港区高輪にある曹洞宗寺院「萬松山泉岳寺」境内の左奥には国の史跡となっている「浅野長矩墓および赤穂義士墓」がある。当墓域には討ち入りした47士と討入り以前に自害した「萱野重実」の供養墓を含め48基の墓塔がズラリと並んでいる。赤穂浪士と言えば主君の仇討ちを果たした47士をいう。元禄14年(1701)3月14日は将軍綱吉が朝廷からの使者に勅答する大切な日、勅使接待役の赤穂藩浅野家三代藩主「浅野内匠頭長矩」が指南役の高家筆頭「吉良上野介義央」を江戸城松の廊下で斬りつけた刃傷事件に端を発する。事件後、綱吉は徳川家始祖以来守られてきた喧嘩両成敗の不文律を破り、内匠頭には「即日の切腹」、上野介は「お構いなし」の裁きを即断。切腹は五万石の大名を罪人扱いとし遺言を書くことも切腹のとき自分の刀を使うことも許さなかった。この不公平な裁きが元禄赤穂事件の端緒となった。大石内蔵助は吉良上野介の処罰を訴え、浅野家の再興を願ったが断絶となり望みを絶たれ吉良邸で茶会が開かれる情報を得て12月14日討ち入りを決行した。47士の処分は自害、切腹。事件後の翌年の2月、預入先の4ヶ所で腹を召すことになった。その後、ここ泉岳寺に葬られ現在の墓所の形となる。墓塔の並びは預入先の4つの藩(大名家)ごとに分かれている。左手に伊予松山藩10人(ここに大石主税)、上部に最も厚遇扱いした肥後熊本藩・細川家17人(ここに大石内蔵助)、中央に長府藩10人、下手に岡崎藩9人である。大石内蔵助の隣に「浅野内匠頭」の墓塔がある。なぜか47士すべて刃で始まる戒名となっていることにこの事件の真意があるような。厳かな場所、しばし赤穂義士たちと向き合うことに。(2009)









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