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私的プロレススーパースター列伝.1 ザ・グレート・カブキ

2023年12月25日 | プロレス
この時期は毎年、背油ぎっとりラーメンとかハイカロリーめしなど、クリスマスとは無縁の話題を綴っている拙ブログ。
今年は、私が大好きだったプロレスラーについて語る、新企画【私的プロレススーパースター列伝】を突如開始。
記念すべき(?)第1弾は、“東洋の神秘”の異名を持つ、ザ・グレート・カブキ

※1993年文藝春秋発行、門馬忠雄著・「プロレス血風録」より

普段は「カブキさん」と呼んでいるが、本稿では失礼を承知で、レスラーは敬称を省略させていただく。 ※リングネームは当時のもの

その前に、私のプロレスファン歴を簡単に説明。
TV中継を毎週欠かさず視聴するようになり、専門誌を買い始めたりと、
本格的にプロレスファンとしてデビューしたのが、1987(昭和62)年の12月。
その頃、日本の男子レスラーの団体は、全日本プロレスと新日本プロレスのみで、私は全日派だった。
ちょうど、87年12月以降の新日が、たけしプロレス軍団や海賊男など、クソつまらない時期だったのも理由である(苦笑)。
振り返ってみると、もっともプロレスに夢中だった時期は、88年から90年夏くらいまでなのだが、
私にとっては、この頃の全日本プロレスこそ、史上最高のプロレス団体である。

上記の期間、全日の話題の中心となっていたのが、天龍源一郎。
妥協のないファイトスタイルに、マスコミからの注目が集まり始めると、ファンの評価も高まっていき、
私が愛読していた「週刊ゴング」の読者人気投票では、87年の日本人1位は天龍だった。
東京生まれのくせにアンチ巨人で、人気者を嫌うへそ曲がりの私は、自然とアンチ天龍になっていたのだが、
いかんせん、ファンやマスコミの支持を得た天龍の勢いは凄まじく、シングルもタッグも連戦連勝。
天龍及び天龍同盟にやられっぱなしの全日本正規軍で、私が頼りにしていたのが、ジャンボ鶴田と今回の主役カブキである。

88年3月、チャンピオン・カーニバル日本武道館大会にて、待望のプロレス初観戦を果たした私は、下記のパンフレットを購入。     


ご覧のとおり、強豪たちの写真に混ざり、カブキの勇姿も下段中央に掲載されている。
ファンなったばかりの私は知らなかったが、カブキの格は、全日では上の方だった様子。
今思うと、マッチメークに不満が残る、この武道館大会についても、いつかブログで語りたい。

ここで、88年の天龍率いる天龍同盟と、対戦相手の主力メンバーを、だいたいの格付け順に記載。
○天龍同盟 天龍、阿修羅・原、サムソン冬木、川田利明
○全日本正規軍 鶴田、谷津嘉章、輪島大士、カブキ、石川敬士、ビッグ・ジョン・テンタ、渕正信、たまにジャイアント馬場 
○決起軍 タイガーマスク、仲野信市、高野俊二、高木功、田上明 ※翌89年に解散
○外国人 スタン・ハンセン、テリー・ゴディ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン、ブルーザー・ブロディ(7月に急逝) 
上記以外にも、ラッシャー木村やマイティ井上もいたが、天龍との対戦機会は少なく、小橋健太はまだデビュー直後だった。

正規軍のエース鶴田は、天龍が相手だと、時折凄まじい強さを見せつけるが、それが長続きせず(笑)。
滅多に本気を出さないのが、鶴田の美学であり、魅力のひとつなんだけどね。
一方のカブキは、天龍に共鳴するかのように、激しい攻撃には激しい攻撃で返す。
中でも、顎を的確にとらえるアッパーカットと、顔面に突き刺すトラースキックは、
何度も形勢を逆転した実績があり、観戦している我々も「痛い!」と感じる技であった。


上記のトラースキック画像は、さっきの武道館大会のパンフレットに載っていたもので、
本人紹介画像がこちら。後日サインをいただいた。


「脚光! 俺達ユニーク族!」のキャッチコピーがあり、左隣には、“人間バズーカ砲”の高野が掲載されている。
当時のカブキは、強さや巧さよりも、個性的なキャラが強調されていたようだ。
カブキの存在は、当時は非プロレスファンにも知られており、特に有名な特徴が、
○顔面にペイントをしている ○毒霧を吐くの二点。

ペイントは、歌舞伎調の隈取メイクから、後年はバットマン風など、独自のものに変化。
リング外では当然、素顔で生活している。下記は15年ほど前、ガラケーで撮影したものだ。


先駆者もいたペイントレスラーだが、毒霧はカブキが元祖。赤い霧を噴射した直後に、緑の霧を吐くこともあった。
今気づいたが、の毒霧とは、クリスマスカラーではないか(笑)。

本人に直接、毒霧の正体を質問したことがあったが、「企業秘密だ」の一点張りで、結局教えてもらえなかった。
有名なスポーツライターで、この頃は週刊ゴングでコラムを執筆していた二宮清純さんに、
「カブキさんは控室で、自前の緑茶をよく飲んでいた」と聞いたことがあるが、真相は不明である。

プロレスファンになる前の私は、カブキは個性的というか、色物レスラーのような失礼な認識をしていたこともあり、
天龍との激しい攻防は、正統派の鶴田よりも興奮させられた。今でいう「ギャップ萌え」になる…のかな。
当然、天龍vsカブキのシングルマッチも期待したのだが、当時の全日は、格が近い選手同士は滅多にシングルマッチは組まず、
組まれたとしても、両者リングアウトなどの引き分け決着がお決まりだった。
タッグマッチでも、必ず負け役がひとり混ざっており、いない場合はやはり、不透明決着である。
私が待望していた、鶴田、カブキvs天龍、原という、負け役不在のカードが実現した際も、案の定両リンであった。

そんなある日、試合後の天龍がマイクを握り、「カブキ、こっちに来いよ」と手招きし、天龍同盟に誘ったことがあった。
週刊ゴングによると、天龍は「ジャンボのお守りをしているカブキが気の毒だったから」と語ったそうだが、
常に激しく抵抗するカブキに手を焼き、懐柔しようと企んだのでは? というのは考えすぎか。結局、勧誘アピールはその日限りだった模様。
数年前、カブキに「あのとき、天龍同盟に入ろうと思わなかったんですか?」とたずねたところ、
「そんなことあったっけ?」と記憶になかったようで、「源ちゃんとは戦った方が楽しいし、共闘する気はなかった」と否定。
天龍&カブキのえげつない攻めに、本気で怒る鶴田…なんてシーンも見たかったけどね。

年末には原が解雇され、輪島と石川が引退。顔ぶれは変わったが、翌年以降も天龍同盟と正規軍の対決は続き、
むしろ、日増しに熾烈になり、それと同時に、天龍が明らかに不機嫌になっていく。
それは、カブキの攻撃がキツイからではなく、リングの激闘に対する低評価や、安易なマッチメークが原因らしい。
不満を抱えた結果、天龍は新団体SWSにスカウトされ、全日を離脱してしまう。

一方のカブキも、露骨に態度には出さないため、私は気付かなかったが、待遇面での不満は、やはりあったらしい。
有名な「1試合あたり100円上げてやるよ(=年間で2万円以下)」という馬場社長からの提示は、
1試合で100ドル(=3万6千円の時代もあり)アップも珍しくない、米国で活躍していたカブキにとって、屈辱的な提案だったはずだ。
米国でカブキとしてブレイクした途端に呼び戻し、けれども自分より目立つことを恐れ、CMや取材依頼などを勝手に断り、
さらには試合だけでなく、若手へのコーチ役も務め、団体には貢献してきたはずなのに、給与を出し渋る馬場と妻の元子に、
カブキは長年、不信感を抱き続けていたようで、天龍に「オレもSWSに連れてってくれ」とお願いしている。

本人はその気がなかったかもしれないが、ファンの私としては、タイトル戦線でのカブキも見たかった。
元UNヘビー級王者のカブキと、現王者天龍のタイトルマッチも、東京の会場ならば絶対に生観戦したし、
タッグの名手として、ベルトも狙ってほしかったが、PWFタッグやインタータッグを奪うには、めぼしいパートナーがおらず、
アジアタッグは、高千穂明久名義だった頃に王者だったが(パートナーはサムソン・クツワダ)、
カブキ変身後は格が上がったため、中堅レスラー専用と化した同タイトルには、挑戦機会が与えられなかった。

天龍離脱後、追随し退団するレスラーが続出し、鶴田のパートナーだった谷津も、負傷を理由に退団すると、
全日は突然、PWFとインターを合わせた世界タッグに、鶴田・カブキ組が挑戦することを発表。
「こんなときだけカブキに頼りやがって!」と、馬場社長の遅い決断にあきれた私も、タイトル挑戦は素直に大喜び。
対戦する王者チームは、ゴディとスティーブ・ウィリアムスの殺人魚雷コンビ。テキサスでも対戦経験があり、旧知の仲だったゴディに、
「今度お前と選手権試合だが、わかってるだろうな?」とカブキが脅すと、「イエッサー!」と返答したらしい。
試合は当然、日本組の勝利。カブキ久々のベルト奪取に、拍手喝采したのもつかの間、
その数日後には、キオスクで売っていた東スポに、“全日本プロレス崩壊 カブキも離脱”という見出しが掲載。
半泣き状態で買ってみると、崩壊の下に“危機”の二文字があったが、離脱の下には、“か?”などの否定するマークや単語は見当たらない。
結果、カブキは本当に退団してしまい、全日への興味が一気に失せた。 ※鶴田の新パートナーが田上だったのも腹が立った
最初の方で、「プロレスに夢中だった時期は、88年から90年夏くらいまで」と記したが、
要するに、カブキが全日を去ったことで、私のプロレス愛も、ちょっと冷めてしまったのである。 

突然の退団ついては、2014年に発行の著書「“東洋の神秘” ザ・グレート・カブキ自伝」で本人が明かしているが、


私はそのだいぶ前に、カブキに直接、「失礼な質問かもしれませんが…」と前置きし、恐る恐る理由を聞いていた。
「退団は急ではなく、前から決めていたの。最後に出て行ったのは、源ちゃんとの約束だったから。
何か問題(=離脱者への制裁など。日本プロレス時代にはあった)が起きないよう、オレがしっかり見張ってやるから、ってね」
ちなみに、自伝では「馬場さんにいいしっぺ返しをしてやった」とも語っていた。

※自伝の表3にもサインをもらった

確かに、再契約金を受け取り、タッグベルトも奪取したことで、
「今こそカブキには、吉村道明さんのような存在になってもらいたい」と、
カブキが目標としていた、日本プロレス時代のバイプレーヤーの名前まで出して賞賛した馬場は、
数日後に辞表を出し、契約金も返却してきたカブキに、大きなショックを受けたはずだ。
質問時に僭越ながら、「カブキさん、あのときは私もショックでしたよ」と伝えたのを覚えている。

今、「さん付け」をしたので、ここからは再び、敬称で呼ばせていただく。
日米を股にかけて大活躍した、リング上での功績は素晴らしいカブキさんだが、
リングを降りたあとも、居酒屋を経営し、多くのファンを喜ばせているのは周知のとおり。
飲食店を出している著名人は多いが、実際に本人がお店にいるケースは少ないし、
いたとしても、サインや記念撮影は有料、会話も一切しないという、某レスラーが営むひどい店がある一方、
カブキ店主は、サインも記念撮影も無料で、来客とは一度は必ず乾杯をし、会話も交わせる。
運がよければ、長時間会話ができ、私がしたようなプロレス関連の質問も、快く回答してくれる。

お店は当初、飯田橋で開業し、当時の店名は『串焼き・ちゃんこ かぶき』。場所は、先日紹介した『雲仙楼』の隣だった。

※お店のフェイスブックより拝借

その後、春日に移転し、屋号も『BIG Daddy酒場かぶき うぃずふぁみりぃ』に変更し、現在に至る。


写真の百田光雄さんのように、レスラーの訪問が多いのも、ファンには嬉しい。

※2013年、飯田橋店で撮影

私は会えなかったが、ハンセン氏も何度か来店しており、サイン入りのカウボーイハットを寄贈していったそうで、
客なら誰でも、実際に被って記念撮影もできる。私も当然、撮らせてもらった。


カブキさんには、プロレス界のいろんな話を聞かせていただいたし、中には、目からウロコの新事実もあった。
それも紹介したいところだが、ここまで、かなりの文字数を費やしているため、
印象に残っている質問をいくつか再現することにとどめる。Qが私で、Aがカブキさんだ。
Q 史上最強だと思うレスラーは?
A 間違いなくアンドレ(・ザ・ジャイアント)だね。前田日明との不穏試合? あれもアンドレは本気になっていないよ。
Q それでは、史上最強の日本人レスラーは?
A マサやん(=マサ斎藤)だよ。米国ではタッグも組んだし、ベストタッグパートナーもマサやんだな。
Q 私は、史上最強の日本人レスラーは、ジャンボ鶴田だと思っていたのですが、間違いですか?
A (鼻で笑い、無言)
私は納得していないが(苦笑)、鶴田がなぜダメなのかも詳しく説明してくれたので、それもまた、別の機会に。

ここまでダラダラと綴ってきたが、プロレスラー・カブキについて書きたかったことの半分にも達していないので、いつか続編を書いてみたい。
さらに、居酒屋店主・カブキ、つまり営んでいるお店についても語りたいが、それは次回に回す。
今回は、お料理をひとつだけ紹介。鶏の照り焼きを、テキサスの荒馬兄弟風に変名した「ドリーテリー焼き」。


商品名だけでなく、味も楽しめる、商品の数々を紹介するので、乞うご期待。



ザ・グレート・カブキ
本名:米良明久 ニックネーム:東洋の神秘
全盛期の公称サイズ:身長184cm、体重110kg
主なタイトル歴:UNヘビー、世界タッグ、アジアタッグ他
得意技:トラースキック、フィストドロップ、毒霧攻撃など
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