「県政オンブズマン静岡(静岡県庁の光と闇)~よりよき未来のために~」管理人のブログ

注)teacupブログから移転の2022年5月以前の投稿には、文字コードの違いから多くの文字化けがあります。

県職員組合(労働組合)の闇<兵庫県知事パワハラ告発事件>

2024-07-11 11:44:24 | 雑感
兵庫県の元西播磨県民局長が、斎藤知事にパワハラの疑いがあるなどとする文書を作成して報道機関などに送り、その後県の内部調査で「文書の核心的な部分が事実ではない」などとされ停職3か月の懲戒処分を受け、県議会が再調査を求め百条委員会設置が決まった事件。
その後、渦中の局長が自殺したと報じられ、ついに昨日、兵庫県の斎藤知事が県職員の労働組合から事実上の辞職を求められたという。
一連の事実関係は今後ある程度は明らかになるのであろうが、注目すべき「がん」はこの職員組合だ。
本来、県職員の労働組合が職員のためにある組織であるならば、局長が内部告発をする前に積極的に動くべきであっただろう。それこそが存在意義のはずだ。
世間の注目が集まった時点でこうした動きをやっと取るというのは偽善、偽物である。
だからこそ、局長は職員(労働者)のために存在していない労働組合を差し置いて、パワハラという職員を苦しめる不正事実を報道機関等の外部に告発するに至ったのであろう。

実は、これは兵庫県にとどまらない現実。
私も内容は異なるが県職員時代(1999年)に「静岡県庁の光と闇」というサイトを設置して内部告発をしてきたから分かる。(http://www.omb-shizu.sakura.ne.jp/profile1.html)当局はもちろん組合も当てにできない個人の集まりの中にあっては、集団ではなく戦える価値観など条件が揃った個人が覚悟を持って戦うべきとの考えだ。

静岡県においても職員組合はいわゆる当局に飼い慣らされている。事実、静岡県においてもこれまでにプール金など幾多の不正がマスコミで報じられてきたが、一度として一番情報を得やすい職員組合から告発された事案はない。
私も実際ある県幹部からは組合幹部に一定のポストを与えていれば奴らはおとなしいと聞いていたので途中で組合からは脱退し自身のことは自身で守ることとし無事定年を迎えた。

リスクをとって組合構成員のために活動する組合幹部という姿はもはや過去の遺物、組合貴族と揶揄される世間像こそ真実に近いということはしっかり認識しておくべきだろう。

県職員、公務員組織は、これはその中にい他ことがなければわからないかもしれないが、村意識・仲間意識が非常に強い。この仲間に県民はもちろん知事も含まれない。だから県民だけでなく知事にも情報をコントロール(隠蔽)する。
兵庫県の元西播磨県民局長は県幹部でありいわゆる当局側である。
仲間である職員からの人望があったとのことで、外部への告発に至ったのは職員の叫びにいたたまれなかったからであろう。
惜しむらくは、定年間近なのに在職中告発とか、勤務時間中に告発作業であるとか、脇が甘く相手に付け入る隙を与えてしまったこと、そして何よりも、巻き込むことになった他の職員を事実上の人質に取られたこと。
現実を直視すれば、今のこの国で内部告発(戦い)を正義感だけですべきではない。
存在意義と向かい合って許容できないときにおいて、あくまで自己責任の範囲で完結できるような形で覚悟を持って行って欲しいと思います。

伊豆新聞、静岡新聞に見るジャーナリズムの劣化

2024-03-15 08:20:35 | 雑感

今朝の伊豆新聞と静岡新聞で地元の出来事が報道されていた。

県や下田市が災害時に山間地への道路が遮断された状況を想定してドローンによる物資輸送の飛行試験を行なったというもので、箕作から須原の入谷地区に医薬品箱と衛星携帯電話を積んで運んだというものだ。

しかしこのような薄っぺらな事実と関係者の差し障りのないコメントを掲載するだけに終わっていて何も問う事なく何も論証していない。

なぜ天気もよく風邪の影響もない日を選ンダのか、なぜ山越えをしなくても良い同じ稲梓地区内の箕作と須原間で飛ばしたのか。これで単なる操縦訓練ではないのか。

衛星携帯のある市役所と孤立予想の須原間で飛ばせなかったのは山間地を超えられないからだとしたら今後どう対応していくのか。ドローン中継局を整備するのか。停電時のその電源供給はどうするのか。

今回道路が塞がった想定場所はどこか。箕作よりもその塞がった道の手前で、より電波の通りやすい発地場所の選別をなぜ検討訓練しないのか。

何も問われず考察もない。

地方紙だからと単なる行政情報の垂れ流しをジャーナリズムと思っているとは呆れるばかりだ。

 


新型コロナ急増下でのオリンピック開催がもたらした同調圧力の喪失

2021-08-25 21:18:00 | 雑感
新型コロナウイルスの感染者が7月25日以降右肩上がりに増加し、ついに連日600人を超えるに至った静岡県。
7月23日から開催されたオリンピックでは東京を始めほとんどの開催地で無観客とする中、静岡県知事は7月28日(前週から2倍以上に激増した日)、オリンピック開催地の県東部伊豆地方での感染増加を受け、当該地方住民に生活に必要な外出以外は控えるよう呼びかける一方でオリンピックの観客(ボランティア・バイト含めて)については受入継続を明言した。
過去最多を更新する168人の感染者を出した7月31日においても、県は「食料品の買い物や仕事、医療機関の受診など生活維持・生命維持に必要な場合以外は一歩たりとも外出しないようお願いしたい」と呼びかける一方で、オリンピックの有観客は続けるなど県民の不信を募らせた。
知事自身も何度も視察と称し会場に足を運ぶなど県民の外出自粛と自身の視察外出は別格であることを印象付ける一方で、感染拡大が続く新型コロナ対策の具体策は何ら示すことなく時間ばかりが経過していった。
 実際この間、感染者激増に備えた体制整備が行われた形跡は全くなく、8月24日、病床逼迫が目前に迫るに至ってようやく酸素投与などの体制整備をすると言い始めた。
 一部世論の中には感染者の増加とオリンピックは無関係という意見もあるが、それは大きな間違いである。
 確かにオリンピック関係者のクラスターといった直接の影響はないが、間接的というか包括的というか、言い方はともかく大きな影響があったのである。
 もちろんそれは有観客を実行した静岡県だけのことではない。
 そもそも、何がこれ(オリンピック前)まで国民の自粛を支えてきたのかといえば、みんなで一緒に耐えましょうという同調圧力(空気)、いわば無言の圧力があったからだ。
 一般にいわれる自粛疲れというのは後付けの言い訳に過ぎない。
 いやおうもなく国も国民も同じ方向を向かされていたからこそ、国民皆マスクのような世界的にも注目される統制色がみられ、結果、感染が抑えられてきたのである。
 しかるに、いまやその面影はない。
 そもそも、何が特別か、例外かはみんながそう認めた状況下にあって原則に影響を及ぼさずにすむものである。
 しかるにオリパラにみられた特別・例外は多くの国民にとって納得のいくものではなかった。
 まさにこれは割れ窓理論の割れ窓に相当する。
 象徴的なのは、五輪担当大臣による「不要不急であるかどうかは、しっかりご本人が判断すべきもの」なる迷言であり、これでは他人の判断には誰も口を挟むべきでないというに等しく、この(自粛関連)テーマに対する国民としての集団凝集性は容易に崩壊する。
 川勝知事もまた会見で県民への外出自粛(セルフロックダウン)への呼びかけと有観客との整合性を問われ、「意見矛盾するようにですね取られがちですけれども」と前置きしつつ、「ここ(会場内)に入る時の感染対策は徹底している」から大丈夫、心配ないとし、一方で「(県民に)セルフロックダウンと言っておりますけれども、実際は買い物に行かなくちゃいけないし、病院に・・・・」と外出が必要な場合も当然あるとして、不要不急か安全かなども「(県民に)個別具体的に考えていただく」ので(県の個別具体的判断とも)矛盾していないという論理を展開したのである。
 実際、国民や県民の中で一部とはいえ、それが良いならこれも良いだろう(例えば、オリンピック観戦に静岡に来るのは良くて観光に来るのはだめということはないだろう。同じように感染対策してきているのだから)という自己判断が優越し、抑圧されていた「個」が主役となっていった。
 ここに至ればもはや集団を構成する一員としての理性的判断により、少なくはない個人の欲動優位の人々を押さ込むことなど誰にもできやしないのである。公共的な説得力を喪失したのである。
 ただし、このような状況下においても正しい情報(危機の現状と個々人に必要な予防策)が繰り返し伝えられていたなら多少は自己防衛の本能から純粋に個の判断として行動抑制が働いたのかもしれないのであるが、残念なことに、オリンピック開催中のマスメディアは新型コロナの危機と対策について全くと言ってよいほど伝えることを怠った。
 実際にオリンピック期間中、テレビニュースのトップは連日オリンピックの話題で、興味のない国民はニュースから遠ざかるのは必然であり、一方、お祭り気分で伝えられるオリンピックのニュースに魅せられた国民にはコロナの危機感は認知的不協和を生む対象であり全く危機感が伝わることがない。
 結果、感染への恐浮ヘ生まれず今日の感染爆発である。
 政治において、特に任意の協力を必要とする施策においては、人心の在るところを正確に予測し図ることが要諦である。
 いまや政治が成立していない。政治家が不在である。本当の危機は新型コロナではなく実はそこにあるのである。

2018年を迎えて

2018-01-03 21:04:00 | 雑感
平成の世もあと1年余を残すばかりとなった2018年を迎えました。
この平成の世を後世の人はどのように評価することとなるのでしょうか。
世界規模で見ればナショナリズム再興とテロ興盛の時代、国内的には官僚政治の専横による国民抑圧の始まった時代というところでしょうか。
昨年起きた森友・加計の事件はまさに官僚の今ある姿を如実に映し出すものでした。
政権にとって(それは同時に官僚自身にとって)不都合な文書は規則違反を承知で存在しないものとし、単なるミスで済まそうとする官僚強弁に、不都合な人物には圧力をかけて言論を封じようとする手法と、それらを評価する政権。
これこそ国民の意思を離れた過度の自負心と無答責を特徴とする官僚政治の始まりであり、後藤新平が評した官吏的奴隷主義(官吏の受領した命令が、正義公道に背反した場合ですら、唯々諾々として盲従する主義)が蔓延した姿です。
具体的には、内部告発を行おうとした文科省の事務次官の言論封殺のためのスキャンダルリークなどはまさに恐喝であって国民に対して恐浮ウえ覚えさせる演出です。
さらに、本来ならば責任を取ってしかるるべき理財局長をこともあろうか国民からの国税徴収を扱うトップに就任させるなど、これら開き直りともとれる政治姿勢は権力中枢の腐敗のみならず、国民の信用喪失を、引いては国家の弱体を招く所業というべきでしょう。

官僚政治の弊害を喝破した後藤新平は次のように指摘しています。
「冷淡に、形式的に、そして盲目的に国家と称する機関に付着して、車輪のごとく無意識に回転するものは、今日の時勢によく適応して、時とともに昇進するのである。この車輪の本質は、無性無神の一物体に過ぎず、多々の報酬も一層の尊敬も結局のところ人間の価値と交わらぬ」
「政府の内命は、往々にして官吏の良心と衝突し、しばしばその堕落を誘起する」
「官吏が自己は完全な権利を有し、第一に社会に仕え、第二に国家(思うに国家は社会のために存在するものであって、社会は国家のために存在するものではない)に仕える公民であるという、自覚を有するようになったとき、彼らは初めて国家の恩恵を、十分人民に知らせることができよう。」(後藤新平「官僚政治」より)

基本に立ち返って考えましょう。
私たち一人一人は決して国家のために存在するのではありません。これは人と人の共同体すべてについて言えることです。
私たち一人一人が自己のことのみに執着し社会について考えることや行動することを諦め、沈黙したならば、この状況はますます悪化し社会は再び闇に包まれます。沈黙からより良き未来は決して訪れません。
こういう時代だからこそ、私たち一人一人が正義(善き人々が安全と安心を共有できる社会の実現)について考え行動する時なのです。

明日から全国大会

2016-09-23 20:10:00 | 雑感
ここでは、ご無沙汰です。
今、明日からの全国市民オンブズマン全国大会のため高松入りし、地酒と天ぷらを楽しんでます。
昨夜夜行寝台列車で出発し、高松入りしました。
今日は天気が悪かったので山は諦め金毘羅さん参りなど観光してきました。
明日からの大会の報告はここで行いたいとおもいます。
おそらく話題の中心は富山県などで注目の政務活動費になるかと思いますが、それも含め報告します。