お伽の国のお店のような楽しいお家がありました

酒・タバコ・シオヤとあります。
間違ったらごめんばさいね。この三つの品は戦前の昭和初期の時代は国の専売品だったように思います。戦前の成人とってはこの三つの品は基本的に欠かせない大事なものでしたけど国はこれらを国の専売品として定め、国の許可を得たものでなければ製造販売が出来ないことにしていたんです。その専売品の独占的利益で国の財政を潤していたんですね。
たとえばタバコです。タバコは今のように自動販売機で自由に買えるものではありませんでした。販売を許可されたお店には50cm四方くらいの赤いブリキの看板が掲げれていてそのお店には売り場の窓口があって綺麗なお嬢さんが座ってタバコを売っていました。
その頃こんな歌がありました。
向こう横丁のタバコやの可愛い看板娘 年はは十八番茶も出花愛しじゃないか、
いつも煙草を買いに 行きゃ優しい笑顔、だから毎朝毎晩煙草を買いに行く ・・・
その頃はタバコは成人の特権みたいなもので成人の大部分の人はどこでもいつでもタバコをぶかぶかふかしてのんでいました。わたしなど20歳になった時成人になった証しにと好きでもないタバコを苦しみながら必死になって覚えました。そして猛烈な喫煙愛好者になってしまったのです。そして禁煙しようと決心実行した時の苦しみは大変なものでした。ほんとタバコは怖いです。禁煙して25年ほどになりますけどいま91歳の老体が元気していられるのは禁煙のお陰だと思っています。
タバコでの思い出のひとつに祖父のタバコを思い出します。80数年昔のことです。祖父はタバコ入れに真っ赤な石とはがねの鉄の板とほくちという乾燥した植物を細かくもんで綿のようにしたものを持っていました。野原でタバコを飲むときには真っ赤な石英みたいな石に鋼ねの板をうちつけて火花を出しほくちに移して火をおこしタバコを飲んでいました。まあ原始ライターですね。
今は塩(食塩)はなんか毒でもあるかのように減塩を叫びまるで減塩がモラルのように口にする人がいます。(私の家内のばばちゃんがその一人です)もちろん大量の食塩はいけませんけど適量の食塩は人間にとっては欠かせないものだと私は思っているんですけど。
私の幼い頃つまり80数年前はたいていの家では海水から製塩された食塩を藁の俵に入れたものを買って保存していました。保存していると俵の中の塩から少しずつ液がしたたり落ちます。にがりです。
子供の頃私の住んでいた集落には豆腐屋さんはありませんでした。ですから祭りやお盆などの晴れの日にはそれぞれの家で大豆を石臼ですりつぶして豆乳を造りにがりを入れて豆腐をつくっていました。その豆腐は硬いんですよ薄く切って火にあぶり焼き豆腐をつくったり、薄く切った豆腐を藁で編んで冬の外に下げ凍み豆腐つくったりしました。
山奥の集落の冬は2m近くの積雪があり物資の流通は途絶えます。ですから冬になる前には秋上げといって冬の4ヶ月分の野菜や魚類の保存処理をしなければなりません。その保存処理のひとつに食塩で漬けるという大事な方法があります。すこし塩からいですけど美味しく乳酸発酵した野菜の漬け物はおいしいですし、塩鱒や塩鮭や川魚の鮨漬けも美味しいものでした。
私の古里奥会津只見街の塩沢という集落には塩竃神社があります。それはこの集落には食塩の解けた水の出る井戸があって明治の始め頃まではこの集落で製塩が行われていたのです。山塩ですね。昭和14年頃は食塩が不足して3年ほど製塩が行われていました。
お酒ね。私は酒が嫌いですからあまり酒の思い出はありません。私の家の父は戦後お酒が不足していたとき密かに畑の隅に甕を置いてどぶろくを造っていました。もし人にしれると税務署に密告されて大変な罰金を科せられる可能生があったのでどの家でも密かにたれにも知られないようにどぶろくを密造していたのです。お酒は許可された者しかつくれな国の専売品でしたから。その時私はその秘密のどぶろくの場所を知ってしまったのです。密かにコップをもってどぶろくの甕の蓋を開けました。果物に似たいい香りがしてぶつぶつ泡を吹いていました。あまり美味しくはなかったんですけどコップいっぱいのどぶろくを飲みました。これがいけなかったんです、苦しくて吐いてのたうって苦しみました。それいらい酒と聞いただけで気持ち悪くなるんです。わたしは酒は嫌いです。
昔国の専売の酒とタバコと塩を売っていたであろう楽しげなお伽の家のお店からくだらん思いがつぎつぎに湧いて来ましたけど、くだらん思い出はここらへんで止めて起きます。11時近くなりました。 遅いので読み返しません。誤字脱字がいっぱいと思いますけどお許し下さい。