙と糊で出来ていて金属部分はいたって小さかったために、レーダーには捕捉されませんでした。
三つの放球基地から打ち上げられた風船爆弾の総数はおよそ9300個。そのうちアメリカ大陸に到達したのは361個(異説には1000個)。途中の太平洋上で破裂したり落下したりした数の方が圧倒的に多かったということでしょう。
1945年4月、ジェット気流の速度の低下とともに「ふ号」作戦は中止されましたが、アメリカのオレゴン州において5月5日、「オレゴンの悲劇」といわれる事件が発生しました。
牧師のミッチェルが妻と子どもたち7人でピクニックに出かけたおり、子どもが森に落下していた風船爆弾に触れ、爆弾が爆発。それにより妊娠していた妻エルシーと子どもを含め6名が死亡するという事故でした。これが風船爆弾攻撃によるアメリカ本土における死者でした。
アメリカが怖れたのは、気球に生物兵器が搭載されているのではないか、ということでした。麦の黒穂病・牛疫ウィルス・炭粗菌・赤痢菌……。
日本側にも、その搭載計画がなかったわけではないという(結局、実行には移されず)。
『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』の著者吉野興一さんは、「『ふ号』計画は…けっして幼稚なものなどではなく1944年当時の日本の国力の粋を集めた巨大プロジェクトといえる」と言われています。
片や、アメリカは原子爆弾を開発し、また日本全土の各都市の空襲(非戦闘員を含む無差別攻撃)を開始します。そして沖縄戦を経てついには長崎・広島に原爆を落とします。
南太平洋上の島々では、補給路を断たれたためにおびただしい数の日本兵が飢え死にしまた病死しています。戦死よりも飢え死にの方が多かったのです。
昭和17年にアメリカ軍機による本土空襲を許したことにより急遽起こったアメリカ本土への気球による攻撃計画。昭和18年7月の「ここまでは敵にやられっぱなしだが何か敵をアッと言わせるような手は無いものだろうか」という発言から急浮上した本土からアメリカ本土へ向けての風船爆弾による直接攻撃(撹乱)計画。それが「国家的プロジェクト」により進められ、実行されている間に、どれだけ多くの人々が犠牲になったことか。
櫻井誠子さんの『風船爆弾秘話』には、九州小倉に原爆を投下する計画(結局は長崎に変更された)は、風船爆弾攻撃に対するアメリカ側の恐怖とその報復のためだったかもしれないという指摘がありました。
ちなみに、吉野さんの本の末尾、「1944以降ふ号関係動員学校一覧」によると、神奈川県内の動員学校は、
小田原高女・神奈川高女・共立女学校・フェリス女学院・県立第二中学
の5校でした。
○参考文献
・『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』吉野興一(朝日新聞社)
・『風船爆弾秘話』櫻井誠子(光人社)
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