ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

椚平の秋海棠

2014-08-08 20:43:30 | 草・木・花 風に吹かれて

椚平の秋海棠 ・・シュウカイドウ


○秋海棠 西瓜の色に 咲きにけり    ・・芭蕉


芭蕉の句にも歌われた秋を告げる花・秋海棠が淡紅色の花を咲かせ始めました。
しかし、 ・・・、まだ開花が少ないようです。
秋海棠は、可憐ですが地味です。ですが群落と成ると、見事!
花の色は、”西瓜の色”の淡紅色。この表現が絶妙 ・・しかして芭蕉の句が有名に!

椚平の秋海棠の群落は、大小併せて三カ所以上。道端にも咲いています。
椚平の地名のもと ・・椚ノ木はよく分かりませんでした。
慈光寺の重忠の板碑(イタヒ)のもとの草むらも秋海棠であったような ・・・

慈光寺の”いにしえ”を訪ねた時 ・・秋海棠の群落も訪ねてみました。


参考・・

↑ 去年の秩父札所32番法性寺・秋海棠の寺(ブログより)


坂東九番『都幾山:慈光寺』

2014-08-08 01:55:58 | 史跡

坂東九番『都幾山:慈光寺』

慈光寺は、埼玉県比企郡ときがわ町(旧都幾川村)にある天台宗の寺院である。山号は都幾山。院号は一乗法華院。本尊は千手観音で、坂東三十三箇所第九番札所。

この寺は、天武天皇二年(673)興福寺の僧慈訓が千手観音を安置し、その後宝亀元年(770)道忠が開山となって創建されたという。平安時代の貞観年間(859 - 877)には勅願所となり、天台宗の別院となり、その中心的な寺院となった。その後、源頼朝をはじめ徳川将軍家などの帰依を得た。*勅願寺より …天皇の勅願で建立された寺,もしくは綸旨により勅願寺となった寺。勅願所ともいう。奈良時代の薬師寺,東大寺,国分寺,国分尼寺などの官寺,平安時代の天皇御願寺の系譜をひくもので,勅願寺の名称は中世以後である。

開山塔 ↑

慈光寺 山門と阿弥陀堂 ↑


不思議なる塔頭の庵の寺院・霊山院

開山は臨済宗開祖の栄西禅師の高弟・栄朝禅師。後鳥羽天皇から勅命を受け、慈光寺の塔頭として、建久八年(1197)に創建、「東関最初禅窟」の勅額があり、勅使門もある。
奇妙に感じるのは、慈光寺が天台宗であり、塔頭の庵・寺院の霊山院が、臨済宗であること。さらに勅使門があることは、天皇家から度々使いが訪れていたことを裏付けている。

慈光寺と霊山院の風景を眺めると違いが見えてくる。霊山院は墓地を有し、慈光寺には見えてこない。寺には、祈祷祈願する寺と供養する寺とがあると聞きます。どうも、慈光寺は祈願する寺で、霊山院は、供養する寺のようです。役割が分かれていたのかも知れません
江戸時代、慈光寺は家康から百石の知行を受けていたが、そのうち十三石が霊山院に割り当てられた、と聞きます。

慈光寺は、戦国時代に、高僧達の塔頭と修行僧達の学僧を合わせて七十五の坊を持っていたことで知られる。この多くの坊は、つまり僧兵の住居だが、彼等をもって、太田道灌や小田原北条の家臣・松山城主上田朝直と戦っている。その痕跡の上田朝直の出城の大築城跡は、堀割りを明確に残しているが、慈光寺を攻略するためという記録が残る。


  

畠山重忠 板碑 ↑


 

申八梵王の碑

このことを基に、後鳥羽天皇・上皇の動きを類推すれば、鎌倉幕府調伏(=転覆)の祈祷を行い、さらに承久の乱に繋がった天皇家の意志は、鎌倉幕府の基盤の坂東の動乱の火元に、慈光寺を想定していたのではないかと ・・・・・・しかし、慈光寺は、頼朝が認めた坂東三十三観音の一つ ・・・・・・後鳥羽上皇の企てが実ったという事歴は、歴史に残っていない。

観音堂 ↑ この裏手の山道は堂平山に通じる

 

観音堂への石段 ↑


慈光寺の領域は、都幾山山中 ・・・・。これがめっぽう広い。観音堂や阿弥陀堂を中心に様々な塔院が散在するが、所々平地も見受けられる。恐らくこの平地が塔頭と学僧の坊の跡であろうと想定出来る。参道口付近(今のバス停付近)は若い学僧が住居し、本堂付近から奧は、高僧の塔頭跡と認識するが、奥の院は堂平山山頂と聞くと、余りの広大さに驚くばかりである。参道口付近は、今では民家に変わっているようです。
堂平山は、東大天文台があったが閉鎖し、今は都幾川町が「星空観望」を売り物に運営するキャンプ地になっている。ここで一泊し、テントかバンガロウで星空を眺めるのも楽しそうだ。かってここを彷徨いたが、奥の院らしき痕跡は見つからなかった。
・・・ 慈光寺の観音堂の真後ろの山道を登ると堂平山に至る。

山中の平場 坊の跡か? 何故か土屋文明の文字が・・・ ↑

慈光寺が残した遺産!

やはり、慈光寺は、古刹であり、名刹であり、大寺院のようです。
頼朝が、同族の木曾義仲を追討して討ち果たした話や、弟の範頼に謀反の疑いをかけ、伊豆で自殺に追いやり、子息達が、頼朝の室・政子の庇護で、慈光寺に隠された話など、慈光寺は、頼朝の纏わる伝承が幾つも残っております。
その中に、頼朝が、知行として、慈光寺に与えた所領が1200町、とあります。
家康は、石高(生産高)で知行し、その少し前は、石高と貫高が併用されていました。頼朝の時代は、町という単位です。恐らく面積でしょうか。
今と昔は、計算方法が違うのかも、生産力が違うのかも知れませんが ・・・
1町の面積で100俵の米が生産できるとして、1200町では、120000俵になります。1石が2.5俵という換算式に従えば、48000石ということになります。
これは、大名並みです。事実とすれば、慈光寺の経済力は相当なものです。恐らく坂東随一とも思えます。(参照・1石で成人一人の年間消費量)
こう考えると、鎌倉時代の慈光寺は、戦国時代より塔頭や学僧が多く、事あらば、僧兵に身を変えたのではないかと想像できます。
この経済力豊かな慈光寺は、消費する量も多く、次の様なものを現代に残しています。

○和紙 ・・・「都幾山慈光寺」の僧侶が使う細川紙を製造するために「小川町の和紙」が盛んになったと言われています。 ・・・・・・慈光寺から小川町まで9Km。徒歩約2時間
*細川紙は、昭和53(1978)年、技術が国の重要無形文化財に指定。現在小川町と東秩父村のみでその技術が保持されています。製法は、細川紙とは、紀州高野山麓の細川村で漉かれていた細川奉書が、始まりとともに言われています。この起源は古く、 承和八年(841)には、武蔵国男衾郡大領であった新羅系渡来人の有力者であると言われる壬生吉志福正が、二人の息子が納めるべきいわば租税を、兄のため紙八十張、弟に百六十張を前納したという記録が残ります。既に8世紀から9世紀にかけて、この周辺で紙漉きが行われていたものと考えられ、渡来人が大陸から紙漉きの技術をもたらしたものとも推定されています。又中世、慈光寺が創建され、その必要性から紙漉きも隆盛を極めたとも言われていました。
細川紙とは、貴族や武家などの高級な奉書紙ではなく、近世商家や町方や村方役所で好まれた庶民の生活必需品のようです。美しさよりも強靭なものだったようです。
細川紙は、江戸時代には「小川紙」とか「武蔵紙」と言われ、古くは宝亀五年(774)の記録で「武蔵国紙480張筆50管」と正倉院文書にあるのが初見です。
江戸時代、細川紙の生産業者は男衾、比企、秩父の武州三郡、その漉家705戸の一大和紙生産地でした。最盛期は明治二十七年頃、漉家は1070戸あったと言われています。

○湯葉 ・・・慈光寺の僧侶の蛋白源は豆腐で、都幾川は豆腐や湯葉の名産地になりました。

○建具木工 ・・・都幾川の慈光寺近くに「建具会館」があります。建具はときがわ町の地場産業で、家屋開閉部の建具・・襖、障子、雨戸、門扉などなのことを言い、埼玉県最大の生産地です。慈光寺の建具全般を扱う技能集団(番匠=大工)が報償として、番匠免(免税地)を与えられて移り住み、秀逸な建具技術を伝承してきた、と聞きます。番匠という地名が、明覚駅の近くに確かに存在し、建具の文化を伝えています。

明覚駅(八高線の駅)・・駅百選に選ばれた美しい駅です

明覚駅 ↑

慈光寺の番匠(大工)たちの、技の結晶?の駅舎!なのでしょうか ・・・

 

参考:過去の慈光寺の記事(当ブログ)

慈光寺 ・・・秋 紅葉