児玉真の徒然

峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい
(真壁仁 峠)

マイクを使わない範囲

2007年03月09日 | アウトリーチ
アウトリーチで学校に行こうとするとき、必ずぶつかるのが「全校生徒に聴かせたい」という校長先生の声である。はじめはこれを乗りこえるのはなかなか難しい。事は音楽観に関わる問題なのである。
トリトンでは最近そのような事は少なくなったが、初めは担当者が狭いところが良いのです!とねじ伏せていたような感じもある。
私が小学校の生徒だったとき私のクラスは60名の子どもがひしめいていた。私はずっと壁に背中をくっつけて授業を受けていた(今も背中に壁があるのが好き)。
今は40名がマックスで20人強のクラスもある(41人になると2クラスになるわけだ)。それでもまだ多すぎて先生の気配りが回らないと言うことで、副担任を置いたり30人学級を採り入れたりしているところもある。授業をやるのにはそのくらいの人数でないと・・というのがその理由なのであるが、何で音楽だけは何百人で良いのだろうか?
それは、音楽を聴く、ということへの考え方の違いであろう。まあ、現実に2000人のホールでアコ-スティックで演奏をしている、というか出来る楽器を持ち込んで行うアウトリーチでは、もっと大きな空間と人数でも聴かせることが出来るであろう・・と考えるのはもっともである。しかし演奏する側からは「それならばホールで聴いてほしい」と思うだろう。アウトリーチで学校に行くのは、また別のミッションと思いを届けたいと思っていくのである。
それは何かということはさておき、アウトリーチでは語りかけ、自分の思いを判ってもらう必要があり、そのために言葉が必要なのである。特にアウトリーチの聴き手はそのために集まった音楽ファンというわけではない。抽象的な音楽というジャンルを聴くことは、それに気がつくフックのようなものが必要で、それを判ってもらいたくて語りかけるわけだ。

最近読んだ竹内敏晴氏の本の中で、「私はマイクは使わない」ということが書かれてあった。語りかけるとは、全人的にものが伝わるための方法である。マイクを通した声は方向性がないので意味だけしか伝わらない。自分に向けて話しかけられた言葉と感じることはほとんど不可能だろう。
彼のワークショップでは、様々な方向を向いて座っている人に語りかけるという事をやっている。話す方は当然ある人に向けて呼びかけるのだから、その人は答えてくれるものと思っているが、多くの場合、聴く側は自分に向けて語られた言葉だと思わないのだそうだ。
アウトリーチは演奏家が語りかける、という強い方向性を持った手法である。言葉で語り、それによって気がついてもらうわけである。もちろん演奏も大事で、コミュニケーションをより強く求めるところにアウトリーチの良さがあるのである。そのためには、マイクを使わなくて良い大きさと距離というのが重要なポイントになると思う。
音楽室でなるべく少人数で・・というのはそのためだ、と言いきれるくらい演奏家の意欲が強いともっともっと良いことが出来るとおもうのだがなあ。