鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その5

2013-09-10 05:30:30 | Weblog
吉村昭さんの講演記録(「災害と日本人-津波は必ずやってくる」)のあとに、高山文彦さんの「【現地ルポルタージュ】『三陸海岸大津波』を歩く」が掲載されており、これも貴重な記録でした。それによると、吉村昭さんが田野畑村出身の友人にすすめられて岩手県下閉伊(しもへい)郡田野畑村を訪れたのは昭和40年(1965年)秋のことでした(これが初めてではない)。当時においては旅館も民宿もなく、吉村さんが泊めてもらったのは島ノ越(しまのこし)という海岸近くの集落の、漁師の番屋であったという。車で村内を案内してくれたのは当時村長になったばかりの早野仙平という人であったという。この早野仙平らから吉村さんが教えられたのが、三陸沿岸をたびたび襲い、その地に壊滅的な打撃を与えてきた巨大津波の話であり、その巨大津波への関心が、やがて『海の壁』(後に『三陸海岸大津波』に改題)という作品として結実することになったのです。高山さんが、東日本大震災の報を知って、最初に思い出したのは、この吉村さんの『三陸海岸大津波』という一書でした。高山さんは文春文庫になった『三陸海岸大津波』に解説を書いており、その内容をはっきりと覚えていましたが、実際に現場に足を運んでみた時、それ以上の惨事が起きてしまったことを実感したと告白しています。高山さんが、震災後、初めて三陸沿岸に向かったのは3月29日のことであり、それは陸路からではなく、読売新聞社の飛行機に乗ってのことでした。羽田を離陸し、山形県の庄内空港で燃料を補給した飛行機は、奥羽山脈を越えて仙台平野を横切り、そこから海岸を北上していきました。高山さんは上空から、巨大津波に襲われた三陸沿岸の情景を眺めていったのです。 . . . 本文を読む