鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

笛吹川流域の道祖神祭り その12

2018-02-20 08:15:40 | Weblog

 

 

 窪八幡神社鳥居横の道祖神御仮屋は藁束で作られた茅葺民家風のもの。

 藁束の周囲は4本ほどの細縄でしっかりと巻かれています。

 正面真ん中には四角い窓があり、上部の太縄から4枚の幣紙が垂れています。

 窓の中をのぞいて見るとそこには直立した木製の「陽根」があり、先端の割れ目から白い幣紙が1枚垂れていました。

 室伏の御仮屋で見た木製の「陽根」と較べるとよりリアルなもの。

 その背後には石祠のようなものがあり、その周りに丸石が密集して置かれていました。

 窓の下部の細縄からは「お知らせ」と記された紙がぶら下げられており、それには「道祖神祭り 1月14日 午後6時から どんど焼き 1月14日 午後7時から」とありました。

 御仮屋の右手から背後に回ってみると「蠺影山」と刻まれた石塔が立っていました。

 「蠺」は「蚕」のこと。

 養蚕の神様を祀るもので、養蚕の豊かな実りを祈る対象。

 今まで見てきたように「道祖神」と「蚕影山」はセットで祀られている場合が多いのですが、このあたりがかつては養蚕を主産業とする地域であったことがわかります。

 養蚕による収益は農家の貴重な現金収入であり、特に横浜開港以後に養蚕はきわめて盛んになりました。

 「蚕影山」の石塔が立てられるのは明治以後のことであるというから、もともとあった道祖神場に新たに「蚕影山」の石塔が立てられたものであるでしょう。

 明治よりも前においては、養蚕農家の人々は道祖神に対して養蚕の豊かな実りを祈願していたのではないか。

 その「蠺影山」の石塔にも細竹が2本立てられ注連縄が張られていました。

 近くを歩いてみると民家の軒下にも「蚕影山」の石塔があり、その右側に2基の石造物が立っていましたがそれらの表面に刻まれている文字は風化してわかり難くなっています。

 窪八幡神社の鳥居を笛吹川方面に抜けてみると、左手に「重要文化財 窪八幡神社鳥居」と記された案内板が立っていました。

 それによるとこの鳥居は武田信虎が天文4年(1535年)に42歳の厄攘(厄払い)祈願のために再建したものであるという。

 親柱の前後に面取り角柱の控柱(ひかえばしら)が立ち、親柱と控柱の間には上下2本の笠木付き貫(ぬき)が通されて連結された「両部鳥居」または「四脚鳥居」と呼ばれる形式。

 高さは約7.41m。

 横幅は約5.91m。

 親柱は太い円柱で直径約55cm。

 額束(がくづか)正面には「大井俣神社」と文字金箔押しの木製神額が掲げられています。

 現存の木造鳥居の中で最も古い遺構としてきわめて価値の高いものであると案内文は結ばれていました。

 窪八幡神社の拝殿や本殿、摂社若宮八幡神社の拝殿や本殿もそうですが、この大鳥居も武田信虎や武田信玄(晴信)時代の神社建築を当時そのままに残すものであり、武田三代の経済力や文化力を示すものがそのままに今でも残っていることに感動を覚えました。

 山寺勉氏の『甲斐の道祖神考』によれば、道祖神信仰は武田信玄の時代以前から道祖神祭礼的なものが小正月に行われていたが、それが「道祖神」と呼ばれていたかどうかは不明であるという。

 そして甲斐の道祖神の誕生は江戸時代の初期であるとされ、「の成長とともに一つの型を整えて成立したものである」とされています。

 つまり集落においては小正月の行事が古くから行われており、その主要行事として道祖神祭礼が参入して次第に道祖神祭礼として成長していったということですが、その説を踏まえると武田信虎や信玄の時代においては、小正月の行事や「道祖神祭礼的なもの」はあっても道祖神の御神体というものはなかったと考えられます。

 したがって窪八幡神社鳥居横にある道祖神は、鳥居が信虎によって再建された時(天文4年)からもともとそこにあっものではなく、おそらく江戸時代に入ってからこの地の集落の人々によって設けられたものであると考えることができます。

 この窪八幡神社鳥居横の広場は「道祖神場」であって、道祖神が祀られ「道祖神祭り」や「どんど焼き」が行われる集落の人々の特別な公共空間であり、それは江戸時代から現在までそのようなものとしてあり続けています。

 「御仮屋」の前に置かれている大太鼓は毎年1月14日の夕方に行われる「道祖神祭り」や「どんど焼き」などにおいて使われるものであるでしょう。

 御仮屋に掲げられている提灯は「北東組若者中」と墨書されていて、この道祖神祭礼の主たる担い手が「若者組」であることを示しています。

 現在においても担い手が「若者組」であるかどうかはわかりませんが、かつての「若者組」の人々が主たる荷い手であることはまず間違いないでしょう。

 笛吹川側から窪八幡神社の方向を眺めると、堂々としたの大鳥居の下の参道の向こうに窪八幡神社の門とその豊かな杜(もり)を見ることができました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『甲斐の道祖神考』山寺勉



最新の画像もっと見る

コメントを投稿