「県政オンブズマン静岡(静岡県庁の光と闇)~よりよき未来のために~」管理人のブログ

注)teacupブログから移転の2022年5月以前の投稿には、文字コードの違いから多くの文字化けがあります。

個人の限界に対する国の在り方

2009-08-01 23:38:00 | 日記
ニュースの中で某党の党首が自殺対策を政策の柱にといいながら、原因を調査する、さらにいくらかの精神科医がどうこうとか具体策例に言及するのを見た。
着眼点は悪くはないが、捕らえ方は部分的でしかなく現実感がない。

政治家は好んで国民生活という言葉を用い、その安心であるとか再建というが、現実にはそのような抽象的な言葉で包括されるべき国民生活など存在しない。
現実の生活は各人固有のものであって、平均など意味はない。人間は商品とは違う。
国(政府)が固有の価値を持つ個人を守るため、自由競争に介入すべき最小の範囲はどこまでなのか。
加えて、社会全体のパイを増やす施策として何から順番に優先度を位置づけるか。
それにはどの程度の予算が必要で負担をどのように配分するのか。
こういった基本的な考え方のフレームなしに、あれもこれものメニューを並べられても国民は混乱するだけで希望にはつながらないと思う。
エイジワースボックスやバーゲニングャWションなどという概念を持ち出すまでもなく、非正規労働者や介護離職に見るように、今のこの国においては自由競争に任せておいてはいけない領域が現に存在し、しかも増大している。今後さらに新たな政策貧困の副作用としてこのような領域の問題が出てくるだろう。それらを包括してどうするのかという考え方のフレームがなければ、今後ももぐらたたき施策が続くだけでしかない。不安は形を変えて存続するだけではないのか。

私の仕事は対人業務がほとんどだ。
その中の一業務にあっては400人近い人と継続的にお付き合いしていくような業務である。
相手から見れば担当は私一人なので知っていると気軽に話しかけてくれるのだが、こちらは顔を覚えてはいても名前が思い出せないという、大変申し訳ない状況にあるのだが、それでも、中には医療上の相談をこえて様々な相談をしてくれる人もいる。
ちょうど一月前、年一回の手続きに応答がないので調べたらいく人かの方が亡くなられていたのだが、その中にが自ら凄惨な形で死を選んでいた人のことを知った。
もちろん顔を覚えている。カウンター越しで短い時間であったが相談というか悩みを聞いた。
それは具体的にはいえないが私にはどうすることもできないことで、行政とはいっても一職員では一人の人間さえ救えないのが現実だ。
しかも、悩みは一人ひとり違う。施策とのかかわりでいえば縦割り行政をまたぐ複合的な問題が多い。たとえ一地方行政であっても解決は難しい。苛立ちは大きくなるばかりだ。

国によって社会保障の仕組みは違っても最低限なすべき事は同じではないのか。
個人の力ではどうしようもない領域で、かつこれを放置することが社会正義に反する領域。もちろん価値観による差はあるだろうが共通の同意が得られる水準は必ずある。
新しい国を造るつもりになって、その原点から出発して国のあり方を構築できないのだろうか。
そういう政権こそが、今求められているのではないのだろうか。