鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.9月取材旅行「潮来~鹿島神宮」  その2

2011-09-29 06:06:31 | Weblog
 西円寺の入口を入って、案内標示に従って左手の墓地の中へと入って行くと、まだ比較的新しい、石塔のような「衆生済度遊女之墓」が南面して立っていました。土台の石は古いから、もともとは古い遊女の墓があって、今の石塔(墓)は最近建て直されたものであるのかも知れない。

 その墓の左側には「衆生済度遊女の墓建立の誌」と刻まれた石柱があり、それにはびっしりと文字が刻まれています。

 その誌文によると、潮来は奥州より中山道に通ずる要津にあたり、銚子や鉾田から内海に入る者はみなここを通過するから、水都として有名であり、そのため古くから遊里的性格を持っていたといったことが記されています。

 江戸時代になってこの地が水戸藩領となってから、その隆盛は以前に倍し、交通ますます頻繁になって、諸大名の蔵屋敷が建設され、朝夕に船が出入りするようになったものだから、水戸藩は水戸藤柄の娼家をここに移して、江戸の制度に倣って、浜一丁目に公娼を許可し、地方の繁栄を謀るとともに、罪人の検挙などに役立たせようとしたのだという。

 この水戸藩公認の正式なる遊郭が誕生したのは、延宝七年(1679年)であるとのこと。

 明治維新となって、明治五年(1872年)に娼妓解放令が出されたものの実際は空文化し、公娼制度は貸座敷業に変形し、却って「不夜城の妓楼に絢爛と連ねる源氏名」が多数みられるほどの隆盛を迎えました。

 しかし、遊女たちは、好んで入籍したのではなく、年貢の上納に事欠く農家の娘、両親を失った孤児、高利の返金に迫られたたために観念した孝行娘、義理ある人のために身を沈めた年若の妻女、かどわかされ汚されて売り飛ばされた非力の女などであって、ほとんどが薄幸の女性たちであったことが記されています。

 左側面の文字は若干風化して読みがたかったのですが、これら多くのひっそりと死んでいった遊女たちの存在が、潮来の繁栄を支えたものであることを後世の人々に記憶として残すために、「このたび遊女衆生済度の供養を決心し、たゞたゞ私一人の菩提心にてなすこと乍ら有志の方々の御協賛を得てここにこの西円寺に墓石を建立したものである。 昭和五十四年五月二十日 島田三郎」

 「昭和五十四年」とあるから、この「島田三郎」という方が、あの自由民権運動に出てくる「島田三郎」ではないことは明らかです。

 この碑文に出てくる遊郭が設けられた潮来の一郭、「浜一丁目」とは、前にここを訪れた時に見掛けた「大門」(復元されたもの)を入った左手一帯であり、その「遊里」の風景を崋山が描いたものが、『四州真景図』のうち「潮来花柳」でした。

 その西円寺の「遊女の墓」を一見した後、通りを東方向へと向かい、「石塔寺」や「潮来市立潮来小学校」の校門前を通って、「セイミヤ」などがある通りを渡り、JR鹿島線の高架を潜ると、行く手に瓦屋根のお寺が見えてきました。

 それが、目指す「浄国寺」であるようです。


 続く


○参考文献
・『ふるさと牛堀 人と水の歴史』(牛堀町)


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