ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

築上町の椎田は中津街道椎田宿があった地 

2023年05月10日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         椎田は岩丸川・真如寺川流域の平野部に位置し、北は周防灘に面する。この地は小倉城
        下から中津城下までの中津街道が整備され、宿駅として栄えた歴史がある。
(歩行約3.6
        ㎞、🚻なし)

        
         JR椎田駅は、1897(明治30)年豊州鉄道(現日豊線)行橋~柳ヶ浦間が開通したと同
        時に設置される。 

        
         築上町役場前を右折するが、旧椎田町は1889(明治22)年の町村制施行により椎田・
        湊・高塚・臼田・山本の5ヶ村が合併して椎田村が発足する。町制移行後、
昭和の合併で
        椎田町は、他の3ヶ村と合併して改めて椎田町になる。
         2006(平成18)年の大合併で築城町と合併して「築上町」となるが、町名は築上郡に
        由来するという。

        
         中津街道は中津城下から椎田宿を過ごし、岩丸川を渡って大橋宿(行橋)に至るが、西ノ
        橋から椎田宿に向って歩く。

        
         先を期待して街道を東進する。

        
         足を止めるようなものは存在しない。

        
         新町橋を渡ると旧椎田宿のようだ。

        
         平入りの家屋が並ぶが、宿場町だった面影はみられない。

        
         右手にJR椎田駅を過ごす。 

        
         平入りの大きな家が並ぶ。

        
         築上町立歴史民俗資料館前に「椎田郡屋」の説明板が設置されているが、江戸期には築
        城郡の役所(郡屋)は、当時栄えていた椎田宿の中心地に置かれた。
         1836(天保7)年築城郡筋奉行の延塚卯右衛門は、飢饉で困窮した農民の根付料(種籾
        や田植えの貸付金)の返済を独断で免除して農民を救済したが、その責任を取ってここで切
        腹したという。

        
         中津街道は小倉から中津まで約52㎞の道程で、細川・小笠原氏によって整備され、1
        876(明治9)年から1933(昭和8)年までは国道の一部として利用された。

        
        
         街道筋は国道によって分断されている。

        
         西山浄土宗の西福寺(さいふくじ)は、江戸期に小倉藩の切支丹禁制の宗門改め「踏み絵」
        が、築上郡ではここで年1回行われており、別名「判行寺」と称された。

        
         門前の里程標は、中津街道沿いの「中津屋」前にあったが、国道の整備に伴い移設され
        た。山鹿(犀川)まで3里31丁(15.2km)、苅田まで4里半(17.7km)、豊前松江まで
        1里8丁(4.8km)とあり。

        
         中央に町章のある築上町のマンホール蓋。

        
         真如寺川に架かる椎田橋までが椎田宿のようで、この先は旧湊村に入る。

         
         1864(元治元)年の記録によると椎田郡屋は、後に湊郡屋(椎田小学校付近)に移転した
        という。

        
         街道は真如寺川河口へ向かう。

        
         国道を横断して看板建築の建物を過ごす。

        
         その先に「厨子二階」の民家が見られる。

        
         この石垣は何に使われたのだろうか。

        
         この付近は椎田村に合併する前の湊村。

        
        
         1810(文化7)年1月20日伊能忠敬(1745-1818)も椎田を訪れ、測量隊と共に湊の村
                屋又左衛門宅に宿泊したという。
         その後、東九州を南下し宮崎、鹿児島を経て熊本から再び大分に入り、1811年1月
        12日に椎田村の大庄屋椎田常四郎宅に宿泊している。

        
         中津街道が整備されると、江戸期の湊村は陸上と海上交通の要衝として栄え、4軒の造
        酒屋と2軒の廻船問屋があったという。

        
         街道の突き当りに残るトタン屋根の民家。 

        
         すぐ北側は周防灘。

        
         湊村には藩の御蔵所が置かれて、廻船問屋、酒、醤油造屋等があったというが痕跡は残
        されていない。

        
         田園地帯は麦秋一色。

        
         金富(きんとみ)八幡宮が創建された当時は、単に「矢幡(やはた)」と呼ばれていた。神仏習
                合の時代になると湊八幡、絹富八幡と変遷し、明治に入って現社号となる。

        
         神社正面に神池があり、厳島神社と稲荷神社が鎮座する。

         
         庚申や猿田彦大神の石碑を見て駅に戻る。


中津は福沢諭吉の故郷 (中津市)

2023年05月10日 | 大分県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         中津は大分県の北端にあり、北は周防灘、西は山国川を境として、市域は山国川右岸の
        沖積平野と、これを包む低平な洪積台地からなる。見どころが分散しているので観光案内
        所でレンタサイクルを借用する。(距離約6.8㎞)

        
         南口側でレンタサイクルして駅構内を北口側に移動する。
         JR中津駅は、1897(明治30)年豊州鉄道の行橋~柳ヶ浦間が開通したと同時に開設
        され、1977(昭和52)年には駅高架事業により3代目の駅舎が完成する。中津といえば
        福沢諭吉といわれるように駅前には像が建つ。 

        
         「1万円札の里 中津市」の文字入りに、福沢諭吉旧居と「学問のすゝめ」が刻まれた
        マンホール蓋。
        
        
         1927(昭和2)年に建てられた倉庫で、音楽ホールなどに活用されている。

        
         島田神社は鎌倉期の1229(寛喜元)年貴船神社として創建され、昭和期に現社号とな
る。

        
         宝蓮坊(真宗大谷派)は、1600(慶長5)年細川忠興が中津城に入封の際、名僧の誉れ高
        かった行橋の浄喜寺の村上良慶を伴って、中津浄喜寺を開基させた。これが後に現寺号に
        改称された。(太子門を見落とす)
         山門前には「魚町の蛭子宮(通称・おいべっさん)」が鎮座するが、江戸期に若松の恵比
        須神社より勧請されたと伝わる。

        
         寺町は中津城総曲輪内の東側にあって、島田口と蛎瀬の中程に城下防衛のために造られ
        た町という。
          黒田氏時代以前‥地蔵院、安随寺
          黒田氏時代(1587-1600)‥合元寺、大法寺、円応寺、西蓮寺
          細川氏時代(1600-1632) ‥普門院、宝蓮院、本伝寺
          小笠原時代(1632-1713)‥円龍寺、浄安寺
          奥平氏時代(1713-1869)‥松厳寺    計12ヶ寺がある。

        
         松厳寺(臨済宗)は、1678(延宝6)年奥平昌章が実父の菩提を弔うため、栃木県宇都宮
        市に創建したと伝え、寺号は実父の戒名から名付けられたという。1717(享保2)年奥平
        氏の転封に伴い、中津に移転される。

        
        
         西山浄土宗の合元寺(ごうがんじ)は、真っ赤に塗られた塀や建物の壁から赤壁寺ともいわ
        れる。1589(天正17)年前城主の宇都宮鎮房が黒田孝高(官兵衛)に誘殺された際、同寺
        に待機していた家臣も討死する。壁は返り血で赤く染まり、その後、何度塗り替えても血
        痕が浮き出るので、ついに赤く塗ったと伝わる。

        
         桜町天満宮は、1632(寛永9)年播州竜野より中津に移封となった宇都宮長次(ながつぐ)
        が、天神像を奉載して入部する。
         当初は大江ヶ岡の八幡宮境内に祀られていたが、洪水の被害を避けるため当地に遷座し
        たという。

        
        
         寺町通り。

        
         本伝寺(法華宗)は、南北朝期の1343(康永2)年開山。

        
         大法寺(日蓮宗)は、1600(慶長5)年建立とされ、冠木門内には鬼子母神が祀られてい
        る。境内には加藤清正を祀る浄池宮、婦人病平癒に高徳のある神として伝えられる秋山堂
        が建立されている。

        
         大石良雄奉納と伝う石灯籠だそうだが、経緯については寺の由来には記されていない。

        
         円応寺(浄土宗)は、1587(天正15)年黒田孝高の開基によって建立される。

        
         境内には「河童の墓」と呼ばれる五輪塔がある。この墓は宇都宮鎮房が誘殺された時、
        鎮房に太刀をあびせた野村太郎兵衛祐勝の墓とされる。
         一方で、江戸中期にこの寺の寂玄上人が、河童を帰依させたという伝説が伝わり、河童
        の墓ともいわれている。

        
         円龍寺(浄土宗)は、寛永年間(1624-1644)中津藩に入府した小笠原長次が建立する。

        
         山門を潜ると左側にキリシタン風の形状に見える織部燈籠が立っている。この燈籠は、
        殿町の井上家に伝来したもので、2016(平成28)年井上家ゆかりの当寺に寄進されたと
        ある。

        
         浄安寺と西蓮寺が並ぶ。

        
         浄安寺(浄土宗)は、1640(寛永17)年小笠原長継の菩提を弔うため、長男の政直が建
        立する。

        
         西蓮寺(真宗)は、1588(天正16)年に光心師によって開山。光心師の俗名は黒田市右
        衛門であり、孝高の末弟で父が逝去時に出家する。黒田家が播州から中津に入国の際、共
        に中津に入り同寺を建立したという。

        

        
         福沢諭吉記念館の駐車場脇に照山白石紀念碑(しらいししょうざん、1815-1883)がある。説
        明によると、江戸末期から明治期の儒学者・教育者で福澤諭吉の師で、諭吉が14歳頃は
        じめて学問の手ほどきを受けた。諭吉がお金に困っていた時に、臼杵藩が蔵書を買い上げ
        る際の仲介をし、そのおかげで大坂の適塾で学問が続けられたという。

        
         福沢諭吉(1834-1900)は大坂の中津藩蔵屋敷で、中津藩士の父・百助(ひゃくすけ)と母・阿
        順(おじゅん)の末子(次男)として生まれた。1836(天保7)年父が死去したため、母子6人
        は中津に帰郷する。
         福沢家は藩士の身分が低かったため、諭吉は門閥制度に苦しめられた。「福翁自伝」の
        中で、「門閥制度は親の敵(かたき)でこざる」といい、この中津時代の苦い経験が市民的自
        由を追求する力となる。

        
         茅葺き屋根が印象的な福沢諭吉旧居は、諭吉が17~18歳の1850(嘉永3)年頃に、
        母の実家であった橋本家の住宅を購入して移り住む。平屋の建物には6部屋と土間・勝手
        ・納戸があり、旧居裏にある5坪の土蔵は、若き日の諭吉が勉学に励んだ場所という。

        
         1854(安永元)年兄のすすめにより、長崎で蘭学を学び、翌年には大坂へ行き、緒方洪
        庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる。これを知った中津藩は、江戸で蘭学塾を開くこと
        を命じ、中津藩中屋敷で家塾を開いた。これが慶応義塾の起源である。
         明治維新後は、新政府出仕をこばみ続け、在野の啓蒙思想家として先の課題を追求し、
        「学問のすゝめ」や「文明論之概略」などの著書を通じて、日本の独立と国際社会におけ
        る平等を国民に訴えた。

        
         和田豊治(1861-1924)は明治・大正期の実業家で、村上田長の書生となって独学し、のち
        田長の勧めで藩の奨学金を受けて、慶應義塾に学ぶ。渡米して新知識や紡績工業などの技
        術を学び、帰国後、大会社の要職を経て経営不振の富士紡績を立て直す。
         郷土の中津に和田奨学資金を設け、その恩恵を受けた人は300名をこえるという。(和
        田豊治の生誕地に頌徳碑)

        
         日霊神社(神名宮)は、1600(慶長5)年細川忠興が中津城入城後に、城の鬼門除けのた
        め“音洲の森”に伊勢内宮を勧請したと伝える。維新後に「神明宮」に改称された。
         境内には他に目の神様とされる生目神社、道案内の神である猿田彦神の祠、稲荷神社が
        ある。

        
         中津川に架かる北門橋の袂には、旧橋の親柱と思われるものが保存されている。

        
         周防灘に流れ込む中津川の河口に築城された水城。1587(天正15)年黒田孝高が古城
        であった丸山城を修築したものとされる。(遊歩道と河川敷公園)

        
         貝原益軒の『豊国紀行』 には、「城は町の北、海辺にあり、天守なし」と記されている
        が、1870(明治3)年に廃城を願い出て、翌年にはすべての櫓と城門が取り壊された。
         1877(明治10)年西南戦争において西郷軍側に呼応した中津の不平士族が蜂起し、残さ
        れていた建物に放火し焼失させた。現在は1964(昭和39)年に建てられた模擬天守と櫓
        がある。

        
         江戸期には天守閣のある部分に二層の櫓があったという。

        
         天守閣前に鎮座する奥平神社は、奥平家中興の祖、奥平貞能・信昌・家昌の3公を祀る。

        
         天守閣内は奥平家歴史資料館として、奥平家の貴重な資料や家宝が展示されている。 

        
         天守閣からは四方が見渡せる。

        
         中津川に架かる北門橋の先に瀬戸内海が広がる。

        
         中津神社は、1883(明治16)年城内下段の松の御殿跡に建立されたもので、新魚町の
        六所宮、諸町の恵比須社などが合祀されている。
         その他、城内には伊勢神宮より勧請した中津大神宮、黒田氏に謀殺された宇都宮鎮房を
        祀る城井神社や金比羅宮がある。

        
         城址出口にある「独立自尊碑」は、「人に頼ることなく、自らの力で事を行い、自己の
        人格・尊厳を保つこと」という意味だそうで、1904(明治37)年建立された。
         傍には日本の歯科医師免許第1号を取得した小幡英之介の像もある。

        
         鍵廻りを過ごして南部小学校を正面にすると、道路に露出する黒門跡の礎石がみられる。

        
         校内との境に大手門の石垣が一部残る。

        
         小学校は奥平家家老・生田家の跡地で、敷地の北側にあった生田家の門が、西側に移築
        されて小学校の正門となっている。

        
         1871(明治4)年城の石垣を壊して通した道路だそうだ。

        
         木村記念美術館には江戸後期の中津藩御典医だった屋敷門が残る。医師の木村又郎氏が
        集めた中津出身の洋画家中山忠彦、中津にゆかりの深い作家の美術資料などが展示されて
        いる。

        
         慶応義塾2代目塾長を務め、「学問のすすめ」の共著者の一人である小幡篤次郎の遺言
        によって寄贈された出生地と家屋、蔵書をもって、1909(明治42)年に中津図書館が開
        設される。後に小幡記念図書館と改称され、1993(平成5)年に藩校があった地に移転す
        る。
         1780(安永9)年倉成龍渚(くらなりりゅうしょ)が、この地の屋敷を拝領し、家塾を開いた
        ことに始まり、1796(寛政8)年藩校「進脩館(しんしゅうかん)」が設立される。幅広い分
        野で人材を輩出したが、廃藩置県によって閉校となる。

        
         洋学校設立を推進したのは福沢諭吉や小幡篤次郎といった慶應義塾の中津出身者たちで、
        1871(明治4)年に現在の南部小学校の地に開校する。この学校は「中津市学校」と名付
        けられて優秀な人材を輩出したが、西南戦争などの影響で経済状況が悪化し、1883(明
           治16)
年閉校となる。
         新中津市学校は、「広く平等に学びを」との思いを受け継ぎ、旧小幡記念図書館の建物
        を利用した学習交流施設に引き継がれる。

        
         御水道(中津水道)は細川忠興が黒田家の役を引き受け、1620(元和6)年に中津城下に
        給水する上水道工事を行う。中津城下が海辺に近いため水質が悪く飲料水に適さず、山国
        川の大井出堰から送水路(御水道)を堀り、樋を埋めて城内に引水する。
         その後、町中に給水できるよう工事が行われ、1929(昭和4)年新たな上水道ができる
        まで使用された。

        
         村上家は1640(寛永17)年に初代村上宗伯が、城下の諸町に開業して以来、現在まで
        続く医家で、中津藩の御典医を務めた。
         村上医家史料館は、この村上家の医学にかかわるものを中心に数千点に及ぶ資料を収蔵
        ・公開している。

        
         諸町の町並みを歩く。

        
         江戸期には多業種の町人が居住していたので、諸町という町名になったという。

        
         1716(享保元)年創業というむろや(室屋)醤油。

        
         細川忠興は民心安定のため領内各地の社寺整備を行う。この諸町蛭子宮は、1616(元
          和2)
年この地に創建されたそうだが、当初は菊池氏(室屋)一族の氏神とされ、現在は町内
        の氏神として祀られている。(説明板より)

        
         漆喰白塗り込めの平入りの町家。

        
         南部まちなみ交流館は、江戸期には屋号を「宇野屋」といい、造酒屋・米問屋を営んだ
        商家で、中津市が文化財として復元する。

        
         平田眼科医院は、1918(大正7)年諸町に開業したが、院長の死により1953(昭和
          28)
年閉院となる。

        
         平田医院の隣にも漆喰白塗り込めの町家がみられる。

        
         1764(明和元)年自性寺(じしょうじ)12世となった提州(だいしゅう)は、京から日本の文
        人画の大成者である池大雅夫妻を伴い中津にやってきた。池大雅はしばらく自性寺に滞在
        し、絵の制作に励む。1778(安永7)年には境内の一角に書院が建立され、藩主・奥平昌
        高によって大雅堂と名付けられた。
         書院の老朽化が進んだため、現在の展示館が建設されて池大雅の書画が展示されている。

        
         自性寺(臨済宗)は中津藩主・奥平家の菩提寺で、1577(天正5)年藩主奥平信昌が三河
        国設楽郡門前村に「萬松寺」として創建した。その後、奥平氏の中津転封に伴い、171
        7(享保2)年現在地に移され、のち現寺号に改称する。

        
         中津市内には3基の織部灯籠があるとのことだが、これは古田織部と友人関係にあった
        細川忠興が、妻・細川ガラシャの菩提を弔うため長福寺に建立したものだという。

        
         観音堂は境内の敷地内あるが、正面は寺外を向いている。堂内には如意輪観音、三十三
        観音と九人地蔵が安置されている。さらに「河童ケンヒキ太郎像」もあるが、真玉寺の小
        僧や女性に取り憑くなど悪さを働いたので、自性寺の和尚に改心させられたが、その際の
        詫び状が寺に残るという。

        
         内部は奥平家墓所のようだが瓦土塀に囲まれている。

        
         中津城模擬天守と中津川がデザインされたマンホール蓋。
 
        
         大江八幡宮の縁起によると、奈良期の740(天平12)年宇佐宮に寄進された10郷のな
        かに大家郷があり、天平勝宝年間(749-757)10郷に八幡宮が勧請され、大江八幡宮もその
        時に創建されたと伝える。
         境内は幕末から昭和初期にかけて金谷小学校や留心中学校の学校地として使用された。