鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その4

2013-09-09 05:33:07 | Weblog
吉村昭さんが明治29年(1896年)の大津波の次に語っているのは、昭和8年3月3日の大津波のことです。津波を引き起こした地震の震源地は、釜石町の東方300kmの海底で、発生時刻は午前2時32分。まだ寒い時期の真夜中です。この津波では、この沿岸で2995名が亡くなり、田老と乙部では911名が亡くなっています。428戸はほとんどすべてが流失してしまったという。吉村さんは、昭和8年当時小学校6年生であった牧野アイさんという女性の作文を紹介しています。アイさんは、祖父・父・母・おば・弟・二人の妹、合わせて7名の家族を失いました。その昭和8年の三陸海岸大津波のあと、吉村さんが触れているのが関東大震災のこと。東京では7万名が亡くなり、横浜では2万3千名が亡くなるという、明治以来最大の災害でした。この講演の最後の方で、吉村さんは「津波というものは、地球上にある限り、必ずやってくるもの」であるけれども、「科学の進歩はきわめて著しいもの」であり「決して恐れることはない」と述べています。ただ、道路を確保するために「携行品は持って歩かない」「車で逃げない」こと、そして「警告があったら、それに素直に従うこと」「物に対する欲」を捨てることが大事であると指摘されています。しかしながら東日本大震災を振り返ってみると、確かに「科学の進歩はきわめて著しいもの」の、地震の予知や津波の高さの予知が実際にはきわめて困難であったことや、「想定外」の事態が多々生じてたくさんの人々が犠牲になったことを考えると、大自然の威力を前にして、人間による「科学の勝利」というものはいつまでもありえないと考えた方がいいと私は考えています。大自然に対して人間はもっと謙虚であるべきであり、畏れを抱くべきものだということであり、進歩した科学への過信(津波情報・防潮堤の高さやその堅固さ・安全な避難場所の設定)から失わなくてもよかった命を失った人々も多かったのではないか、と私には思われます。 . . . 本文を読む