3月20日、カザルスホールで山本祐ノ介(チェロ)がリサイタルを開いたので、本当に久しぶりに行ってきた。祐ノ介さんの気持ちの伝わるような演奏。ベートーヴェンの最終楽章のフーガなどはなかなか聴き応えがあって、フーガがとても丁寧に演奏されたのを聴いて彼が最近指揮者をしていたのを思い出した。
まあ、この場所で演奏を聴くと、色々と思い浮かぶこともあり、それが必ずしも楽しかったことばかりではないわけだから(当たり前だけれど)複雑な思いもある。それでもある感慨はあってやや寡黙になって帰ってきたのだけれど、会場で音楽で活性化された頭で一番感じたのは「わたしにとってはカザルスホールは2000年で一度切れているのだけれど、それから10年もホールにとっては歴史であったのだなあ」ということ。その意味で、歴史は終わってしまったというこちらの感慨とはべつに、「人格」を標榜したカザルスホール本人のこれからの人生にもまだまだなにか意味のある時間があるかもしれない。それが外から見れば若干惨めに見えていようとも、本人にとっては大事な歴史であって、そのことも生命の意味なのかもしれぬ。人格とはそういうものだ。
3月になってカザルスホールを懐かしむかのようなメッセージのある企画がいくつも行われている。そのような企画はかつてのカザルスホールらしいと言えば言えないでもないけれども、この祐ノ介さんのコンサートのような、極めて個人的な感慨をもって催されるコンサートの存在は、一緒に大事にしてきたつもりのもう一つの部分を見るようでとても気持ちが良い。3月末まで忙しくてもう行けないので、今回が最後になると思うけれども、良いコンサートだった。
心残りはオルガンがどうなるかかな。
まあ、この場所で演奏を聴くと、色々と思い浮かぶこともあり、それが必ずしも楽しかったことばかりではないわけだから(当たり前だけれど)複雑な思いもある。それでもある感慨はあってやや寡黙になって帰ってきたのだけれど、会場で音楽で活性化された頭で一番感じたのは「わたしにとってはカザルスホールは2000年で一度切れているのだけれど、それから10年もホールにとっては歴史であったのだなあ」ということ。その意味で、歴史は終わってしまったというこちらの感慨とはべつに、「人格」を標榜したカザルスホール本人のこれからの人生にもまだまだなにか意味のある時間があるかもしれない。それが外から見れば若干惨めに見えていようとも、本人にとっては大事な歴史であって、そのことも生命の意味なのかもしれぬ。人格とはそういうものだ。
3月になってカザルスホールを懐かしむかのようなメッセージのある企画がいくつも行われている。そのような企画はかつてのカザルスホールらしいと言えば言えないでもないけれども、この祐ノ介さんのコンサートのような、極めて個人的な感慨をもって催されるコンサートの存在は、一緒に大事にしてきたつもりのもう一つの部分を見るようでとても気持ちが良い。3月末まで忙しくてもう行けないので、今回が最後になると思うけれども、良いコンサートだった。
心残りはオルガンがどうなるかかな。