ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

飯田線 慕情 2  飯田線の概容と歴史

2014-08-31 01:04:58 | 歴史

飯田線 慕情 2  飯田線の概容と歴史

飯田線は、豊橋駅と辰野駅を結ぶJR東海の鉄道路線(地方交通線)。

山間を走る飯田線

概容 ・・・
全線開通の開業は1937年。
ダム建設輸送・戦時国有化・国鉄分割民営化と、折々の時代の要請の中で愛知県、静岡県、長野県に跨る険しい山岳地帯を貫き全通を果たし、現在も東三河・天竜・中南信の都市農山村を結ぶ路線。
上諏訪駅から豊橋駅まで各駅停車で直通する列車もあり、辰野駅から豊橋駅までは約六時間かかるが、一度も乗り換えることなく行くことができる。
旧形国電の宝庫として鉄道ファンの注目を集めたが、現在でも天竜川の険しい渓谷を縫うように走る車窓風景や、小和田駅や田本駅などのいわゆる秘境駅の存在から、鉄道ファンや旅行者に人気のある路線である。
もともと四社の私鉄路線(豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道)を戦時国有化・統合したことで成立した路線であり、駅は開通時の沿線集落ごとに設けられている。
駅間距離がとても短いのが特徴で、全長195.7km中に起終点を含めて実に94の駅がある。それらの平均駅間距離は約2.1kmと大都市の市街地路線並みであり、また速度は低く、急カーブや急勾配も多く見られる。
中でも赤木駅 - 沢渡駅間の勾配は40°で、現在ではJR最急勾配である。

中央構造線のもろい地層と、天竜川峡谷の断崖絶壁に阻まれて工事は難航。
コスト削減のため、実際の土木工事は、ほとんど朝鮮半島から来た人々が担った。
それでも会社の資金繰りは悪く、朝鮮人の労働者は労働争議に訴えてようやく不払いの賃金を一部だけ獲得するというありさまであり、もろい地層の工事にもかかわらず保安設備は劣悪で犠牲者が続出、恐れをなした朝鮮人労働者が現場から逃げ出し、近隣の農村に駆け込む事態も起こった。
1931年からとうとう工事は中断したが、三菱銀行などから多額の融資が得られ、この工事に生命をかけた飛島組の熊谷三太郎が工費を自分で立て替える熱意とあいまって、工事は再開された。
このような紆余曲折と日本鉄道史に残る凄惨な工事の末、最後の大嵐駅 - 小和田駅間の開業でこの区間が全通したのは1937年である(当初より電化)。


熊谷三太郎と川村カ子ト  ・・・飯田線敷設で、忘れてはならない人

熊谷三太郎

熊谷三太郎

飯田線の敷設工事を語る時、熊谷三太郎は欠かせません。
明治に、福井で生まれた熊谷三太郎は、京都・宿布発電所の土木工事を請け負い完成させると、水力発電所や鉄道敷設工事に携わり、後に同業の飛鳥組の飛鳥文吉の高い理想に共鳴して飛鳥組に入る。飯田線敷設工事は、三太郎が飛鳥組の部長の時であった。この工事は、地盤が悪く、峡谷の断崖絶壁と言うこともあって、難航を重ねた。時には、途中で資金が途絶えることもあったが、自分で工費を立て替えるという熱意で銀行から融資を得て、漸く成功する。この飯田線の難工事の成功は、三太郎を、飛鳥組から独立させ、難工事で培った技術は三太郎の会社を飛躍的に大きくさせていった。今も土木に強い”熊谷組”である。
熊谷三太郎は、その後社長を”大三郎"に譲り、自らは参議院議員になったという。
熊谷組の社史をみると、飯田線敷設工事に熊谷三太郎が関わった記述があるが、その文字は一行に満たない。世界に飛び出している熊谷組という建設・土木会社が、繁栄の出発点となった飯田線敷設工事がこの扱いである。これには、飯田線完成という輝かしい業績の裏に負の遺産を抱えており、熊谷組が、この負の遺産に触れたくないのだと穿った見方も出来る。

平岡ダム

*負の遺産:参考(先輩のブログです) ・・ 南信州を行く③・・・平岡ダム・・・負の歴史

 

水力発電所・平岡ダムなどと飯田線の敷設は関係が深いと言われています。この両方の工事に朝鮮労働者が従事していたことは事実認定されています。熊谷三太郎と朝鮮労働者との関係を示す資料もあるそうです。

 

川村カ子ト(かねと)

川村か子と

明治二十六年(1893) - 昭和五十二年(1977)。旭川市永山に生まれる。
上川アイヌの長で、旧国鉄の測量技手。
国鉄退職後はアイヌ記念館館長、旭川アイヌ民族史跡保存会長、旭川アイヌ民族工芸会長などを務めた。
小学校卒業後、鉄道測量隊の手伝いをするなかで測量を学び、測量技手試験に合格し、鉄道員札幌講習所を卒業後、北海道各地の線路工事の測量に携わる。
三信鉄道(飯田線の元)に請われ、難しすぎて引き受け手の無かった天竜峡~三河川合間の測量をアイヌ測量隊をひきいて敢行。現場監督も務めて難工事を完成させた。
急峻な山岳地帯を通過するルートで、非常な難工事であったが、アイヌ出身の測量士で山地での測量技術に長けた川村カ子ト等が招聘されて建設にあたり、ようやく完成した。
三信鉄道開通後は、樺太や朝鮮半島での測量にも従事するが、1944年(昭和19年)日本へ戻る。戦後は、視力の衰えで測量の仕事を離れ、川村カ子トアイヌ記念館の館長を務めた。昭和35年(1960)には、三信鉄道における貢献を縁として、信州に招かれている。



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