この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
平田は出雲平野の一角で、東は宍道湖、北は日本海に面する。市街地の中ほどを平田船
川が流れ、近世に雲州木綿の集散地として栄えた商業の町並みが残る。(歩行約2.4㎞)
雲州平田駅は1914(大正3)年一畑電車が出雲今市ー平田間で開業すると終着駅として
開設される。翌年、一畑間が開業すると中間駅となったが、現在の駅舎は1967(昭和4
2)年に建てられた3代目の駅舎である。
一時期、平田市駅に改称されたが、平成の大合併で平田市が消滅すると最初の駅名に改
称された。地元では「バタデン」の愛称で親しまれている鉄道である。
平田本町商店街を直進して平田船川を目指す。(徒歩10分)
木綿街道と名付けられた道は、江戸期には「松江杵築往還」の一部で、この地域におい
て綿の生産が盛んであり、「雲州平田木綿」を取引する市場町として栄えた歴史がある。
木綿街道と呼ばれるようになった時期は明確ではないが、「街道と木綿」をベースに地
域住民によって呼称されたとか。
「宍道湖公園湖游館」と「ゴギ」2匹がデザインされたマンホール蓋。
入口に醤油樽。
江戸期の商家の店構えを残す岡茂一郎商店(醤油製造)は、二階部分の階高が低くなって
いるが、当時の商家特有構造(つし二階)である。二階の階高で江戸期か明治期以降の建物
かがわかる。
切妻屋根妻入りの建物が2棟。
木綿街道交流館は観光案内所として、江戸期の「外科御免屋敷」と称される旧長崎医家
を復元した建物である。
交流館の隣にある本石橋邸は、かっての大地主で、1750(寛延3)年頃に建てた家。妻
入り造りの狭い間口には、両脇に庇を設けて幅を広くしている。二段になった海鼠壁、親
子格子とともに威容を誇っている。
1872(明治5)年「学制」が発布されると、石橋孫八(1847-1915)は自宅に郷校を開設
する。翌年旧郡屋(江戸期の村役人集会所)に平田一番小学が開校されたが、これが島根県
内最初の小学校であった。
旧石橋酒造は隣接する本石橋家と同じ頃に建てられたもので、本石橋家から分家して酒
造業のほか木綿問屋も営んでいた。1752(宝暦2)年に酒造りを始め、酒の銘柄は「世界
の花」であったが、255年の歴史に幕を閉じられた。後に酒蔵の趣を残した宿泊施設に
変わる。
なまこ壁と格子が美しい町家。
加藤醤油店は明治初期の建物で、切妻屋根妻入りが2棟に分かれている。
加藤醤油店のべんがら格子と蔀戸の遺構がある。
新大橋の袂にある小さな祠は、何が祀られているかを見落としたが、商売繁盛のえびす
さんだろうか。右折すると片原町筋に入る。
格子に赤い円形ポストが似合う。(高橋燃料店付近)
持田本店は1877(明治10)年創業の老舗酒蔵で、現在も銘酒「ヤマサン政宗」とい
う銘柄で伝統的な酒造りをされている。二階の格子には、長い2本、短い2本が組み合
わされた出雲格子(親子格子)が用いられている。
持田醤油店は昔ながらの木桶に仕込み、長期間熟成させるという醤油を醸造されている。
片原町は1876(明治9)年の大火後に再生された町でもある。
「出しの小路」は町ができた後、運河と道が付け替えられ、家屋が斜めの形になってい
る。
飯塚酒店と来間屋(くるまや)生姜糖本舗の建物は、町割りが先にできた後に、船川運河が
付き替えられ、川に伴走するように道が付け替えられた。
このため、飯塚酒店の屋根は斜めに切り取られたような形をしているが、来間屋本舗は
壁の造り方を工夫されて斜めの屋根が目立たないようにされている。
飯塚酒店は、昔造り酒屋を営み「蓬莱」という銘柄で親しまれていた。来間屋本舗は創
業300年、日本生姜糖元祖の菓子屋だとか。
片原町の町並み。
宮之町に入ると左手の理容カノウは、旧雲州今市銀行の建物だったとか。
宮之町の町並み。
1887(明治20)年代に建てられた平入切妻塗壁造りの小村邸。2001(平成13)年七
宝模様のなまこ壁、格子、西側の焼き杉板など町並みの雰囲気を保存する形で再生されて
いる。
宇美神社は延喜式神名帳に記されている神社で、戦国末期に平田の町割りを行なった際
に、熊野権現など7社を合祀して現在地に祀られた。