ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

坂東十二番『華林山最上院:慈恩寺』

2014-08-02 16:44:28 | 史跡

坂東十二番『華林山最上院:慈恩寺』

↑ 掲額 慈恩教寺

昔、足柄山や箱根の坂の東一帯は坂東と呼びました。板東は一面平原でした。平原は、川が山から土砂を削り流し、堆積させながら平原を造ったと思われます。その一番が利根川で”板東太郎”と呼ばれました。さしずめ荒川は次男坊なのかも知れません。渡良瀬や多摩川なども弟たちなのかも知れません。そうゆうことなら、板東大河の水源あたりが、板東の限界境線と言うことになります。板東の母なる地は、これらの川の水源と言うことになります。恐らく、江戸の”秩父信仰”は、荒川の水源、この発想から生まれたのではないかと思っています。
歴史に、板東の名は戦国の時代まで定着しています。
*坂東太郎(利根川)は長男ですが、次男は筑紫次郎と言われる筑紫川(九州)、三男は四国三郎、吉野川(四国)を指します。
関東という名は、どうも江戸時代からのようです。恐らく江戸防衛のため、八州の幹線道路に関所を設けて、江戸への出入りを監視したようです。この関所数、実に52ヶ所。以後関八州と呼ばれ、関東になったと思われます。関東は、ほぼ正確に坂東と重なります。
その坂東の武者たちは、源平の合戦に九州まで戦いに出かけました。源平の合戦の後、敵味方を問わない戦死者の供養や平和への祈願が盛んに行われ、源頼朝の厚い観音信仰と、多くの武者が西国で見聞した観音霊場巡拝への思いが結びついて、今から八百年ほど前の鎌倉初期に坂東三十三ケ所観音霊場が頼朝の命で開設されました。
この項の末に、リストを付記します。

札所十二番、慈恩寺

↑ 本堂


天長元年(824)に慈覚大師によって開かれた天台宗の古刹です。江戸時代には徳川家康から寺領百石を拝領。鎌倉時代・頼朝からも知行領を拝領していたと思われます。それを裏付けるように、中世における慈恩寺領には、本坊四十二坊・新坊二十四坊の併せて六十六坊もの塔頭が存在しました。*塔頭(たっちゅう)は、本来禅寺で祖師や大寺・名刹の高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って、塔(祖師や高僧の墓塔)の頭(ほとり)、または、その敷地内に建てた小院のことです。どうも学林(仏教学校)とは違うようです。

↑ 境内の百日紅

↑ 掲額

↑ 獏と獅子

↑ 南蛮鉄打灯籠

↑  宝篋印塔 それほど古いとは思えません


今回の訪問は、慈恩寺参詣も目的ですが、塔頭の痕跡も見ておきたい、と思ってのことです。寺の建物と同時に、この地籍名になった慈恩寺や表慈恩寺や裏慈恩寺は知行領であり、この地籍名の所に塔頭が多く存在していたと思われます。それにしても六十六はかなり多い。また戦国時代、地方豪族は荘園や寺社領を押領して勢力を伸ばした例が多いが、岩槻城の城主・太田道灌や太田資正は、押領した側か庇護した側かも興味があります。地籍名が残っていることから、庇護した側であったと想像しますが定かではありません。

↑ 地籍・慈恩寺辺りの風景  ・・この辺りの塔頭は散在していたのかも・・


場所:さいたま市岩槻区慈恩寺139   最寄り駅は"豊春駅(東武野田線)駅から徒歩20分。北岩槻に当たります。・・分かりづらい。


玄奘の十三重霊骨塔 由来

↑ 玄奘塔山門


慈恩寺から離れた1Kmぐらいの所にあります。
境内の十三重霊骨塔には、中国の古典『西遊記』でおなじみの三蔵法師玄奘の遺骨が分骨され、安置されています。境内と書かれているので、ここも慈恩寺の境内なのでしょうか。少し違和感があります。
玄奘三蔵法師といえば、かの「西遊記」の名僧であり、また経典を求めて遠く天竺まで苦難の旅路を続ける法師を助けて、妖怪相手に大活躍する「孫悟空」は有名です。
ところがこの大偉人の霊骨が、慈恩寺に奉納されているのです。


↑ 三蔵法師(玄奘)の 霊骨奉安 の塔

遺骨発見・・昭和17年12月、第二次世界大戦のさなか、南京を占領していた日本軍が、中華門外に駐屯し、稲荷神社建立のため丘を整地していた時に、石棺を発見しました。
石棺には宋の天聖五年(1027)に、三蔵法師の頂骨が、演化大師可政によって長安から南京にもたらされたことが記されていました。日中両国の専門家が調査の結果、玄奘三蔵法師の頂骨であることが確認されました。

中国では偉大な人物や国王の墓に、数々の価値ある副葬品が埋葬のが通例であり、度々盗掘が行われ、墓が荒廃のまま放置されました。そこで、心ある人(特定されている)が盗掘を防ぐための理由で、南京に再埋葬したとのことです。

発見の翌年、頂骨は仏像・銀・錫製の箱等の副葬品と共に南京政府に還付されました。
昭和20年終戦。仏教連合会では、疎開先であった慈恩寺を正式な奉納の地を決することに決めましたが、戦時中に中国政府から贈られた霊骨ではありますが、戦時下の事で、このままで良いのか・・という問題が提起されました。
新中国の蒋介石主席と親交のある水野梅暁師が、主席の意向をお伺いすることになりました。そして昭和21年12月、霊骨奉安3周年記念法要の際、蒋介石主席の意向が伝えられました。・・・・「霊骨は返還に及ばないこと、むしろ日中提携は文化の交流にあり、日本における三蔵法師の遺徳の顕彰は誠によろこばしいことであり、しかも、奉安の地が法師と何等かの因縁の地であるからは、この地を顕彰の場と定めては」との意向が示されて、こうして正式に慈恩寺の地に霊骨塔建設が決定したのであります。

 

札所一覧
第1番:大蔵山:杉本寺:神奈川県鎌倉市二階堂:十一面観世音菩薩
第2番:海雲山:岩殿寺:神奈川県逗子市久木 :十一面観世音菩薩
第3番:祗園山:安養院:神奈川県鎌倉市大町 :千手観世音菩薩
第4番:海光山:長谷寺:神奈川県鎌倉市長谷 :十一面観世音菩薩
第5番:飯泉山:勝福寺:神奈川県小田原市飯泉:十一面観世音菩薩
第6番:飯上山:長谷寺:神奈川県厚木市飯山 :十一面観世音菩薩
第7番:金目山:光明寺:神奈川県平塚市南金目:聖観世音菩薩
第8番:妙法山:星谷寺:神奈川県座間市入谷 :聖観世音菩薩
第14番:瑞応山:弘明寺:神奈川県横浜市南区弘明寺町:十一面観世音菩薩

第9番 :都幾山:慈光寺:埼玉県比企郡都幾川村西平:十一面千手千眼観世音菩薩
第10番:巌殿山:正法寺:埼玉県東松山市岩殿   :千手観世音菩薩
第11番:岩殿山:安楽寺:埼玉県比企郡吉見町御所 :聖観世音菩薩
第12番:華林山:慈恩寺:埼玉県岩槻市慈恩寺   :千手観世音菩薩

第13番:金龍山:浅草寺:東京都台東区浅草    :聖観世音菩薩

第15番:白岩山:長谷寺:群馬県群馬郡榛名町白岩  :十一面観世音菩薩
第16番:五徳山:水澤寺:群馬県北群馬郡伊香保町水沢:千手観世音菩薩

第17番:出流山:満願寺:栃木県栃木市出流町    :千手観世音菩薩
第18番:日光山:中禅寺:栃木県日光市中禅寺歌ケ浜 :千手観世音菩薩
第19番:天開山:大谷寺:栃木県宇都宮市大谷町   :千手観世音菩薩
第20番:獨鈷山:西明寺:栃木県芳賀郡益子町大字益子:十一面観世音菩薩

第21番:八溝山:日輪寺:茨城県久慈郡大子町上野宮真名板倉:十一面観世音菩薩
第22番:妙福山:佐竹寺:茨城県常陸太田市天神林町 :十一面観世音菩薩
第23番:佐白山:観世音寺:茨城県笠間市笠間    :千手観世音菩薩
第24番:雨引山:楽法寺:茨城県真壁郡大和村本木  :延命観世音菩薩
第25番:筑波山:知足院中禅寺大御堂:茨城県つくば市筑波:千手観世音菩薩
第26番:南明山:清滝寺:茨城県新治郡新治村小野  :聖観世音菩薩

第27番:飯沼山:圓福寺:千葉県銚子市馬場町    :十一面観世音菩薩
第27番奥の院:補陀洛山:満願寺:千葉県銚子市天王台:十一面観世音菩薩
第28番:滑河山:龍正院:千葉県香取郡下総町滑川  :十一面観世音菩薩
第29番:海上山:千葉寺:千葉県千葉市中央区千葉寺町:十一面観世音菩薩
第30番:平野山:高蔵寺:千葉県木更津市矢那    :聖観世音菩薩
第31番:大悲山:笠森寺:千葉県長生郡長南町笠森  :十一面観世音菩薩
第32番:音羽山:清水寺:千葉県夷隅郡岬町鴨根   :千手観世音菩薩
第33番:補陀洛山:那古寺:千葉県館山市那古    :千手観世音菩薩

所在別 :神奈川県 9
     埼玉県  4
     東京都  1
     群馬県  2
     栃木県  4
     茨城県  6
     千葉県  7+1=8   合計33+1

本尊   十一面観世音菩薩     15
     十一面千手千眼観世音菩薩  1
     千手観世音菩薩         11
     聖観世音菩薩           6
     延命観世音菩薩          1   合計34


関八州 安房、上野、下野、相模、武蔵、上総、下総、常陸 =8

関東 一都六県 東京 神奈川 埼玉 千葉 群馬 栃木 茨城 =7

*数が合わないのは、武蔵は埼玉県と東京都と川崎・横浜辺りまで、千葉県は安房、上総、下総に分離していた所為です。