「県政オンブズマン静岡(静岡県庁の光と闇)~よりよき未来のために~」管理人のブログ

注)teacupブログから移転の2022年5月以前の投稿には、文字コードの違いから多くの文字化けがあります。

静岡県庁に関する書籍のご紹介

2022-09-18 09:19:09 | 書評
書籍紹介
「知事失格 リニアを遅らせた川勝平太「命の水」の嘘」という本が発刊されています。
著者は、現役ではとても書けなかったでしょうが、元静岡新聞記者だけあって県庁体質をよく分かって書いています。
特に3章の「県庁ぐるみの著作権法違反事件」は中枢部に近い職員ほど県民のためでなく保身のために人生を捧げている哀れな姿勢がよく描かれています。
6章の「確執の根源 静岡空港新駅」はもう少し踏み込んだところが欲しいところですが、よく書かれています。
リニアへの賛否に関わらず有益な知見が得られる書ですのでここでご紹介しました。
www.amazon.co.jp/gp/product/B0B8T34L1K/ref=ppx_yo_dt_b_d_asin_title_o00?ie=UTF8&psc=1

来年度は私も自由な身となりますのでこれまでの活動を総括した著作を行うつもりです。
静岡県庁だけでなく政治や行政の在り方に興味ある方は、その際はご一読いただけたらと思います。

難波喬司著「「新たな価値の創造・共創」の時代の実務家公務員の技術力」に観る闇

2018-12-31 01:00:00 | 書評

この本はタイトルに見る技術力をノウハウと見立て期待すると期待外れに終わる。
むしろ、永続的な開発志向を鼓舞し続けるための69項目の精神論(意識、考え方、心鰍ッの類)の書と見るべきであろう。
もちろんノウハウ的なものがないわけではないが、ホウレンソウの奨励やPDCAサイクルなどビジネス書の受け売りばかりで新鮮味はなく、底も浅い。
また、他の書籍からの引用や格言の多用、とりわけ川勝平太が好む五箇条の御誓文の重要性を説くなど総花的なつまみ食いに終始し、この本だけから彼の内なる本質(真に欲しているもの、社会と個人の関係についての洞察など)に迫ることは無理である。
つまり、彼が思うところの良い社会をどのようにして達成していくかというノウハウも一貫性のない陳列に終始している上に、肝心のより良い社会を彼がどのように定義しているのか(考えているのか)は全く見えてこないのである。ただし一方で彼の権力思考的な面はよく見て取れるのは興味深い。
とはいえ、その清濁併せ呑む芯のなさと博学故に、彼がどのような価値観の主人の下でも優秀な役人であること、おそらく川勝平太によく仕えるように、時代が時代ならナチスドイツにおいても有能な官吏として迎えられたであろうことは容易に想像できるのである。

以下に具体的にそう考える理由を示そう。

1 新たな価値の創造・共創の闇
この書の冒頭でいきなり出てくるのが「これからは「新たな価値の創造・共創」の時代です。」という文言だ。その根拠としている彼の認識は、「新たな価値の創造」の必要性については、どこにでもある地域ではダメだ、大きな変化が必要だということであり、「共創」については行政機関だけでは力不足(実現困難)ということであるが、特に前者については、前提となる価値観の説明がなく論理的に飛躍しすぎている感はぬぐえない。

(1)「新たな価値の創造」
彼は「新たな価値」については、「新しい暮らし方・文化、新しい制度や仕組み、新技術など」と定義し、これを行政が率先して提起していくべきとしている。
また、実務家公務員の役割としてこの新たな価値の創造が重要な役割だとしている。
しかし、行政が単なる問題提起にとどまらずそこまでも役割とすると、一度決めたら止まることを知らない行政の現実から見て、地域住民にとっては親切というよりむしろ余計なお節介というべきであろう。
「Do not do unto others as you would that they should do unto you. Their tastes may not be the same. [George Bernard Shaw]《自分のして欲しいように人にしてはいけない。人の好みは同じでないから》バーナード・ショー」
そこに住む人が常に新しい暮らし方を求めているとは限らないし、ましてや求めるその新しい暮らしなどというものが皆一様でないことは明らかなのだから。

もちろん、商品やサービスの陳腐化による競争力の低下を恐れる必要性のある民間事業ならリスクを取っても常に新しい価値(商品や技術)の創造を求め続けることは理解できる。
しかし、住民を巻き込む行政においては、その考え方は危険で取り返しのつかない事態を生みかねない。まして、主役である住民に対して代役たる行政が「新たな価値」による変化を迫るというのは本末転唐ナある。
行政施策は博打ではない。新たな価値の創造と称しての吉と出るか凶と出るかはわからない変化の企図に躍起になるべきではない。地域社会は、新たな価値などではなく、古かろうが新しかろうが真に良いと思うものを、まさにそこに住む人々が主体となって、取捨選択し生活していくべき場所である。行政は、あくまで現にそこに在る生活者のための脇役であるべきだ。今以上に住民を受け身の存在に助長してはならない。

(2)「共創」
「共創」について彼は、「地域ぐるみ、社会総がかりで臨み取り組んでいく」ことだとしている。
つまり、新しい価値を共に創るというのは「(所与の)新しい価値」を共に実現させていくということであって、他と読み合わせれば彼の頭の中では、地域住民は価値をデザインする頭脳部隊ではなくあくまで行政の実行部隊(手足)としての位置付けでしかないように思える。

というのも、彼の思考の根本において、地域社会においても全体最適の適用を求めているからである。
全体最適はその全体という域内の経済的観点から見るならば実際正しい考え方である。
それは、その域内の限られた社会資源を効果的に配分し、また、その域内の構成単位ごとの機能の専門化を通じて効率化を図ることが可能となり、結果、全体と呼ぶところが目的とするところに叶うからである。
しかし、それは特定の目的を持った集団(域内)のためにその構成員や構成部署が集められたような場合(ex.会社、役所、宗教団体)には妥当するが、個々の目的を持った構成員や構成集団がその個々の自由を最大限維持しつつ生活上の必要から組織される集団(ex.地域社会)においては妥当性を欠くものである(もちろん、目的が全ての構成員に共通している事項に限っては別である)。
なんとなれば、地域社会のために個々の住民が存在するのではなく、個々の住民のために地域社会が存在するからであり、かつ、個々の住民は必ずしも単一の経済的価値観優先のような価値感を皆で共有しているわけではないからである。

ここで一つ彼の目指す全体最適の例を見てみよう。
彼は、バラバラな開発でなく住んでよし訪れてよし働いてよしの全体最適地域経営のため「清水みなとまちづくり公民連携協議会」において地域の具体的なグランドデザインを描いていて、今後その描いたデザインの実現に主体的に取り組んでいくことを例としてあげている。
しかし、このデザインを描く主体は県と市と地元企業6社のみで構成された協議会であり、この地域に住む肝心の住民は主体的取組者ではなく、従たる取組者、すなわち実現のための手足でしかない。
もちろんこの取組が大成功でそこに暮らす住民すべてに恩恵があるのであればいいが、行政の取組の多くの場合は失敗のツケだけが住民に背負わされるのが常で、しかも主体的に取り組んだ者たちは誰もそのリスクの責任を負わない。

また、三保、折戸など5地域について、各地域それぞれの未来の最適(これを部分最適としている)を考えるのではなく、それら地域をまとめた地域全体の最適を考えるべきとしているが、この発想こそ全体主義的考え方である。
地域社会はその大きさに関係なくそこに生活する個々の住民が主体であって、切ったり貼ったりして弄ぶような行政のおもちゃではない。
個々の地域をより大きな全体から規定するのは、敷いては国家のような大きな全体の調和のために個人を規定し直すようなもので、今日の自由主義的民主主義国家にあっては、危険な思考である。
地域住民の中のコアメンバーによる取組や考えに共感が広がり、そこから共創が生まれるのというのが本来の共創のあり方であり、全体を包括する必然性は全くない。そもそも、全体最適の考え方には一部の犠牲をやむを得ないとする負の側面があり、権力を抑制的に用いるべき行政においては、例外的に用いられるべき考え方なのである。

2 言行不一致の実態
この本に書かれていることは、どこかで見聞きしたような教科書的なものがほとんどでリアリティーに欠けるところがあるが、それはあくまで外向きの建前と割り切っているからだと思われる。
現実には、書かれていることと現実又は彼が実際にやっていることには二枚舌ともいうべき相当の乖離がみられるのである。
その顕著な例が観られるのが沼津駅付近鉄道高架事業における記述からである。

(1) 沼津駅付近鉄道高架事業の費用対効果
彼がこの沼津駅付近鉄道高架事業に積極的であることはこの本から明白であるが、とりわけ費用対効果を問題視する考え方に対する記述の多さは特筆に値する。
信用力をまず高めるというお決まりの手順で冒頭、「筆者は、費用対効果分析については、現場適用のプロ、すなわち単に理論い詳しいだけでなく、その弱点や限界を理解し、現場に適用できるプロと自負している。」と自身を持ち上げている。
一方、費用対効果分析の比較的大きな不確実性が「将来需要の予測」であると述べているのはそのとおりであろう。
しかしその上で、沼津駅付近鉄道高架化事業にあっては、「経済成長率などについて、将来最もありそうな値を用いて交通量を推定し、不確実部分を感度分析によって幅をもたせた費用対効果の算定をしている(1.33~1.66)のでこの事業の費用対効果を1.5としたのは「概ねこの程度と推定できる」という精度であるとし、その事業効果を高評価しているのはいかがなものだろう。
さらに、費用対効果分析だけでは説得力を欠くと思ってか、費用対効果分析では金銭換算していない駅の南北の一体効果のようなものもあるなどとし、費用対効果分析の使い方として「数量計算で求めた便益以外にも多くの便益が存在することを認識する」べきと説いている。
さすが、イケイケどんどんの国交省役人らしい思考の偏り方というべきか、コストやリスクの意識がごっそり欠落しているのである。

しかしだ。多くの県民は知っている静岡空港で明らかになったいくつもの現実がある。それを彼は知らないか、意図的に無視しているようだ。
まずは、役人は事業の推進を命じられれば、そのための将来需要の予測を作るべく忖度(バイアス)が働き、そこに雇われた専門家にあってもまた同様であるという事実がある。
滑走路長を2,500mで整備する条件である需要50万路線をでっち上げるため札幌線の需要予測を50万人としたが現実は12万人。その他の路線もことごとく需要予測を下回り(予測精度はわずか33%)、感度分析の幅など全く役に立たない費用が効果を下回る境である初年度年間需要86万人をも超えられなかった事実を彼はどう説明するのか。
実際その需要予測を評価した専門家でさえ事後「需要予測は、本来ならこれくらい飛んでもいいだろうというャeンシャル(潜在能力)を出しているにすぎない。」との言い訳をせざるを得ない状況に陥ったというのに(https://navy.ap.teacup.com/hikaritoyami/604.html)。

また、彼は計算されていない効果云々というが、逆の計算外の負担だってあるということも考えなければ片手落ちだ。
実際静岡空港においては需要の伸びない現実を糊塗するための補助金という形の税金投入がいまだに続いている。
いくら需要喚起といっても浜松から空港までの空港利用者のタクシー代16,280円のうち14,780円も税金で負担軽減(https://8160.teacup.com/hikari21c/bbs/t6/50)というのはどんな御託を並べようと何をか言わんやである。
どんな事業にもリスクがあると知ってこそ真の費用対効果分析のプロというものだ。
実際、彼の行政経験からしてそれらの負を知らないはずがない。
この書では意図的に負の情報は隠蔽しているのだろう。
彼は自身で(行政)現場適用のプロと言うだけあって、初めに結論ありきという行政の立場にあっては決して住民にマイナス面は見せるべきでないことを知っており、その意味では世間一般には詭弁的適用のプロ、詭弁のプロというべきだ。

(2) 二項対立に持ち込む詭弁
彼は沼津駅付近鉄道高架化事業について、賛成派を「攻め」とし、反対派を「守り」だとして、「投資姿勢として「攻め」がよいと思うか、「守り」がよいと思うか」という形で問いかけ持論を展開している。
すでにこの問い方自体が詭弁であることは、彼の持論の最後で(賛成・反対の違いは)「本質的には積極投資か、消極投資かという価値観、価値評価の違いである。」と述べた上で、「議論しても、両者が折り合うことはまずない。」と突き放していることから見て取れる。
「積極投資として」という前置き付きでの質問は明らかに「攻め」に結びつく誘導質問の典型であり、もう議論は無駄で収用してもしかたないという姿勢への誘導の意図がはっきり見て取れるのである。
もし、問いかけの形を「税金の使い方として「攻め」がよいと思うか、「守り」がよいと思うか」という形に変えたなら、答えが二項対立で済むようなものでないことははっきりするだろう。
二項対立図式は詭弁にはよく用いられるが、彼はかなり使い慣れているようだ。
そもそも、反対の理由の本質が消極投資の価値観だというレッテル貼りが、彼が人を説得ゲームの対象として見ているだけであって、反対している人一人一人の本当の思いに全く向き合っていないことの証である。

(3) うそ(嘘)
彼はこの本の中で、「朝令暮改も、KKOの変更はだめだが、(状況の変化を踏まえて)なぜかえるべきかを示した上での変更は大事な決断力・判断力である。ただし、戦術を変える際にも、社会的「正しさ」は決して忘れてはいけない「うそ」「隠す」ことは「正しさ」がない典型である。」と垂れている。
その同じ人物が知事と謀議した際の記録が次のようなものである。
芯のない頭の良い人間である彼の中にあっては、自身の良心に対する言い訳が常に用意されてバランスが取れているのであろうが、側から見れば言行不一致も甚だしい。

<川勝知事と難波副知事の謀議抜粋ーhttps://8160.teacup.com/hikari21c/bbs/t1/112から

難波副知事:そのためには、公式には言わないが、JRには知事がやります(移転先の貨物駅は作る)という宣言をしないとJRとの協議がスタートできない。だから、本当は要らないはずだが、JRには表向きは移転先の貨物駅は作ると言っておきたい

知   事:その前に地権者が土地を売ってくれなければ。

難波副知事:しかし、移転先の貨物駅を作ると言えば地権者は売ってくれない。そうなると収用しかなくなる。収用すると収用でまた時間がかかる。あの話の様子では地権者や反対者側との交渉はなかなか進展しないと思われるので、JRとの交渉を軸に進めて打開策を模索していくしかない。その間、地権者側には、(二枚舌ではあるが)これまでどおり「貨物駅は作らない」と言っておく。そうすれば、地権者でない反対派の人々(殿岡市議や松下宗柏氏等)は文句のいいようがなくなる。

3 アウトプットとアウトカム
彼は「目的と手段を混同していることに気付いていますか?」という表題部でアウトプットとアウトカムについても書いているが国交省内の事業ベースでの理解にとどまっており行政一般論としては理解が浅い。
彼はその当時いなかったから知らないのも無理はないが、静岡県においては石川嘉延知事の時代に戦略的行政・行政評価論を導入した際、散々この考え方を職員に意識させていた。(現在は見る影もなくなってしまったが)
供給側ニーズよりも顧客側ニーズに応えるべきで、誰の何のために事業を行うかを意識し、その成果とはその目標に対応したものでなければならないということがアウトカムの本質である。
(参考;当時私がこの取り組みについて批評したのが「石川県政の功罪(第一部)http://hp1.cyberstation.ne.jp/shizuoka/kensei1.html」の2「行政改革」と「石川県政の功罪(第五部) http://hp1.cyberstation.ne.jp/shizuoka/kensei5.html」の6「NPM」ここには彼が表題にしているのと同じ「手段と目的を取り違えないことが大事」などの指摘が既出している事実がある。)
一例として、彼がこの本の中で紹介しているご自慢の取組の具体例に「静岡どぼくらぶ」というものがある。
「静岡県の建設産業就労者の46.5%は50歳以上であるのに対し、30歳未満の若年就労者は9.8%と、将来を支える担い手不足が喫緊の課題となっている。」として取り組んでいる広報事業であるが、実績として取り組んだ内容を羅列するのはいいが、その評価が一部の県民の好感想やコンクール入賞などとなっており、肝心の実際に若年就労者がどう改善されたかには全く関心がないようである。常にアウトカムは意識されるべきであり、実に残念というより、悲しい現実である。
最近は庁内放送にまで話題になればいいとか注目されればいいとかいうような幼稚な取り組みが増えてきているが、基本がおろそかにされ奇に走る様は、はっきり言って行政資源の無駄以上の能力低下を招いている。かつてはプロ集団だった県庁が今や素人同然まるで小学校のようになってきている。日本の大企業に見られる劣化という問題同様の深刻さが、おそらく彼には全く理解できていないか、関心がないのであろう。

4 後記
細かいところまで言えばまだまだ批評すべきところは残っているが、そこにはあまり意味がないのでここまでとするが、最後に、彼の「「新たな価値の創造・共創」の時代の実務家公務員の技術力」を読んだ人にもう一点注意すべきヒントを提供する。
彼が、職員の意欲を高めるためとして成功体験を評価しているところだ。
褒めて伸ばす原理と同じだが、どんな薬にも副作用は必ずある。失敗から学ぶのは当たり前であるが、成功体験にこそ本来は真に反省するべき価値があるということを忘れてはならない。手強い敵に当たれば、その成功体験に罠を仕鰍ッられることもあるのだから。
この本に書かれていることはあくまで初歩的で表面的なもの、すなわち、建前であることを踏まえて読むと良いだろう。