ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

公園のひまわり ・・開花中

2014-08-10 11:35:34 | 草・木・花 風に吹かれて

承前 公園のひまわり・・開花前

公園のひまわり ・・開花中

夏の日

さあ・・ 一列に並んで 太陽に顔を向けよ!

↑ 後ろ向き

↑ 前向き

↑ 後ろ向き

↑前向き

畝を造って、畑・ひまわり でないとこうは成りません。 ・・・とりあえず見事。


○向日葵の 空かがやけり 波の群  ・・秋櫻子

 


椚平の秋海棠

2014-08-08 20:43:30 | 草・木・花 風に吹かれて

椚平の秋海棠 ・・シュウカイドウ


○秋海棠 西瓜の色に 咲きにけり    ・・芭蕉


芭蕉の句にも歌われた秋を告げる花・秋海棠が淡紅色の花を咲かせ始めました。
しかし、 ・・・、まだ開花が少ないようです。
秋海棠は、可憐ですが地味です。ですが群落と成ると、見事!
花の色は、”西瓜の色”の淡紅色。この表現が絶妙 ・・しかして芭蕉の句が有名に!

椚平の秋海棠の群落は、大小併せて三カ所以上。道端にも咲いています。
椚平の地名のもと ・・椚ノ木はよく分かりませんでした。
慈光寺の重忠の板碑(イタヒ)のもとの草むらも秋海棠であったような ・・・

慈光寺の”いにしえ”を訪ねた時 ・・秋海棠の群落も訪ねてみました。


参考・・

↑ 去年の秩父札所32番法性寺・秋海棠の寺(ブログより)


坂東九番『都幾山:慈光寺』

2014-08-08 01:55:58 | 史跡

坂東九番『都幾山:慈光寺』

慈光寺は、埼玉県比企郡ときがわ町(旧都幾川村)にある天台宗の寺院である。山号は都幾山。院号は一乗法華院。本尊は千手観音で、坂東三十三箇所第九番札所。

この寺は、天武天皇二年(673)興福寺の僧慈訓が千手観音を安置し、その後宝亀元年(770)道忠が開山となって創建されたという。平安時代の貞観年間(859 - 877)には勅願所となり、天台宗の別院となり、その中心的な寺院となった。その後、源頼朝をはじめ徳川将軍家などの帰依を得た。*勅願寺より …天皇の勅願で建立された寺,もしくは綸旨により勅願寺となった寺。勅願所ともいう。奈良時代の薬師寺,東大寺,国分寺,国分尼寺などの官寺,平安時代の天皇御願寺の系譜をひくもので,勅願寺の名称は中世以後である。

開山塔 ↑

慈光寺 山門と阿弥陀堂 ↑


不思議なる塔頭の庵の寺院・霊山院

開山は臨済宗開祖の栄西禅師の高弟・栄朝禅師。後鳥羽天皇から勅命を受け、慈光寺の塔頭として、建久八年(1197)に創建、「東関最初禅窟」の勅額があり、勅使門もある。
奇妙に感じるのは、慈光寺が天台宗であり、塔頭の庵・寺院の霊山院が、臨済宗であること。さらに勅使門があることは、天皇家から度々使いが訪れていたことを裏付けている。

慈光寺と霊山院の風景を眺めると違いが見えてくる。霊山院は墓地を有し、慈光寺には見えてこない。寺には、祈祷祈願する寺と供養する寺とがあると聞きます。どうも、慈光寺は祈願する寺で、霊山院は、供養する寺のようです。役割が分かれていたのかも知れません
江戸時代、慈光寺は家康から百石の知行を受けていたが、そのうち十三石が霊山院に割り当てられた、と聞きます。

慈光寺は、戦国時代に、高僧達の塔頭と修行僧達の学僧を合わせて七十五の坊を持っていたことで知られる。この多くの坊は、つまり僧兵の住居だが、彼等をもって、太田道灌や小田原北条の家臣・松山城主上田朝直と戦っている。その痕跡の上田朝直の出城の大築城跡は、堀割りを明確に残しているが、慈光寺を攻略するためという記録が残る。


  

畠山重忠 板碑 ↑


 

申八梵王の碑

このことを基に、後鳥羽天皇・上皇の動きを類推すれば、鎌倉幕府調伏(=転覆)の祈祷を行い、さらに承久の乱に繋がった天皇家の意志は、鎌倉幕府の基盤の坂東の動乱の火元に、慈光寺を想定していたのではないかと ・・・・・・しかし、慈光寺は、頼朝が認めた坂東三十三観音の一つ ・・・・・・後鳥羽上皇の企てが実ったという事歴は、歴史に残っていない。

観音堂 ↑ この裏手の山道は堂平山に通じる

 

観音堂への石段 ↑


慈光寺の領域は、都幾山山中 ・・・・。これがめっぽう広い。観音堂や阿弥陀堂を中心に様々な塔院が散在するが、所々平地も見受けられる。恐らくこの平地が塔頭と学僧の坊の跡であろうと想定出来る。参道口付近(今のバス停付近)は若い学僧が住居し、本堂付近から奧は、高僧の塔頭跡と認識するが、奥の院は堂平山山頂と聞くと、余りの広大さに驚くばかりである。参道口付近は、今では民家に変わっているようです。
堂平山は、東大天文台があったが閉鎖し、今は都幾川町が「星空観望」を売り物に運営するキャンプ地になっている。ここで一泊し、テントかバンガロウで星空を眺めるのも楽しそうだ。かってここを彷徨いたが、奥の院らしき痕跡は見つからなかった。
・・・ 慈光寺の観音堂の真後ろの山道を登ると堂平山に至る。

山中の平場 坊の跡か? 何故か土屋文明の文字が・・・ ↑

慈光寺が残した遺産!

やはり、慈光寺は、古刹であり、名刹であり、大寺院のようです。
頼朝が、同族の木曾義仲を追討して討ち果たした話や、弟の範頼に謀反の疑いをかけ、伊豆で自殺に追いやり、子息達が、頼朝の室・政子の庇護で、慈光寺に隠された話など、慈光寺は、頼朝の纏わる伝承が幾つも残っております。
その中に、頼朝が、知行として、慈光寺に与えた所領が1200町、とあります。
家康は、石高(生産高)で知行し、その少し前は、石高と貫高が併用されていました。頼朝の時代は、町という単位です。恐らく面積でしょうか。
今と昔は、計算方法が違うのかも、生産力が違うのかも知れませんが ・・・
1町の面積で100俵の米が生産できるとして、1200町では、120000俵になります。1石が2.5俵という換算式に従えば、48000石ということになります。
これは、大名並みです。事実とすれば、慈光寺の経済力は相当なものです。恐らく坂東随一とも思えます。(参照・1石で成人一人の年間消費量)
こう考えると、鎌倉時代の慈光寺は、戦国時代より塔頭や学僧が多く、事あらば、僧兵に身を変えたのではないかと想像できます。
この経済力豊かな慈光寺は、消費する量も多く、次の様なものを現代に残しています。

○和紙 ・・・「都幾山慈光寺」の僧侶が使う細川紙を製造するために「小川町の和紙」が盛んになったと言われています。 ・・・・・・慈光寺から小川町まで9Km。徒歩約2時間
*細川紙は、昭和53(1978)年、技術が国の重要無形文化財に指定。現在小川町と東秩父村のみでその技術が保持されています。製法は、細川紙とは、紀州高野山麓の細川村で漉かれていた細川奉書が、始まりとともに言われています。この起源は古く、 承和八年(841)には、武蔵国男衾郡大領であった新羅系渡来人の有力者であると言われる壬生吉志福正が、二人の息子が納めるべきいわば租税を、兄のため紙八十張、弟に百六十張を前納したという記録が残ります。既に8世紀から9世紀にかけて、この周辺で紙漉きが行われていたものと考えられ、渡来人が大陸から紙漉きの技術をもたらしたものとも推定されています。又中世、慈光寺が創建され、その必要性から紙漉きも隆盛を極めたとも言われていました。
細川紙とは、貴族や武家などの高級な奉書紙ではなく、近世商家や町方や村方役所で好まれた庶民の生活必需品のようです。美しさよりも強靭なものだったようです。
細川紙は、江戸時代には「小川紙」とか「武蔵紙」と言われ、古くは宝亀五年(774)の記録で「武蔵国紙480張筆50管」と正倉院文書にあるのが初見です。
江戸時代、細川紙の生産業者は男衾、比企、秩父の武州三郡、その漉家705戸の一大和紙生産地でした。最盛期は明治二十七年頃、漉家は1070戸あったと言われています。

○湯葉 ・・・慈光寺の僧侶の蛋白源は豆腐で、都幾川は豆腐や湯葉の名産地になりました。

○建具木工 ・・・都幾川の慈光寺近くに「建具会館」があります。建具はときがわ町の地場産業で、家屋開閉部の建具・・襖、障子、雨戸、門扉などなのことを言い、埼玉県最大の生産地です。慈光寺の建具全般を扱う技能集団(番匠=大工)が報償として、番匠免(免税地)を与えられて移り住み、秀逸な建具技術を伝承してきた、と聞きます。番匠という地名が、明覚駅の近くに確かに存在し、建具の文化を伝えています。

明覚駅(八高線の駅)・・駅百選に選ばれた美しい駅です

明覚駅 ↑

慈光寺の番匠(大工)たちの、技の結晶?の駅舎!なのでしょうか ・・・

 

参考:過去の慈光寺の記事(当ブログ)

慈光寺 ・・・秋 紅葉

 

 


坂東十番『巌殿山:正法寺』

2014-08-06 02:38:20 | 史跡

坂東十番『巌殿山:正法寺』

正法寺の創建
 坂東三十三観音霊場の第十番札所の巌殿山正法寺は、養老二年(718)沙門逸海が、岩殿の嶺の岩窟に本尊を安置し、正法庵と号したのがはじまり ・・とか。 

源頼朝ゆかりの寺
鎌代時代には、北条政子の守り本尊として、源頼朝の庇護のもと比企能員が復興、一山六十余坊を擁し、坂東三十三観音霊場の第十番札所の命を賜りました。

室町時代には栄えたものの、永禄十年(1567)松山城合戦の兵火で焼亡、一山の僧徒は離散してしまいます。その後天正二年(1574)僧・栄俊が中興。

 

 

懸崖仏の表情

 

 

石仏・・境内に並ぶ小さな石仏。

全部で百八十八体あるこの石仏は、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所、西国三十三ヶ所の百観音と四国八十八箇所の写し本尊。
四国八十八ヶ所をお参りしたのと同じご利益が得られるそうです。 

 

巌殿観音については、過去数回にわたり、このブログに取り上げています。

参考までに ・・・・・・

正法寺・六面憧

つつじ・・咲き始め  in 物見山&巌殿

巌殿観音の銀杏が色づき始めました ・・

比企の地名の由について と 比企一族

 

 


坂東十一番『岩殿山:安楽寺』

2014-08-04 13:44:39 | 史跡

坂東十一番『岩殿山:安楽寺』

 

坂東三十三観音を指定した頼朝は、武蔵国(=埼玉県)に四観音を指定した。そのうち、三観音は比企周辺に集中している。源範頼の事跡経歴を眺めると源平合戦以前に、武蔵野に痕跡はない。してみると、その以前からこの地方に関係があったと思われる頼朝幕府の重臣は、畠山重忠と比企能員であり、坂東三十三観音の選定に関わったと見て良いのではないかと思われる。

では、源範頼が吉見と無関係かというとそうでもなさそうだ。伝承が残るのは、安楽寺がある寺門前領域を"御所”といい、範頼が隠棲したという。これは歴史学者が証明したわけではないが、この地に確実に残る伝承であるそうだ。

源範頼・・・・時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期。父:源義朝、養父:藤原範季
生誕久安六年(1150-死没建久四年(1193)?、別名 蒲冠者、蒲殿、参州、吉見御所
源範頼、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。
遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者、蒲殿とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ誅殺された。
武蔵国横見郡吉見(埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。

源範頼が吉見に住んだと言う痕跡は残っていない。源平合戦以前に浜松の御厨で生まれ育てられたという。養父は藤原範季で、熱田神宮系の神官を兼ねていたようだ。勢力範囲は三河国であり、範頼は、故に三河守を名乗ったという。源平合戦では、兄頼朝の名代として、平家追討の大将として軍を率い、軍功を挙げた。吉見受領はその恩賞とも思えるが、住んだと言う記録は残らない。謀反の科で誅された後、子孫子息が隠れ住んだというのが事実に近そうである。県道271号線と345号線とが交わる中新井の交差点のすぐ南西側に息障院という寺院があるが、これが源範頼の館跡と言われている所である。しかし正しくは”範頼係累の館”とした方が良い。また、息障院は、安楽寺の塔頭であり、安楽寺の寺領の山域に属していたものを現地に移したと言われる。

 

                        聖徳太子碑↑                        太子堂↑

 

                            安楽寺山門 ↑                         庭園の蓮 ↑

三重の塔 ↑

猫と金剛像 ↑



黒岩横穴墓群


黒岩横穴墓群は吉見百穴よりも大規模で、500個以上の穴があるのではないかと推測されているが、未調。

そのほとんどが未発掘のため、保存状態は吉見百穴に比べきわめて良好。

  

黒岩横穴墓群 ↑

坪井と白井の論争


吉見百穴は、1887年坪井正五郎が発掘調査し,コロボックルの住居跡として発表して以来,住居説,墳墓説の論争の舞台となり,一躍「吉見の百穴」として有名になった。
しかし住居とするにはやや小さいために背丈の違う先住民居住説を述べたのでした。有名なコロボックル居住説でした。のちに延々と続く白井光太郎との論戦のひとつとなったもので、坪井正五郎の住居説に対して白井光太郎は一貫して墳墓説を主張しました。結果として現代では各地の同類の洞穴遺跡の状況から墳墓の目的で作られたものであろうという事になっています。
*坪井正五郎は弥生式土器の発見者としても有名で、考古学の草分けです。

この墓の成立は、六・七世紀と言うことが埋葬品から確認されています。時は、縄文・弥生を過ぎて飛鳥・古墳時代です。この頃の死者の埋葬は、住居側に穴を掘り、埋めて土盛りをする、所謂”土まんじゅう"方式が一般で、やや偉い人には目印に印石を置くぐらいでした。かなり偉い人の墓は古墳です。古墳時代の前期は前方後円墳、後期は円墳になります。横穴墓群は、希少ではないが一般的ではありません。調べて見ると、同時期の中国では、中原地域をはじめとする各地で、「室墓」とされる横穴系の墓制が広く採用されていたようです。大陸の墓の文化が、朝鮮半島を経て、日本に痕跡を残した例と捉えることは奇抜な発想ではなさそうです。

 

八丁湖 ↑

 


坂東十二番『華林山最上院:慈恩寺』

2014-08-02 16:44:28 | 史跡

坂東十二番『華林山最上院:慈恩寺』

↑ 掲額 慈恩教寺

昔、足柄山や箱根の坂の東一帯は坂東と呼びました。板東は一面平原でした。平原は、川が山から土砂を削り流し、堆積させながら平原を造ったと思われます。その一番が利根川で”板東太郎”と呼ばれました。さしずめ荒川は次男坊なのかも知れません。渡良瀬や多摩川なども弟たちなのかも知れません。そうゆうことなら、板東大河の水源あたりが、板東の限界境線と言うことになります。板東の母なる地は、これらの川の水源と言うことになります。恐らく、江戸の”秩父信仰”は、荒川の水源、この発想から生まれたのではないかと思っています。
歴史に、板東の名は戦国の時代まで定着しています。
*坂東太郎(利根川)は長男ですが、次男は筑紫次郎と言われる筑紫川(九州)、三男は四国三郎、吉野川(四国)を指します。
関東という名は、どうも江戸時代からのようです。恐らく江戸防衛のため、八州の幹線道路に関所を設けて、江戸への出入りを監視したようです。この関所数、実に52ヶ所。以後関八州と呼ばれ、関東になったと思われます。関東は、ほぼ正確に坂東と重なります。
その坂東の武者たちは、源平の合戦に九州まで戦いに出かけました。源平の合戦の後、敵味方を問わない戦死者の供養や平和への祈願が盛んに行われ、源頼朝の厚い観音信仰と、多くの武者が西国で見聞した観音霊場巡拝への思いが結びついて、今から八百年ほど前の鎌倉初期に坂東三十三ケ所観音霊場が頼朝の命で開設されました。
この項の末に、リストを付記します。

札所十二番、慈恩寺

↑ 本堂


天長元年(824)に慈覚大師によって開かれた天台宗の古刹です。江戸時代には徳川家康から寺領百石を拝領。鎌倉時代・頼朝からも知行領を拝領していたと思われます。それを裏付けるように、中世における慈恩寺領には、本坊四十二坊・新坊二十四坊の併せて六十六坊もの塔頭が存在しました。*塔頭(たっちゅう)は、本来禅寺で祖師や大寺・名刹の高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って、塔(祖師や高僧の墓塔)の頭(ほとり)、または、その敷地内に建てた小院のことです。どうも学林(仏教学校)とは違うようです。

↑ 境内の百日紅

↑ 掲額

↑ 獏と獅子

↑ 南蛮鉄打灯籠

↑  宝篋印塔 それほど古いとは思えません


今回の訪問は、慈恩寺参詣も目的ですが、塔頭の痕跡も見ておきたい、と思ってのことです。寺の建物と同時に、この地籍名になった慈恩寺や表慈恩寺や裏慈恩寺は知行領であり、この地籍名の所に塔頭が多く存在していたと思われます。それにしても六十六はかなり多い。また戦国時代、地方豪族は荘園や寺社領を押領して勢力を伸ばした例が多いが、岩槻城の城主・太田道灌や太田資正は、押領した側か庇護した側かも興味があります。地籍名が残っていることから、庇護した側であったと想像しますが定かではありません。

↑ 地籍・慈恩寺辺りの風景  ・・この辺りの塔頭は散在していたのかも・・


場所:さいたま市岩槻区慈恩寺139   最寄り駅は"豊春駅(東武野田線)駅から徒歩20分。北岩槻に当たります。・・分かりづらい。


玄奘の十三重霊骨塔 由来

↑ 玄奘塔山門


慈恩寺から離れた1Kmぐらいの所にあります。
境内の十三重霊骨塔には、中国の古典『西遊記』でおなじみの三蔵法師玄奘の遺骨が分骨され、安置されています。境内と書かれているので、ここも慈恩寺の境内なのでしょうか。少し違和感があります。
玄奘三蔵法師といえば、かの「西遊記」の名僧であり、また経典を求めて遠く天竺まで苦難の旅路を続ける法師を助けて、妖怪相手に大活躍する「孫悟空」は有名です。
ところがこの大偉人の霊骨が、慈恩寺に奉納されているのです。


↑ 三蔵法師(玄奘)の 霊骨奉安 の塔

遺骨発見・・昭和17年12月、第二次世界大戦のさなか、南京を占領していた日本軍が、中華門外に駐屯し、稲荷神社建立のため丘を整地していた時に、石棺を発見しました。
石棺には宋の天聖五年(1027)に、三蔵法師の頂骨が、演化大師可政によって長安から南京にもたらされたことが記されていました。日中両国の専門家が調査の結果、玄奘三蔵法師の頂骨であることが確認されました。

中国では偉大な人物や国王の墓に、数々の価値ある副葬品が埋葬のが通例であり、度々盗掘が行われ、墓が荒廃のまま放置されました。そこで、心ある人(特定されている)が盗掘を防ぐための理由で、南京に再埋葬したとのことです。

発見の翌年、頂骨は仏像・銀・錫製の箱等の副葬品と共に南京政府に還付されました。
昭和20年終戦。仏教連合会では、疎開先であった慈恩寺を正式な奉納の地を決することに決めましたが、戦時中に中国政府から贈られた霊骨ではありますが、戦時下の事で、このままで良いのか・・という問題が提起されました。
新中国の蒋介石主席と親交のある水野梅暁師が、主席の意向をお伺いすることになりました。そして昭和21年12月、霊骨奉安3周年記念法要の際、蒋介石主席の意向が伝えられました。・・・・「霊骨は返還に及ばないこと、むしろ日中提携は文化の交流にあり、日本における三蔵法師の遺徳の顕彰は誠によろこばしいことであり、しかも、奉安の地が法師と何等かの因縁の地であるからは、この地を顕彰の場と定めては」との意向が示されて、こうして正式に慈恩寺の地に霊骨塔建設が決定したのであります。

 

札所一覧
第1番:大蔵山:杉本寺:神奈川県鎌倉市二階堂:十一面観世音菩薩
第2番:海雲山:岩殿寺:神奈川県逗子市久木 :十一面観世音菩薩
第3番:祗園山:安養院:神奈川県鎌倉市大町 :千手観世音菩薩
第4番:海光山:長谷寺:神奈川県鎌倉市長谷 :十一面観世音菩薩
第5番:飯泉山:勝福寺:神奈川県小田原市飯泉:十一面観世音菩薩
第6番:飯上山:長谷寺:神奈川県厚木市飯山 :十一面観世音菩薩
第7番:金目山:光明寺:神奈川県平塚市南金目:聖観世音菩薩
第8番:妙法山:星谷寺:神奈川県座間市入谷 :聖観世音菩薩
第14番:瑞応山:弘明寺:神奈川県横浜市南区弘明寺町:十一面観世音菩薩

第9番 :都幾山:慈光寺:埼玉県比企郡都幾川村西平:十一面千手千眼観世音菩薩
第10番:巌殿山:正法寺:埼玉県東松山市岩殿   :千手観世音菩薩
第11番:岩殿山:安楽寺:埼玉県比企郡吉見町御所 :聖観世音菩薩
第12番:華林山:慈恩寺:埼玉県岩槻市慈恩寺   :千手観世音菩薩

第13番:金龍山:浅草寺:東京都台東区浅草    :聖観世音菩薩

第15番:白岩山:長谷寺:群馬県群馬郡榛名町白岩  :十一面観世音菩薩
第16番:五徳山:水澤寺:群馬県北群馬郡伊香保町水沢:千手観世音菩薩

第17番:出流山:満願寺:栃木県栃木市出流町    :千手観世音菩薩
第18番:日光山:中禅寺:栃木県日光市中禅寺歌ケ浜 :千手観世音菩薩
第19番:天開山:大谷寺:栃木県宇都宮市大谷町   :千手観世音菩薩
第20番:獨鈷山:西明寺:栃木県芳賀郡益子町大字益子:十一面観世音菩薩

第21番:八溝山:日輪寺:茨城県久慈郡大子町上野宮真名板倉:十一面観世音菩薩
第22番:妙福山:佐竹寺:茨城県常陸太田市天神林町 :十一面観世音菩薩
第23番:佐白山:観世音寺:茨城県笠間市笠間    :千手観世音菩薩
第24番:雨引山:楽法寺:茨城県真壁郡大和村本木  :延命観世音菩薩
第25番:筑波山:知足院中禅寺大御堂:茨城県つくば市筑波:千手観世音菩薩
第26番:南明山:清滝寺:茨城県新治郡新治村小野  :聖観世音菩薩

第27番:飯沼山:圓福寺:千葉県銚子市馬場町    :十一面観世音菩薩
第27番奥の院:補陀洛山:満願寺:千葉県銚子市天王台:十一面観世音菩薩
第28番:滑河山:龍正院:千葉県香取郡下総町滑川  :十一面観世音菩薩
第29番:海上山:千葉寺:千葉県千葉市中央区千葉寺町:十一面観世音菩薩
第30番:平野山:高蔵寺:千葉県木更津市矢那    :聖観世音菩薩
第31番:大悲山:笠森寺:千葉県長生郡長南町笠森  :十一面観世音菩薩
第32番:音羽山:清水寺:千葉県夷隅郡岬町鴨根   :千手観世音菩薩
第33番:補陀洛山:那古寺:千葉県館山市那古    :千手観世音菩薩

所在別 :神奈川県 9
     埼玉県  4
     東京都  1
     群馬県  2
     栃木県  4
     茨城県  6
     千葉県  7+1=8   合計33+1

本尊   十一面観世音菩薩     15
     十一面千手千眼観世音菩薩  1
     千手観世音菩薩         11
     聖観世音菩薩           6
     延命観世音菩薩          1   合計34


関八州 安房、上野、下野、相模、武蔵、上総、下総、常陸 =8

関東 一都六県 東京 神奈川 埼玉 千葉 群馬 栃木 茨城 =7

*数が合わないのは、武蔵は埼玉県と東京都と川崎・横浜辺りまで、千葉県は安房、上総、下総に分離していた所為です。