ぶらっと散歩

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防府市牟礼の矢筈ヶ岳南に南北朝期の敷山城跡 

2024年01月11日 | 山口県防府市

                      
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         敷山城跡は防府平野の東北端にそびえる矢筈ヶ岳(標高460.8m)南面の8合目に位置
        する。城跡とされるが寺坊があった地で、南北朝時代に後醍醐天皇側へ味方した周防国府
        の役人が、足利尊氏側の軍勢と戦いが行われた地が敷山城跡とされている。(歩行6.3㎞) 

        
         JR防府駅北口から防長バス阿弥陀寺行き(10:33)約15分、敷山バス停で下車する。

        
         車窓から見えた石柱は「右あみだみち」とある。

        
         矢筈ヶ岳を仰ぎながら国道2号線の敷山地下道を潜り、出た所から左手に国道と並行し
        た道がある。

        
        牟礼7号函渠の先に道標あり。

        
         お地蔵さまに一礼すると山手を新幹線が走り去る。その先の分岐にも道標があるので迷
        うことなく歩ける。

        
         新幹線下を潜った先の四差路は直進し、民家の間を上って行くと防府の町並みが見える
        ようになる。

        
         「敷山城跡」の案内板傍に無縫塔(僧侶の墓塔)が並ぶが、室町期の1502(文亀2)年国
        分寺の手で、向い側の田屋(現在の堀宅地)に再興され験観寺と称した。その後再び荒廃し、
        宝永年間(1704-1711)雲岩寺(現在の極楽寺)によって再興されたが、いつ頃から現観寺と称
        したかは不明だそうだが、1868(明治元)年雲岩寺に合併される。

        
        単調な上り一辺倒の舗装道である。(新幹線下から約1.1㎞) 

        
         車道終点の左側に敷山城跡へ道がある。

        
         階段を上がると、「右:敷山城跡、左:忠魂碑」の案内がある。

        
         1940(昭和15)年10月防府市によって敷山城戦死者の忠魂碑が建立されたが、主は
        皇紀2600年の祝賀が目的のようだ。 

        
         尾根の左を進むが、明瞭な道なので迷う心配はない。

        
         道なりに進むと平坦道に出る。

        
         平坦地の先に「史蹟 敷山城趾」石柱が立てられている。

        
         矢筈ヶ岳南側8合目を敷山と呼び、俗に12段とも呼ばれている寺坊の跡が12ヶ所残
        されている。

        
         標柱を過ごすと複雑な地形を示す。

        
         この平地に坊があったのであろう。

        
         奈良・平安前期まで天皇の新政が続き、国司はその任を果たしてきたが、荘園と称した
        土地・人民を私有化し、やがて勃興した武士に犯されてしまう。
         後醍醐天皇(1288-1339)は天皇による新政を理想とし、1331(元弘元)年倒幕を計画する
        が密告で発覚し、京都の笠置山に籠城するも落城して捕らえて隠岐の島へ流された。(元弘
        の乱)
         1333(元弘3/正慶2)年島から脱出して伯耆国船上山で挙兵し、追討するため幕府から
        派遣された足利尊氏は、後醍醐方に味方し北条氏を滅亡させる。帰京した後醍醐天皇は、
        同年6月に建武の新政を開始する。

        
         梵字石の中央に梵字があって「金輪聖王(こんりんじょうおう)・天長地久・文永2(1265)年
        乙丑5月」と刻まれているそうだが、建立の年代から敷山の戦いとは關係がないという。
        石碑建立から9年後、元寇の役が起こっていることから、石碑は元の侵攻から国の安泰祈
        願するものとする説がある。

        
         建武の新政を開始した後醍醐天皇は、元号を「建武」に改める。1335(建武2)年北条
        の残党が起こした中先代の乱で、尊氏は勅許を得ないまま鎮圧に出向き、付き従った武士
        に恩賞を与えた。これが離反とみなした後醍醐天皇は追討を命じ、京都で足利軍を破る。
        尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に態勢を立て直し、1336(延元元)年5月湊川で楠木・
        新田軍を破り、足利軍が京に入ると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが苦戦に陥る。

        
         周防国府の地にいた清尊・教乗は、大内、厚東氏が足利方の援軍として大挙出兵した虚
        に乗じて挙兵する。京都における足利方の後方を脅かし、牽制しようとするものであった。
         清尊らは国庁を出て地の利のある敷山験観寺に籠城したが、尊氏は石見国上野頼兼に命
        じて近隣諸国の軍勢を率いて攻める。攻防10日余りの奮戦後、衆寡敵とせず敗退して清
        尊・教乗らは戦死、1336年7月4日敷山城は落城する。

        
         本堂跡には敷山神社が建立されているが、方形に巡らした石垣や礎石が残されている。
        この地が8合目で、山頂付近に大岩テラスがあるというので上がることにする。

        
         社殿左手の道を進むと分岐になるが、右の道が山頂への道、左は水場への道である。

        
         やや急坂の一本道。 

        
         時にこんな場所もある。

        
         尾根に上がる手前左手にロープがあったのでよじ登る。

        
         巨岩の中に平らな大岩テラスがある。

        
         展望もあって岩上でしばしの休憩とする。

        
         三田尻港方向の瀬戸内海に野島や姫島が浮かぶ。

        
         防府平野の中央に桑山、右手に佐波川が南流し、ラクダ色の広い土地は自衛隊基地であ
        る。

        
         北にわずかな展望がある。

        
         ここで引き返そうと思ったが、バス乗車時間に余裕があるので山頂を目指すことにする。
        尾根に出て北東に向かうと正面に大岩があり、右に巻いて下ると鞍部に出る。

        
        鞍部からは急坂を登り返すことになるが、途中には西峰と思われる頂を見ることができる。

        
         山頂手前の右に鉾岩という大岩がある。

        
         鉾岩から山頂までは緩やかな道で、右手に大平山や牟礼地区が一望できる場所がある。

        
         三等三角点の立つ山頂は、樹林に囲まれて東に大平山の頂が望める程度である。験観寺
        跡まで戻ってバス時間を調整する。

        
         登山口に到着すると一息つける。

        
         牟礼7号函渠を潜ると敷山会館傍に石碑が建立されているが、風化して読み取ることが
        できない。この付近に敷山出身の江山峰太郎顕彰碑があるようだが、江山氏は明治の初期、
        牟礼小学校に奉職され、特に青年会教育や牟礼各地にある会館創設者でもある。

        
         牟礼中学校を目指しながら矢筈ヶ岳東峰の鉾岩を確認して、中学校前バス停よりJR防
        府駅に戻る。


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