「前兆」の次の「被害」では、被害状況や繰り広げられた救援活動などが記されています。死者については宮城県下が3,452名、青森県下が343名、岩手県下が22,565名。明治29年(1896年)の津波では、岩手県下の死者が圧倒的に多かったことがわかります。梅雨の時期の高い気温と湿度によって、放置された多数の死体の急速な腐敗が進み、三陸海岸の町にも村にも死臭が満ちたという。「被蓋」の次は「挿話」。その「挿話」においては、『風俗画報』の「大海嘯被害録」の「上巻」「下巻」の挿画が6点掲載されています。<「唐桑村にて死人さかさまに田中に立つの図><広田村の海中漁網をおろして五十余人の死体を揚げるの図><釜石町海嘯被害後の図><溺死者追弔法会の図><志津川の人民汽笛を聞て騒乱するの図><釜石の永澤某遭難の図>というもの。絵図は写真に代わるものであり、津波被災地における情景の一端を具体的に知ることができます。 . . . 本文を読む