鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

笛吹川流域の道祖神祭り その13

2018-02-21 07:22:26 | Weblog

 

 窪八幡神社に立ち寄った後、室伏(むろふし)のおじいちゃんが教えてくれた塩山の赤尾というところを走ってみました。

 しかし御仮屋や御山飾りを見掛けることがなかったため、上赤尾バス停近くのホームセンターの駐車場に車を停めて付近を歩いてみると、「一葉のみち」という標示のある通りがありました。

 「一葉」とは樋口一葉のこと。

 樋口一葉の父は塩山郊外の重郎原(じゅうろうばら)というところに生まれ育っていて、かつて私はその付近を歩いたことがあります。

 その通りを塩山駅方面へと歩いていったところ「地元では、ここを芝桜交差点と呼んでいます」と記された看板があり、その下に「甘草屋敷」とありました。

 その「芝桜交差点」から甘草屋敷方面へ旧道らしき道を進んでいくと、右手に「福徳地蔵さん 元禄時代」と記された看板のある石地蔵がありました。

 新しい六角形の簡素なお堂(屋根も六角形)の中に石地蔵は奉納された白い帽子を被り白い前掛けなどをして立っています。

 電柱には「塩山上於曽」と地名が記してありました。

 「上於曽」は「かみおぞ」と読みます。

 さらに進んで行くと左手に道祖神場が現れました。

 この道祖神場の新しい基台の左側には密集した小丸石の上に大きな丸石が載る丸石道祖神があり、右側には注連縄の張られた木祠がありました。

 また基壇の上には紙袋が多数置かれていました。

 この紙袋の中身は正月用のお飾りなどであると思われます。

 その基壇の右手にある大きなコンクリート製の幟枠(のぼりわく)の前には板材が積み上げられています。

 この板材も基壇の上の多数の紙袋も、「どんど焼き」で燃されるものであるでしょう。

 「どんど焼き」は、おそらくこの道祖神場で行われるのです。

 しかしこの道祖神場の丸石道祖神には今まで見てきたような「御仮屋」は設けられていませんでした。

 どこでも「御仮屋」が設けられているものではないということをここで確認しました。

 そこからしばらく進むと、通り右手に板塀と茅葺屋根(入母屋造り)の古い民家が現れ、それに隣り合って商家風の2階建ての建物があり、続いて広い屋根と突き上げ屋根(越し屋根)を持つ豪壮な古民家が現れました。

 これが「甘草屋敷」でした。

 この中央部が3階建てに見える豪壮な古民家は、重要文化財の旧高野家住宅。

 この高野家住宅が「甘草屋敷」と呼ばれるのは、江戸時代の中頃より幕命で薬用植物である甘草(かんぞう)を栽培して幕府に納めていたからでした。

 前庭広場があるところから屋敷地内に入って右手の巽蔵をのぞいてみると、中に色鮮やかな紙が結わえ付けられた飾りが蔵の中いっぱいに納められていました。

 「道祖大神」や「家内安全」、「五穀豊穣」や「猿田彦命」と墨書された箱行灯もあり、これが道祖神祭礼の「御山飾り」であることがわかりました。

 これから使われるものではなく、すでに使われてこの蔵の中に納められたものであるように思われました。

 なぜこの蔵の中に「御山飾り」が納められているのかはわかりません。

 隣の蔵には「樋口家系図」が壁に掲げられていました。

 「大吉(則義)」と妻「あやめ(たき)」の間に生まれた「なつ」が樋口一葉のこと。

 観覧料300円を払って旧高野家住宅(甘草屋敷)の主屋を見学することにしました。

 

 続く

 



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