鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

広重の甲府滞在 その16

2017-12-04 06:42:33 | Weblog

 広重が甲府道祖神祭幕絵の制作のため甲府に滞在した天保12年(1841年)の5年前(天保7年)の8月下旬、甲府城下は「天保騒動」の真っただ中にありました。

 「天保の大飢饉」は天保4年から始まり天保9年に終わりました。

 甲府緑町一丁目の商人たちが甲府道祖神祭礼に幕絵を飾ろうと企画したのは、天保12年以前のことで天保11年か10年頃であったものと思われます。

 「天保騒動」を経験し、「天保の大飢饉」が終わった後、そして「天保の改革」がまだ始まる前の時点において、甲府城下緑町一丁目の商人たち、それも道祖神祭礼を伝統的に担っていた「若者組」が中心になって、表通り沿いに幕絵を飾るという新趣向を企図したものと考えられます。

 甲府道祖神祭における幕絵装飾という新趣向と、「天保騒動」そして「天保の大飢饉」の経験とは決して無関係ではなかったはず。

 天保7年(1836年)の8月下旬、甲府城下は一揆勢の乱入によってどのような事態に陥ったのかを『並崎の木枯』・『甲府騒動記』・『甲府乱妨記』などの記述によりながらおさえてみることにします。

 1000人以上に膨れ上がった一揆勢が甲府城下に乱入して来たのは8月23日の夜。

 石和宿から甲州街道を西進した一揆勢は城下東の入口である山梨郡万力筋板垣村から、また石和宿から笛吹川に沿って進んだ一揆勢は城下南の入口である山梨郡中郡筋遠光寺村から乱入してきました。 

 その一揆勢には、相当数の「無宿・悪党・・博奕打(ばくちうち)迄入交(いりまじ)」っていました(並崎の木枯)。

 この多数の一揆勢の城下乱入に対して、「御役人方ハ、弓・鉄炮・鎗(やり)・太刀携ヘ打守リ居候而已(おりそうろうのみ)」(並崎の木枯)とあり、甲府勤番士や甲府代官所の役人たちは武装はしたものの積極的な鎮圧行為に出ることはありませんでした。

 甲府城下の米仲買商を中心とした豪商に対する打ちこわしは、上一条町の穀仲買である宅間屋善助宅から始まり、魚町一丁目の河内屋平七、山田(ようだ)町一丁目の和泉屋作右衛門、同二丁目の井枡屋佐吉、藤井屋平右衛門、三日町の河内屋啓兵衛、河内屋惣兵衛、柳町三丁目の大黒屋善蔵、同四丁目河内屋忠助、連雀町の岩木屋又右衛門、緑町一丁目の竹の屋庄兵衛、竹原田次郎兵衛、竹原田藤兵衛、以上13軒に及びました。

 このうち山田町一丁目の和泉屋作右衛門と同二丁目の井枡屋佐吉の二人は「当時市中一二之身元」(並崎の木枯)と言われるほどの豪商でした。

 山田町一丁目の和泉屋作右衛門宅は居宅や質蔵が打ちこわされ、質蔵の中に入っていた質物は全て焼却され、また文庫蔵の金銀が取り出されて小判や南瞭二朱銀が燃え盛る火の中に放り込まれ、銭蔵の銭は町内の通りに撒き散らされました(甲府騒動記)。

 緑町の竹原田藤兵衛は質屋で土蔵が12棟もある豪商でした。一揆勢はその土蔵に侵入して諸帳面や質物、宝物類をすべて取り出してそれらに火を付け、その後土蔵を打ちこわして12棟のあらかたを破壊するとともに、屋根瓦をはがして火の中に放り込んだりしました。

 その竹原田藤兵衛宅の土蔵の火は折からの北風により飛び火し、周辺「弐丁四方」(200m四方)が類焼。

 「黒煙り天を覆い焼け砕ける音」はすさまじいものでした(甲府騒動記・甲府乱妨記)。 

 この23日の夜の一揆勢乱入に際して、甲府城下の人々の様子はどうであったかというと、「町中ハ老若男女引連(ひきつれ)、長禅寺、能城寺、八幡山、二本松江逃登リ、或ハ下リ野中江逃出し、在村江走リ出、呼喚(よびか)ふ声夥敷(おびただしく)、目も当られぬ有様」(並崎の木枯)でした。

 城下の人々は周辺の寺や山へ逃げたり、郊外の野原や村々へ逃げたりして、呼び交わしたり喚(わめ)いたりする声に満ちて目も当てられない様であったというのです。

 町々の商家は「万灯のことく(如く)軒に挑灯(ちょうちん)を掛け、家毎に障子を明置」き、「屋根江階子(梯子)を掛け」ました。

 これは一揆勢が押し寄せて来たら屋根に上がって迎え打つためでした(並崎の木枯)。

 一揆勢による打ちこわしを避けるために、「町々にハ酒や八味林酒又ハ上酒を四斗樽ニ入(いれ)、握り飯等沢山ニ表江出し、障子戸板へ名前を書き、御たき出シ(炊き出し)、御酒差上申候と印し、其外足袋店ハ足袋、荒物店ハ手拭・そうり(草履)・わらし(草鞋)・砂糖や八白砂糖を出」したという(甲府乱妨記)。  

 障子や戸板に店の名前と「御たき出し、御酒差上申候」と記して酒や握り飯を一揆勢に振る舞う商家もあれば、足袋屋や荒物屋などは店の商品を一揆勢に提供したというのです。

 それらの酒食や物品などの提供に力を得て、「手桶ニ水を入たるを乱妨共(らんぼうども=一揆勢のこと)呑喰(のみくい)十分ニして家々に押入打ちこわ」しを次々と実行していったのです。

 このようにして甲府城下の人々は8月23日の夜を「夢中に明(あか)し」、26日まで「町中諸商内ハ相休罷在候(あいやすみまかりありそうろう)」、つまり26日まで城下の商店はみな休業状態が続いたというのです。

 23日の夜から翌日にかけて、甲府城下においては13軒の豪商が打ちこわされたわけですが、この中に緑町の3軒(竹の屋庄兵衛・竹原田次郎兵衛・竹原田藤兵衛)が入っているのが注目されます。

 とくに竹原田藤兵衛宅の土蔵が燃え、その火事が折からの北風で飛び火してその周辺200m四方が類焼したことは、人々に大きな衝撃を与え、熊野堂村の奥右衛門宅が打ちこわしを受けたことと緑町の竹原田藤兵衛宅が燃えたことは、関東地方を中心に広まった天保騒動に関する記録にほぼ例外なく記されているという(『山梨県史通史編4 近世2』)。

 広重を道祖神祭礼幕絵制作のために江戸から招聘したのは、その緑町一丁目の商人たちであり、その11名の中に天保騒動の際に打ちこわしを受けた「竹の屋庄兵衛」(高野屋庄兵衛・広重の日記では「竹正殿」)も加わっていました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『山梨県史 資料編13 近世6上』(山梨県)

・『山梨県史 通史編4 近世2』(山梨県)

・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)



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