この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
黒川は椹野川左岸の平地にあって、今山の西南麓、高倉山の西北部に位置する。地下上
申、風土注進案などには、平野村、恒富村の名があり、矢原村を含んでいた時代もあった。
明治になって平野、恒富を合わせて黒川村となった。(歩行 約5.4㎞)
JR新山口駅から防長バス県庁行き(山口大学経由)約30分、平川小学校前バス停で下
車する。この路線は平日のみの運行となっている。
平川小学校を過ごすと、隣の中学校グラウンドは多くの車が駐車されており、何事かと
思ったら高倉荒神社の祭りであった。
露店が並ぶ沿道の角に、「恒富八幡宮」と刻まれた大きな石碑がある。
露店を眺めながら歩くが、昭和の時代には参道や境内には、各種の作物の種苗や、農機
具・機械など農家日用の雑貨を扱う露店が並んでいたという。
百段もあろうか急な参道石段。
鐘楼を挟んで2つの石段があり、参拝を済まされた方にお聞きすると、手前が恒富八幡
宮の階段、奥側が高倉荒神社の階段と教えていただく。
氏神は吉田の平清水八幡宮であったが、参拝するには遠いため、1680(延宝8)年に平
清水八幡宮の分霊を勧請したのが、恒富八幡宮の始まりとされる。
荒神社の起源について風土注進案は、大内氏の始祖と伝える琳聖太子が渡来し、海上守
護の霊神として高倉村(現防府市高倉)に創建する。5代多々良茂村の時に荒神を遷座させ
て、山名も高倉山と名付けられたと記す。
社は人家に遠い山上にあって参拝も維持も容易でなかったため、1911(明治44)年に
この地へ仮遷座する。1914(大正3)年に正遷座となったが、その年の7月12日に大粒
の雹(ひょう)が降り、稲や野菜に大きな被害が出た。世上では「移転が荒神の神慮にふれた」
と思い、神威とも感じて信仰が高まったとされる。
荒神祭には「おためし」という年占(としうら)神事がある。境内に湧き水(神水)があり、
節分の日に水量を計り、その年の米の豊区を占う。
今年は「早稲(はやて)七合八勺・中稲(なかて)七合八勺・晩稲(おくて)八合、水六合」で、
結果を記した札が本殿などに張り出された。これによると晩稲の苗の方が出来がよさそう
と占いされたが、結果は如何に?
人通りの少ない別の参道を下る。
正面が神社のある諏訪山で周囲は団地化されている。
広沢寺(こうたくじ)は大内氏が山口を本拠して栄えた頃、大内盛見の子・教幸が豊前国馬
岳において敗死したので、山口市古熊に菩提寺として建立されて広沢寺と号した。
1872(明治5)年この地にあった泉福寺が廃された際、跡地に移転してきた。
右の宝篋印塔には「元和五己未」(1619)の銘があるが、左は無記銘である。
泉香寺山の山名は、明治初期まで南麓にあった泉福寺(現広沢寺)に由来する。登山道は
墓の東端から山道を上がると、平坦地の左側に山頂への道がある。(少し上がって分岐を見
返す)
一本道なので迷う心配はない。
平坦地の山頂には日清戦争凱旋碑が立ち、この碑の建設中に経塚が見つかったという。
経塚は経典を地中に埋納した塚で、経筒の中に納められていた経巻は、腐って何経かわか
らなかったという。
山頂には城跡を示す看板が取り付けてあるが、築城に関するものは不明とされる。恒富
氏の出城との見方もあるようだ。
農家を中心として構成されてきた村落的な社会構造であったが、新たな住民が転入した
ことで、混在化した地域となっている。
泉香寺山と広沢寺。
大きな屋根を目印にと思ったが、真宗にしては大きな屋根を持たない西向寺である。寛
永年間(1624-1644)に創始されたが、その後大破して天和年間(1681-1684)に中興され
た。小寺ではあるが当地区の生え抜きの寺とのこと。
蔵持ちの農家住宅が多く見られる。
1935(昭和10)年11月に設置された警鐘台。
西京グリーンタウン入口にある三界萬霊(西のお地蔵さん)には、賽銭が盗まれた旨の貼
紙がしてある。
西京高校から正面に見える堂山?を目指す。
山の麓に庚申塔や地蔵尊が並ぶ。この付近に古墳があるとのことだったが、見つけ出す
ことができなかった。
お堂の中は木造の仏像。
子供を抱いている地蔵は子安地蔵とも呼ばれ、妊婦の安産を守護する地蔵尊で、安産以
外にも子授けなど妊娠を祈願する地蔵尊でもある。
吉野橋から菜の花を見て、薬師バス停よりJR新山口駅に戻る。