鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.9月「元町~地蔵坂~本牧」取材旅行 その7

2008-10-10 06:11:17 | Weblog
 そのおじいさん(80歳)の話によると、ワシン坂に沿ったもう一つ海側の道の辺りが、かつては海岸線で砂浜があったらしい、ということでした。

 おじいさんがここに引っ越してきた時には、もうすでにこの海岸線から海側は埋め立てられていたとのこと。

 ここへ引っ越してきた50年ほど前(ということは、昭和33年ごろ)は、海岸の砂浜ではアサリやバカ貝などがたくさん獲れたという。またカニもいたし海苔もとれたという。この話は、北方町で会ったおばあちゃんの話とまったく共通しています。

 このおじいさんとは、ワシン坂の下の崖下にある「湧水」の横に場所を移して、話し込みました。

 満州の熱河(ねっか)省あたりで軍隊生活を送ったらしい。真冬の最低気温はマイナス50℃近くにもなったそうです。外へ出ると吐く息が凍り、顔面はあっという間に白くなる。軍隊で朝の整列・号令をする時などは、寒さのためにみんな足踏みをしていたという。

 満州からアッツ島へ向かう時、アッツ島の手前で船がUターンして上陸しなかったが、そのまま上陸を強行していたら「玉砕」していただろうとも。

 アッツ島の日本軍守備隊が「玉砕」したのは、1943年(昭和18年)5月29日。日本軍損害は、戦死2638名(戦死率99%)、捕虜27名(生存率1%)であったという(「Wikipedia」より)。

 おじいさんの乗った船は、福岡沖で長期停泊した後、そこから入港(博多か?)。そこから40kmの道のりを歩いて飯塚まで行ったそうです。

 ここへ引っ越してきたのは戦後の昭和30年代初期の頃。屋根葺き職人として、自転車に乗って、しばしば座間や相模原まで働きに出たことも。ここから4、5時間も自転車に乗って、仕事先に到着するのは9時か10時頃。足がガクガクして、しばらく休まないと働けなかったという。風よけのためにバスの後ろを走るのがいちばん楽であったらしい。

 車がまだ一般的でなかった時代においては、遠いところへ働きに行くのも自転車であった時代があったのです。この本牧から座間や相模原に自転車で行くことなど、今でもなかなか考えられないことです。

 おじいさんと話している間にも、ワシン坂下の湧き水のところには、ペットボトルややかんを持って、水を取りにくる人たちがいました。この水で、お茶やコーヒーを飲むと、おそらく水道の水などでは飲めなくなるのでしょう。こういう湧き水が町内にあって住民に愛用されているというのは、なにかしあわせな気分になります。

 16:00過ぎ、あいさつをしておじいさんと別れ、おじいさんが「そこまで海岸線であったらしい」と指差した通りを歩いて、丘陵下を横浜方面へ進みました。

 「そば処 味奈登屋」の前に出たところで通りを左折。

 新山下3丁目の「新山下ベイシティ」のところに出たのが16:25でした。

 新山下2丁目に「ベイサイド公園」というのがありましたが、この公園の、歩道との境に、埋立以前の新山下の古写真とその説明がしてあって、そのすべてをデジカメにおさめました。同潤会住宅建設当時(大正13年)や明治4年における新山下付近の様子です。

 左手は山手の崖(丘陵上には、神奈川近代文学館や大佛次郎記念館、港の見える丘公園などがある)。その崖下に、「山下館」という銭湯がありました。「新山下ベイシティ」を抜けたところから山下橋までにかけては、下町風の通りが伸びています。

 その通りの突き当たったところ左手に、「旧英国海軍物置所 護岸について」という案内パネルがあるのを見つけました。付近には粗大ゴミが散乱し、大切にされているようには見受けられませんでした。


 続く

 ※次回が最終回です。


○参考文献
・『横浜居留地と異文化交流』横浜開港資料館/横浜居留地研究会(山川出版社)所収論文「「横浜居留地成立の前提」(嶋村元宏)
・『開港への幕臣旅中日記』加藤祐一(啓之進)(横浜郷土研究会)

ネット
・「アッツ島」(Wikipedia)


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