鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.9月「元町~地蔵坂~本牧」取材旅行 その8

2008-10-11 05:24:22 | Weblog
 「英国海軍物置所」というのは、英語で「British Naval Depot」と言った施設で、かつての山手外国人居留地117番地にありました。文久元年(1861年)、英国がその海軍物置所の用地としてこの土地を獲得。山手の中で、外国人居留民が最初に占有したのがこの地所であるという。

 この英国海軍物置所の護岸部分の一部が、ここに残っているのです。護岸部分は全長およそ65m。北部は堀川に向かって連続していました。使用した石材は、神奈川県西部から産出された安山岩系の石。この石を四角錐状にしてそれを積み上げていったもので、これを「間知石積」というらしい。

 横浜に現存する最も古い石積海岸護岸であるとのこと。

 ということは、かつてはこの護岸の石積の下が海であったということになります。

 この「海軍物置所」について、私は記憶がありました。

 宮野力哉さんの『絵とき 横浜ものがたり』に、そのイラストが出ていたような記憶です。

 ということで、帰宅してからさっそくその本を開いて見ました。

 P122~P123に掲載されているイラストで、その絵の右側に描かれているのが、この「英国海軍物置所」でした。よく見てみると、たしかに石積による護岸工事がなされています。この石積はかなり高く、海面からでも3m近くはありそうです。この絵は、宮野さんの解説によると、1864年8月発行のイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載されたもの。

 護岸工事は、この1864年8月以前にすでに完成していたことがわかります。

 この「旧英国海軍物置所」の「護岸」の残っている場所やその案内パネルの解説から判断すると、この絵の手前に描かれている左右に伸びている水面が堀川の河口部ということになります。現在、ここには山下橋が架かっています。そ向こう側が物置所(倉庫)で、その向こうの丘陵が山手。現在、「港の見える丘公園」があるあたり。その丘陵が海に落ち込んでいるあたりが、現在の「新山下1丁目」や「新山下ベイシティ」などがあるところ。

 ということは、この山手の丘陵の先の部分、左ページ(P123)の真ん中部分が本牧十二天社のあるあたりになるのかも知れない。

 このイラストに見える山手から本牧、そして根岸にかけての海(根岸湾=ミシシッピー・ベイ)の沖合いは、その大部分が埋め立てられていきました。

 堀川河口部に架かる山下橋の手前を左折して、「みなとみらい線元町・中華街駅」に戻りました。

 改札に入って、ふたたび壁の古写真を眺め、子どもをおぶっている女性の写真をさがしてみました。

 見つかりました。

 その女性は、赤ん坊を背負っていました。あの「本牧せせらぎ公園」で会ったおじいさんの奥さまの「おばあちゃん」(または「おかあさん」)が、この女性であったのです。

 奥さまの実家は、横浜村。開港とともに、元町に移り住みました。お墓は、本牧の高野山真言宗天徳寺。

 あのおじいさんは、咽喉ガンのため、延べ2年間入院生活を送りました。医者から見放されたにもかかわらず、現在は元気に散歩するまでに回復されました。

 ワシン坂下で出会ったおじいさんは、ワシン坂を上がって、途中で左折して坂を下りてくるという日課を、朝・晩、毎日続けています。一日1万歩以上は歩くようにしているという。

 あの北方町の91歳のおばあちゃんは、本牧十二天社近くの「しもた屋」の生まれ。フランス山のフランス人から、戦後、フランス製の粉ミルクをもらい、初めて粉ミルクというものを飲んだそうです。有為転変ありながらも、現在は北方町の貸家に一人住まいをしています。自分で作った料理を食べながら、プロ野球の試合をテレビで観戦するのが何よりの楽しみだということでした。

 17:00発の地下鉄に乗り、横浜駅まで。横浜駅から海老名駅行きの相鉄線に乗り、帰途に就きました。



○参考文献
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『絵とき 横浜ものがたり』宮野力哉(東京堂出版)


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