甲府勤番士であった野田成方(しげかた)が『裏見寒話』に甲府道祖神祭の様子を記した宝暦2年(1752年)から64年後の文化13年(1816年)に、日向国の修験者であった野田成亮(しげすけ・泉光院)が『日本九峰修行日記』の中に甲府道祖神祭の様子を記しています。
その「一月十五日」の条。
晴天のその日、泉光院は昼時より甲府町へ道祖神祭礼見物に出掛けます。
町々には「注連竿」(しめざお)が飾られ、また「俄狂言(にわかきょうげん)」が行われていました。
「俄狂言」とは「俄」(にわか)とも言い、辞書によると即興的に演じる滑稽な寸劇。
江戸時代、京都で祭礼などに素人が演じたものが始まりで、江戸・大坂から地方に広まり、特に大坂で盛んに行われたという。
「歌舞伎狂言の如く組立て、後ち直ちに俄になして興行する事也」と泉光院は記しています。
歌舞伎を狂言のように組み立てて、即興的な寸劇を演じたのでしょう。
その舞台のようなものが「六ヶ所」にあり、そのうち泉光院が面白く思ったのは「伊勢の宮廻り」と「合の山」の「仕立」(したて)でした。
「伊勢の宮廻り」の場合は、町三丁(300m余)ほどの間に、内宮・下宮・天の岩戸などを設営したもの。
その天の岩戸は囲いを設けて真っ暗闇にしたもので高さは4尺ばかり(120cm余)。
長さは14、5間(25m前後)で、それを潜って抜けてみれば、そこは人家の裏の畑で何にもないところ。
そこで、潜った人々はみんな笑い合うといった具合。
内宮には飾り立てた中に琉球芋(さつまいも)が三宝に盛られ、外宮には簾(すだれ)のように藁筵(わらむしろ)が掛けられているといった趣向。
それから「合の山」へ出ると、男たちが女のカツラを被って女装し、赤い前垂れをして三味線を弾いたりささらを鳴らしたりしている。
また茶屋から参詣の者を引き入れて、茶・菓子・酒・吸い物などを提供しています。
また「合の山」には「築山泉水」も仕立ててありますが、その中の植木や手水鉢、置石などは人を裸にして彩色し、その形を模したもの。
寒い時期なのに裸でそのような格好をしているのは「甚だ難渋ならん」と泉光院は感想を漏らしています。
「其外見せ物、作り物多し」とあり、「伊勢の宮廻り、合の山」の仕立て(設営)以外に、さまざまな見せ物や作り物が、それぞれ競うようにして企画・展示されていたことがわかります。
「合の山」(あいのやま)というのは、伊勢神宮の内宮と外宮との間にあり、近世には遊里もあったという歓楽街。
「伊勢の宮廻り、合の山」の「仕立」とは「天の岩戸→内宮→合の山→外宮」と伊勢参宮を疑似体験できる装置(出し物)であり、男たちが女装して茶屋女を演じたり、裸の男たちが「築山泉水」の装置になりきったり、あるいは内宮には琉球芋が三宝に盛られているといったように、滑稽な趣向を盛り込んだものでもありました。
町々に飾られていた「注連竿」(しめざお)というのは、おそらく道祖神祭礼に立てられた「御神木」(おしんぼく)のことであり、その先端(テンダナ)にはさまざまな飾りが施されていました。
泉光院が特に面白く思った「伊勢の宮廻り、合の山」の見せ物が、甲府城下のどこの町の企画であったかはわかりませんが、同様な趣向を盛り込んだ「出し物」が「六ヶ所」で競うように企画され、またそこでは「俄狂言」も行われていたことがわかります。
60数年前の『裏見寒話』において、甲府勤番士野田成方は「近年甲府の祭礼殊の外美麗」であるとして、「辻々」の「大きな屋台」では十二三歳の子供たちが綺羅を尽くして歌舞伎を演じたり、「近江八景」「大坂四橋」「勢州内外の宮」などを写した絵を飾ったり、「色々金銭をかけて美飾を成して遊興」しているとしています。
それから60数年後の文化13年の道祖神祭礼においては、「俄狂言」が行われ、またそれに伴う巨大な「アトラクション」が設営されていたりして(6ヵ所)、それに盛り込まれた楽しく滑稽な趣向を人々が楽しんでいる様子を知ることができます。
注目されるのはその祭礼の担い手が男であるということ。
この男たちは、道祖神祭礼の担い手である「若者組」の連中であったでしょう。
飾り立てた「御神木」を町々に立てるのも、趣向を盛り込んだ「出し物」を考えたり、またその「出し物」を設営したり、「出し物」を演じたりするのも、それらは皆、町の「若者組」つまり「若衆」たちが主体的に担ったものであったと思われます。
宝暦2年には「近江八景」「大坂四橋」「勢州内外の宮」の写し絵が飾られ。文化13年には、「伊勢の宮廻り、合の山」が疑似体験できる「アトラクション」(出し物)が設営されています。
天保13年以後の道祖神祭礼においては、「江戸名所」や「京都名所」、「東海道五十三次」などの絵が巨大な幕絵として甲府城下の通りに飾られています。
写し絵や疑似体験可能な「アトラクション」、また幕絵の題材として採用されているのは、上方や江戸の「名所」や伊勢神宮であったりと、一生に一度は出掛けて見物したり参詣したいところでした。
しかし、わざわざそこへ行かなくても甲府城下の道祖神祭礼に出掛ければ、まるでそこへ行ったかのような「疑似体験」をすることができる。
それが甲府道祖神祭礼の最大の魅力であり、その趣向(新たな趣向)を凝らすことに甲府町方の「若衆」たちの心意気が存分に発揮されたと言えるでしょう。
続く
〇参考文献
・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)