ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

飯田線 慕情 4 信濃毎日新聞より

2014-08-31 19:14:13 | 時事ニュース

飯田線 慕情 4 信濃毎日新聞より

信濃毎日新聞

「JR東海、リニア工事認可申請 アセス評価書最終版も提出」 08月27日(水)

[写真・省略] ・・国交省の担当者にリニア中央新幹線の工事実施計画を提出するJR東海の宇野護・中央新幹線推進本部長(左)=26日、東京・霞が関 
JR東海は26日、リニア中央新幹線の東京(品川)―名古屋間について、工事実施計画を国土交通省に提出、工事の認可を申請した。太田昭宏国土交通相の意見を受けて補正した長野県を含む沿線1都6県の環境影響評価(アセスメント)書の最終版も提出。アセス手続きは、29日から1カ月間実施する公告・縦覧を残して終了した。太田国交相が認可すれば、JRは10月にも2027年の同区間の完成に向けて事業着手する。

 実施計画では、JR東海が負担する同区間の総工事費が従来の説明より935億円増えて5兆5235億円になるとの見通しを示した。高性能設備の導入や人件費の上昇などを理由に挙げた。

 長野県が知事意見で求めていた作業用トンネル坑口(非常口)の削減は、木曽郡南木曽町や下伊那郡大鹿村は当初計画から変更されなかった。同村の小渋川に架かる橋の地中化、市町村などとの環境保全に関する協定の締結も評価書の最終版には盛られなかった。

 長野県分の評価書には、トンネル掘削による発生土の活用先の候補地情報を追加で記載した。知事意見を踏まえて調査した絶滅危惧種「ミゾゴイ」の調査では大鹿村で鳴き声を確認。同じく「ブッポウソウ」は、工事車両が通る上伊那郡中川村でつがい3組の繁殖行動などが見られたとし、JR東海は「必要に応じて環境保全を検討する」とした。

 JR東海は26日に長野市で開いた記者会見で、大鹿村のトンネル掘削で出る残土の運搬経路となる県道松川インター大鹿線について「改良にかかる費用を負担する考えはある」と説明。同様に他の狭い道路を運搬経路にする場合も「必要に応じて改良しなければならない」とし、一定額の費用を工事実施計画に見積もっている―とした。

 JR東海の宇野護(まもる)・中央新幹線推進本部長が国交省鉄道局を訪問。江口秀二・施設課長に対し、7月の国交相意見を踏まえて補正した評価書などの書類を提出した。その後、都内で記者会見したJR東海の金子慎(しん)・副社長は、評価書について「関係部門が総力を挙げて充実した内容に仕上げた。記載した内容に基づき(工事などを)しっかり進めていく」と説明。「認可をいただき次第、安全面、環境面に十分配慮して工事を進めていきたい」と述べた。

 JR東海は工事認可申請を2回に分けて行う予定で、今回はトンネルや橋、駅など土木構造物を中心に申請、工事費は4兆158億円とした。電気設備や車両などは別途、認可申請する。

 ・・・ 2027年完成に向けて リニア中央新幹線の敷設工事は着実に動き始めているようです。しかし、全容については、まだ詳しく分かりません。

次回は、リニア中央新幹線とは ・・・ を見極めてみたいと思います。


飯田線 慕情 3  飯田線 秘境の駅

2014-08-31 06:59:37 | 名勝

飯田線 慕情  飯田線 秘境の駅

天竜川の渓谷 1


天竜川の渓谷 2

天竜川の渓谷 3

天竜川の渓谷 4

 

飯田線が走っている路線の車窓を眺めて、辰野から豊橋までを見ると、最初は長閑な田園風景が延々と続く。これが、天竜峡を過ぎる辺りから、車窓の風景は一変してくる。天竜川が流れる両脇は、深い渓谷を見せ始める。電車は、その渓谷にへばりつくように線路を張っている。電車は、トンネルに次ぐトンネルを潜り、川はダム湖に変わり、幾つもの水力発電のダムの脇を通過する。そして最後に、かって東洋一と言われた佐久間ダムを過ぎると、山容は丸みを帯び高度を低くする。飯田線は、佐久間ダム辺りで、赤石山系と天竜川を離れたのだ。そして、三河高原に入り、長篠辺りから平地が多くなっていく。
この天竜峡から佐久間ダムのある水窪辺りまでが、過疎地帯で限界集落を形成しているのだろう。この過疎地帯が、飯田線の秘境と言われる駅を出現させているのだ。
人が住むことを拒む地域は、秘境駅と呼ばれ郷愁を誘うらしい。

天竜峡

伊那から飯田まで周囲が開けた部分を流れてきた天竜川は天竜峡に至ってぐっと川幅が狭まり渓谷状になる。周囲に岸壁が連なり、有名な天竜船下りで知られる観光地になる。
天竜峡一帯は領家変成帯に属していて、領家帯には主に花崗岩や高温低圧型の変成岩や片麻岩などが分布している。天竜峡には主に花崗岩が露出していて、ここの花崗岩は「天竜峡花崗岩」と呼ばれ、特徴としては、鉱物に一定の配列が見られることや、捕獲岩(ゼノリス)が多いことである。
 ・・・ 地質学の専門家でないので詳しくは分からないが、上流は谷を削って、教科書にも載る有名な河岸段丘を生成しているのに対し、ここから下流は、この岩壁を削ることができないのだ。ここからは、顕かに地質の変化が見られるようだ。
記憶に絶対の自信はないが、天竜峡から上流部の方が、土砂崩れ・土石流の災害は多いような気がする。下流部の方は、山道に落石の情報はあるが、土砂崩れの情報は意外と少ない。

秘境駅の路線図

 

飯田線・秘境六駅

小和田駅中井侍駅

為栗駅田本駅

金野駅千代駅

 

  

○JR飯田線・小和田駅・三県県境



○JR飯田線・中井侍駅・茶畑


○JR飯田線・為栗駅



○JR飯田線・田本駅・ホームへ急勾配

 

 

○JR飯田線・金野駅



○JR飯田線・千代駅



牛山隆信の秘境駅の五つの要素 ・・・
*秘境度 - 周囲が断崖絶壁、深い山林、荒涼とした原野にあり、人家が無い。
*雰囲気 - 駅舎、待合室、周囲の建造物などに古い歴史を感じさせる。
*列車到達難易度 - 列車の停車が極めて少なく、当該秘境駅に到達するのが困難である。
*車到達難易度 - 駅までの道が無い、次いで歩道のみ、未舗装の林道など、自動車やオートバイでの当該秘境駅訪問が困難。
 ・・・牛山隆信 秘境駅の写真家

駅名の読み方

天竜峡;てんりゆうきよう →
千代;ちよ →
金野;きんの →
唐笠;からかさ →
門島;かどしま →
田本;たもと →
温田;ぬくた →
為栗;してぐり →
平岡;ひらおか →
鶯巣;うぐす →
伊那小沢;いなこざわ →
中井侍;なかいさむらい →
小和田;こわだ →
大嵐;おおぞ →
水窪;みさくぼ →

峡谷を走る飯田線の駅名です。全部正解で読めた人はいるのでしょうか?
特に、金野;為栗;鶯巣;大嵐;は正解率が低そうです。

小和田を挟んだ、長野、静岡、愛知の三県の県境は、冬場の火祭り、霜月神楽の地でもあります。古代の祭礼の原型とも言われる神への奉納の舞は、神秘的であるとともに心に響くものを持っています。

霜月神楽・遠山

ちなみに、小和田は静岡県の駅で、浜松市になります。


飯田線 慕情 2  飯田線の概容と歴史

2014-08-31 01:04:58 | 歴史

飯田線 慕情 2  飯田線の概容と歴史

飯田線は、豊橋駅と辰野駅を結ぶJR東海の鉄道路線(地方交通線)。

山間を走る飯田線

概容 ・・・
全線開通の開業は1937年。
ダム建設輸送・戦時国有化・国鉄分割民営化と、折々の時代の要請の中で愛知県、静岡県、長野県に跨る険しい山岳地帯を貫き全通を果たし、現在も東三河・天竜・中南信の都市農山村を結ぶ路線。
上諏訪駅から豊橋駅まで各駅停車で直通する列車もあり、辰野駅から豊橋駅までは約六時間かかるが、一度も乗り換えることなく行くことができる。
旧形国電の宝庫として鉄道ファンの注目を集めたが、現在でも天竜川の険しい渓谷を縫うように走る車窓風景や、小和田駅や田本駅などのいわゆる秘境駅の存在から、鉄道ファンや旅行者に人気のある路線である。
もともと四社の私鉄路線(豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道)を戦時国有化・統合したことで成立した路線であり、駅は開通時の沿線集落ごとに設けられている。
駅間距離がとても短いのが特徴で、全長195.7km中に起終点を含めて実に94の駅がある。それらの平均駅間距離は約2.1kmと大都市の市街地路線並みであり、また速度は低く、急カーブや急勾配も多く見られる。
中でも赤木駅 - 沢渡駅間の勾配は40°で、現在ではJR最急勾配である。

中央構造線のもろい地層と、天竜川峡谷の断崖絶壁に阻まれて工事は難航。
コスト削減のため、実際の土木工事は、ほとんど朝鮮半島から来た人々が担った。
それでも会社の資金繰りは悪く、朝鮮人の労働者は労働争議に訴えてようやく不払いの賃金を一部だけ獲得するというありさまであり、もろい地層の工事にもかかわらず保安設備は劣悪で犠牲者が続出、恐れをなした朝鮮人労働者が現場から逃げ出し、近隣の農村に駆け込む事態も起こった。
1931年からとうとう工事は中断したが、三菱銀行などから多額の融資が得られ、この工事に生命をかけた飛島組の熊谷三太郎が工費を自分で立て替える熱意とあいまって、工事は再開された。
このような紆余曲折と日本鉄道史に残る凄惨な工事の末、最後の大嵐駅 - 小和田駅間の開業でこの区間が全通したのは1937年である(当初より電化)。


熊谷三太郎と川村カ子ト  ・・・飯田線敷設で、忘れてはならない人

熊谷三太郎

熊谷三太郎

飯田線の敷設工事を語る時、熊谷三太郎は欠かせません。
明治に、福井で生まれた熊谷三太郎は、京都・宿布発電所の土木工事を請け負い完成させると、水力発電所や鉄道敷設工事に携わり、後に同業の飛鳥組の飛鳥文吉の高い理想に共鳴して飛鳥組に入る。飯田線敷設工事は、三太郎が飛鳥組の部長の時であった。この工事は、地盤が悪く、峡谷の断崖絶壁と言うこともあって、難航を重ねた。時には、途中で資金が途絶えることもあったが、自分で工費を立て替えるという熱意で銀行から融資を得て、漸く成功する。この飯田線の難工事の成功は、三太郎を、飛鳥組から独立させ、難工事で培った技術は三太郎の会社を飛躍的に大きくさせていった。今も土木に強い”熊谷組”である。
熊谷三太郎は、その後社長を”大三郎"に譲り、自らは参議院議員になったという。
熊谷組の社史をみると、飯田線敷設工事に熊谷三太郎が関わった記述があるが、その文字は一行に満たない。世界に飛び出している熊谷組という建設・土木会社が、繁栄の出発点となった飯田線敷設工事がこの扱いである。これには、飯田線完成という輝かしい業績の裏に負の遺産を抱えており、熊谷組が、この負の遺産に触れたくないのだと穿った見方も出来る。

平岡ダム

*負の遺産:参考(先輩のブログです) ・・ 南信州を行く③・・・平岡ダム・・・負の歴史

 

水力発電所・平岡ダムなどと飯田線の敷設は関係が深いと言われています。この両方の工事に朝鮮労働者が従事していたことは事実認定されています。熊谷三太郎と朝鮮労働者との関係を示す資料もあるそうです。

 

川村カ子ト(かねと)

川村か子と

明治二十六年(1893) - 昭和五十二年(1977)。旭川市永山に生まれる。
上川アイヌの長で、旧国鉄の測量技手。
国鉄退職後はアイヌ記念館館長、旭川アイヌ民族史跡保存会長、旭川アイヌ民族工芸会長などを務めた。
小学校卒業後、鉄道測量隊の手伝いをするなかで測量を学び、測量技手試験に合格し、鉄道員札幌講習所を卒業後、北海道各地の線路工事の測量に携わる。
三信鉄道(飯田線の元)に請われ、難しすぎて引き受け手の無かった天竜峡~三河川合間の測量をアイヌ測量隊をひきいて敢行。現場監督も務めて難工事を完成させた。
急峻な山岳地帯を通過するルートで、非常な難工事であったが、アイヌ出身の測量士で山地での測量技術に長けた川村カ子ト等が招聘されて建設にあたり、ようやく完成した。
三信鉄道開通後は、樺太や朝鮮半島での測量にも従事するが、1944年(昭和19年)日本へ戻る。戦後は、視力の衰えで測量の仕事を離れ、川村カ子トアイヌ記念館の館長を務めた。昭和35年(1960)には、三信鉄道における貢献を縁として、信州に招かれている。