ときどりの鳴く 喫茶店

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坂東十一番『岩殿山:安楽寺』

2014-08-04 13:44:39 | 史跡

坂東十一番『岩殿山:安楽寺』

 

坂東三十三観音を指定した頼朝は、武蔵国(=埼玉県)に四観音を指定した。そのうち、三観音は比企周辺に集中している。源範頼の事跡経歴を眺めると源平合戦以前に、武蔵野に痕跡はない。してみると、その以前からこの地方に関係があったと思われる頼朝幕府の重臣は、畠山重忠と比企能員であり、坂東三十三観音の選定に関わったと見て良いのではないかと思われる。

では、源範頼が吉見と無関係かというとそうでもなさそうだ。伝承が残るのは、安楽寺がある寺門前領域を"御所”といい、範頼が隠棲したという。これは歴史学者が証明したわけではないが、この地に確実に残る伝承であるそうだ。

源範頼・・・・時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期。父:源義朝、養父:藤原範季
生誕久安六年(1150-死没建久四年(1193)?、別名 蒲冠者、蒲殿、参州、吉見御所
源範頼、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。
遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者、蒲殿とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ誅殺された。
武蔵国横見郡吉見(埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。

源範頼が吉見に住んだと言う痕跡は残っていない。源平合戦以前に浜松の御厨で生まれ育てられたという。養父は藤原範季で、熱田神宮系の神官を兼ねていたようだ。勢力範囲は三河国であり、範頼は、故に三河守を名乗ったという。源平合戦では、兄頼朝の名代として、平家追討の大将として軍を率い、軍功を挙げた。吉見受領はその恩賞とも思えるが、住んだと言う記録は残らない。謀反の科で誅された後、子孫子息が隠れ住んだというのが事実に近そうである。県道271号線と345号線とが交わる中新井の交差点のすぐ南西側に息障院という寺院があるが、これが源範頼の館跡と言われている所である。しかし正しくは”範頼係累の館”とした方が良い。また、息障院は、安楽寺の塔頭であり、安楽寺の寺領の山域に属していたものを現地に移したと言われる。

 

                        聖徳太子碑↑                        太子堂↑

 

                            安楽寺山門 ↑                         庭園の蓮 ↑

三重の塔 ↑

猫と金剛像 ↑



黒岩横穴墓群


黒岩横穴墓群は吉見百穴よりも大規模で、500個以上の穴があるのではないかと推測されているが、未調。

そのほとんどが未発掘のため、保存状態は吉見百穴に比べきわめて良好。

  

黒岩横穴墓群 ↑

坪井と白井の論争


吉見百穴は、1887年坪井正五郎が発掘調査し,コロボックルの住居跡として発表して以来,住居説,墳墓説の論争の舞台となり,一躍「吉見の百穴」として有名になった。
しかし住居とするにはやや小さいために背丈の違う先住民居住説を述べたのでした。有名なコロボックル居住説でした。のちに延々と続く白井光太郎との論戦のひとつとなったもので、坪井正五郎の住居説に対して白井光太郎は一貫して墳墓説を主張しました。結果として現代では各地の同類の洞穴遺跡の状況から墳墓の目的で作られたものであろうという事になっています。
*坪井正五郎は弥生式土器の発見者としても有名で、考古学の草分けです。

この墓の成立は、六・七世紀と言うことが埋葬品から確認されています。時は、縄文・弥生を過ぎて飛鳥・古墳時代です。この頃の死者の埋葬は、住居側に穴を掘り、埋めて土盛りをする、所謂”土まんじゅう"方式が一般で、やや偉い人には目印に印石を置くぐらいでした。かなり偉い人の墓は古墳です。古墳時代の前期は前方後円墳、後期は円墳になります。横穴墓群は、希少ではないが一般的ではありません。調べて見ると、同時期の中国では、中原地域をはじめとする各地で、「室墓」とされる横穴系の墓制が広く採用されていたようです。大陸の墓の文化が、朝鮮半島を経て、日本に痕跡を残した例と捉えることは奇抜な発想ではなさそうです。

 

八丁湖 ↑