ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

出雲市平田は雲州木綿の集散地として栄えた町 

2022年04月05日 | 島根県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         平田は出雲平野の一角で、東は宍道湖、北は日本海に面する。市街地の中ほどを平田船
        川が流れ、近世に雲州木綿の集散地として栄えた商業の町並みが残る。(歩行約2.4㎞)

        
         雲州平田駅は1914(大正3)年一畑電車が出雲今市ー平田間で開業すると終着駅として
        開設される。翌年、一畑間が開業すると中間駅となったが、現在の駅舎は1967(昭和4
          2)年に建てられた3代目の駅舎である。
         一時期、平田市駅に改称されたが、平成の大合併で平田市が消滅すると最初の駅名に改
        称された。地元では「バタデン」の愛称で親しまれている鉄道である。

        
         平田本町商店街を直進して平田船川を目指す。(徒歩10分)

        
         木綿街道と名付けられた道は、江戸期には「松江杵築往還」の一部で、この地域におい
        て綿の生産が盛んであり、「雲州平田木綿」を取引する市場町として栄えた歴史がある。
         木綿街道と呼ばれるようになった時期は明確ではないが、「街道と木綿」をベースに地
        域住民によって呼称されたとか。

        
         「宍道湖公園湖游館」と「ゴギ」2匹がデザインされたマンホール蓋。

        
         入口に醤油樽。

        
        
         江戸期の商家の店構えを残す岡茂一郎商店(醤油製造)は、二階部分の階高が低くなって
        いるが、当時の商家特有構造(つし二階)である。二階の階高で江戸期か明治期以降の建物
        かがわかる。

        
         切妻屋根妻入りの建物が2棟。
      
        
         木綿街道交流館は観光案内所として、江戸期の「外科御免屋敷」と称される旧長崎医家
        を復元した建物である。

        
         交流館の隣にある本石橋邸は、かっての大地主で、1750(寛延3)年頃に建てた家。妻
        入り造りの狭い間口には、両脇に庇を設けて幅を広くしている。二段になった海鼠壁、親
        子格子とともに威容を誇っている。
        
        
         1872(明治5)年「学制」が発布されると、石橋孫八(1847-1915)は自宅に郷校を開設
        する。翌年旧郡屋(江戸期の村役人集会所)に平田一番小学が開校されたが、これが島根県
        内最初の小学校であった。

        
        
         旧石橋酒造は隣接する本石橋家と同じ頃に建てられたもので、本石橋家から分家して酒
        造業のほか木綿問屋も営んでいた。1752(宝暦2)年に酒造りを始め、酒の銘柄は「世界
        の花」であったが、255年の歴史に幕を閉じられた。後に酒蔵の趣を残した宿泊施設に
        変わる。

        
         なまこ壁と格子が美しい町家。

        
         加藤醤油店は明治初期の建物で、切妻屋根妻入りが2棟に分かれている。

        
         加藤醤油店のべんがら格子と蔀戸の遺構がある。

        
         新大橋の袂にある小さな祠は、何が祀られているかを見落としたが、商売繁盛のえびす
        さんだろうか。右折すると片原町筋に入る。

        
         格子に赤い円形ポストが似合う。(高橋燃料店付近) 

         
          持田本店は1877(明治10)年創業の老舗酒蔵で、現在も銘酒「ヤマサン政宗」とい
         う銘柄で伝統的な酒造りをされている。二階の格子には、長い2本、短い2本が組み合
         わされた出雲格子(親子格子)が用いられている。

         
         持田醤油店は昔ながらの木桶に仕込み、長
期間熟成させるという醤油を醸造されている。
         片原町は1876(明治9)年の大火後に再生された町でもある。 

        
         「出しの小路」は町ができた後、運河と道が付け替えられ、家屋が斜めの形になってい
        る。

        
         飯塚酒店と来間屋(くるまや)生姜糖本舗の建物は、町割りが先にできた後に、船川運河が
        付き替えられ、川に伴走するように道が付け替えられた。
         このため、飯塚酒店の屋根は斜めに切り取られたような形をしているが、来間屋本舗は
        壁の造り方を工夫されて斜めの屋根が目立たないようにされている。
         飯塚酒店は、昔造り酒屋を営み「蓬莱」という銘柄で親しまれていた。来間屋本舗は創
        業300年、日本生姜糖元祖の菓子屋だとか。

             
         片原町の町並み。

        
         宮之町に入ると左手の理容カノウは、旧雲州今市銀行の建物だったとか。

        
         宮之町の町並み。 

        
         1887(明治20)年代に建てられた平入切妻塗壁造りの小村邸。2001(平成13)年七
        宝模様のなまこ壁、格子、西側の焼き杉板など町並みの雰囲気を保存する形で再生されて
        いる。

        
         宇美神社は延喜式神名帳に記されている神社で、戦国末期に平田の町割りを行なった際
        に、熊野権現など7社を合祀して現在地に祀られた。


出雲市の小伊津は3階建ての漁村集落

2022年04月05日 | 島根県

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         小伊津(こいづ)は日本海に面する漁村で、急傾斜地に階段状の集落が発達している。(歩
        行約1.5㎞)

        
         雲州平田駅前から平田生活バス小伊津漁港行き約30分、終点の漁港前で下車する。

        
         バス内では海方向ばかり眺めていたが、バスから降りるとびっくりする光景が広がる。

        
         標高差40mぐらいの谷間に、200戸以上の家が階段状に密集するという漁村集落を
        形成している。

        
         狭い土地を有効利用するため3~4階建てである。

        
         路地歩きをするため斜面状の密集集落に入る。

        
         狭い路地に急斜面という条件のもと、どのようにして建物を建てたのか知りたかったが、
        情報を得ることができず。

              
               左右に細い路地が続く。

        
         この先、階段と迷路になっているため歩くことを残念する。

        
         今では階下を倉庫として利用されているが、海辺の家々は船を格納する所だったという。

        
         小伊津漁港は東に坂浦、西に三浦の分港があり、古くから延縄、一本釣り漁業が盛んで、
        「小伊津のアカアマダイ」としてブランド化されている。
         また、資源保護を目的に、漁協屋内に円形水槽を設置し、中間育成して放流も行われて
        いる。

        
         漁港の整備は1945(昭和20)年代後半から継続的な整備が行われ、小伊津漁港は地元
        漁業主を中心の漁港でもなく、全国的な漁港でもない第2種漁港に指定されている。

        
         集落内には生活物資を扱う店、葬儀ができる寺もある。

        
         県道小伊津港線を上がって行くと視界が開け、漁港の全景が見えてくる。防波堤も新設
        されたようで、海からの災害を防いでいる。

        
         亀甲模様に旧平田市の市章がデザインされたマンホール蓋。

        
         県道山手側にも階段で結ばれた住宅が建てられているが、クルマ社会の中にあって付近
        に駐車場所も見当たらず、どのようにされているのだろうか。

        
         集落を見下ろす位置にある三社神社の屋根は、外削りの男千木(ちぎ)である。祭神は上筒
        之男命、中筒之男命、底筒之男命の三神で、海上安全、大漁満足、家内繁盛などに神徳が
        あるとされる。

        
         三社神社近くに稲荷神社。

        
         一度災害が発生すると防止するすべがなく、幾たびか生々しい災害の試練を経験してき
        た地である。左手の小伊津アパートは、1963(昭和38)年小伊津大火災の跡地に建てら
        れた被災者のためのとのこと。

        
         小さな集落での営みは昔と変わらない漁業が中心で、人とのつながりが残る地も高齢化
        の波が押し寄せて空家も増えているようだ。


出雲市大津町は本陣が残る旧山陰道の町

2022年04月04日 | 島根県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         大津は出雲市街地の東端にあって、斐伊川を渡って西へ延びる旧山陰道筋に町並みが形
        成されている。(歩行約1.9㎞、🚻駅) 

        
         一畑電鉄・大津町駅は、1914(大正3)年出雲今市ー平田間に一畑軽便鉄道が運行開始
        されたと同時に開業する。木造駅舎があったようだが老朽化のためか新駅舎となっている。

        
        
         駅から旧山陰道に合流するまでの道。

        
         真宗大谷派の光明寺は、もと天台宗で、文明年中(1469-1487)荻原村に建立され、7世の
        ときに改宗されたという。

        
         ユニークな販売方法の洋品店。

        
         一直線の町並み。

        
         いぶし瓦を使った切妻平入り厨子2階建ての建物が並ぶ。

        
         山田家住宅は松江藩主が出雲大社に参拝する折の宿所として、御成座敷と雪隠、湯殿を
        増築して本陣とした。

        
         大津町は、1636(寛永13)年現在地に移し替えられたことに始まり,商・工業が盛ん
        な町へ発展した。

        
         妻入り平入り厨子二階建てが多く見られるが、入母屋妻入りの商家も見られる。

        

        

        
         歩いてきた旧街道筋。

        
         伊川土手に鎮座する秋葉神社は、1787(天明7)年遠州秋葉山から勧請した防火の神が
        鎮座する。1777(安永6)年に大火で町通りの7割が焼失するという惨事が起こり、防火
        の神を迎えると大きな火事は起こらなかったという。

        
         土手に上がれば斐伊川。 

        
        
         街道の沿いの裏筋。

        
         和魂(にぎみたま)神社は、八雲池という池に島があり、そこに祀られていた。この地に遷
        座させた時代は不明だが、地区の守護神にしたと伝える。

        
         大津幼稚園付近の町並み。

        
         「月の井」の説明によると、雪の井・花の井とともに三銘水とされ、1846(弘化3)
        松江藩主松平斉貴(なりたけ)によって選定命名されたと伝える。

        
         「月の井」がある西光寺(浄土真宗) 

        
         出雲神話の山岐大蛇(やまたのおろち)と、中央に旧出雲市章がデザインされたマンホール蓋。

        
         「バタデン」の愛称で親しまれている一畑電車。運よく島根県のご当地キャラクターし
        まねっこをラッピングしたご縁列車「しまねっこ号」に乗車する。


出雲大社の門前町 (出雲市大社町)

2022年04月04日 | 島根県

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         大社は島根半島の西端に位置し、北と西は日本海に面する。険しい北山山脈の南は、神
        戸(かんど)川流域に平地が開け、大社湾に臨む西側一帯には砂丘が発達している。(歩行約
        4.1㎞)

        
         JR出雲市駅と出雲市大社町を結ぶ一畑電鉄の出雲大社駅。駅舎は1930(昭和5)年に
        建てられた鉄筋コンクリート平屋建て、半円形の緑色の屋根を持つ駅舎。

        
         内部は白く塗られた壁や高い天井、ステンドグラスを施した造りとなっている。

        
         日本最古級の電車「デハニ50型・52号車」が展示・保管されている。1928(昭和
          3)
年、小境灘(現一畑口)ー北松江(現松江しんじ湖温泉駅)間と、1930(昭和5)年大社線
                開業に併せて一畑電車唯一のオリジナル車両4台が新造された。

        
         木造を基本にした半鋼製車体は、荷物室付き車両で乗降口の扉は手動であった。
         ちなみにデハニとは、電動車の「デ」、客室がイロハに区分され、三等車であったため
        「ハ」。荷物車付きであったため「ニ」という記号が付与された。

        
         宇迦橋から出雲大社正面までの約700mの表参道(神門通り)は、大社参道を延伸する
        形で、1913(大正2)年に開通し、大鳥居と松280本(当時)植栽された。
         クルマ社会の到来とともに歩車共存型道路へと生まれ変わり、駅から車を気にすること
        なく歩ける空間となった。

        
         太平戦争末期、飛行機の代替燃料として全国的に松ヤニ採取が行われたが、神門通りの
        松も対象とされた。しかしながら技術力不足で、松ヤニが代替燃料として使われることは
        なかった。

        
         勢溜(せいだまり)にある第二の鳥居は、木製の鳥居だったが特殊な鋼で建て替えられた。
        勢溜とは、江戸期に芝居小屋があって、参拝者の足を止める様が、勢いをためているよう
        に見えることからきているという。

        
         一般的に日本の神社は、本殿に向って上がって行く形式だが、正門付近が大社町の平野
        部分で、この付近が高台となるため、全国でも珍しい「下り参道」となっている。

        
         祓社(はらえのやしろ)は出雲大社参拝前に、お願いごとをするよりも健康で出雲大社参拝
        に来れたことを感謝し、知らぬ間に犯した心身の汚れを祓い清めることがよしとされてい
        る。

        
         浄(きよめ)の池はバードウォッチングスポットとか。 

        
         素鵞(そが)川に架かる祓橋を渡ると、鉄製の第三鳥居は「松の参道の鳥居」と呼ばれてい
        る。松は1630(寛永7)年頃に松江藩主・堀尾忠氏の夫人が祈願成就のお礼に奉納された
        ものである。現在は松の根を保護するために通行禁止となっているが、もともとは藩主や
        皇族などのみが通行を許されていた。

        
         左手の勅使館は、皇族(主に天皇)の使者である勅使の方の宿泊などに使われるもので、
        1921(大正10)年に建てられた唐破風を備えた御殿風の純和風建物である。

        
         参道右側にはムスビの御神像脇に会所。もとは宝物殿付近にあったようだが、1943
        (昭和18)年に現在地に移転する。会所は神職が神事の際に身を清めたり、藩主などの参拝
        の応接、連歌会など多目的に使用されていた。平成の修理によって、1667(寛文7)年造
        営時の姿に復原された。(国指定重要文化財)

        
         境内との境にする能野(よしの)川。

        
         かっては出雲大社に奉仕する神職の屋敷が立ち並んでいた社家(しゃけ)通り。

        
         北島国造館(きたじまこくぞうかん)の大門は、1859(安政6)年松江藩主松平定安が武運長
        久・子孫繁栄・国土安全などを祈念して奉納したものである。大注連縄は長さ55m、中
        央の太さは3mあるという。

        
         南北朝期の1344年、国造家のお家騒動に端を発し、千家(せんげ)国造家と北島国造家
        に分かれて、江戸末期まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担してきた。
         明治期に入ると千家氏は出雲大社教、北島氏は出雲教と、それぞれに宗教法人を主宰し
        て分かれ、出雲大社の宮司を千家が担ったという。(出雲教の神殿)

        
         能野(よしの)川上流から亀山の巌を落ち、心字池に注ぎ込む亀の尾の滝。手前の天神社は
        大国主命と力を合わせ、国造りをしたとされる少名昆古那命(すくなひこなのかみ)を祀り、医
        療・くすり・酒造・温泉・農業の神として知られている。

        
         四脚門は1667(寛文7)年、出雲大社の造替遷宮の際に、本宮の後方にあった北島国造
        家の屋敷と共に移築された。門を潜ると、古式に則って乾(いぬい/北西)の方角に祀られてい
        る御三社がある。 

        
         出雲大社の拝殿は、1953(昭和28)年不慮の火災により焼失したため、6年後の19
        59(昭和34)年総檜造りで再建された。正面に立つと拝殿が少し左にずれているが、本殿
        の屋根を拝するように配慮されているとか。

        
         本殿は大社造りと呼ばれるもので、現在の本殿は1744(延亨元)年に建てられたもので、
        60年毎に檜皮葺きの屋根を葺き替えて遷宮が行われる。
         参拝する門が八足門で、正月3ヶ日に限り、この門が開かれ、その先の楼門前で参拝で
        きる。

        
         八足門の右にある観察楼は、楼門と同じく1667(寛文7)年に建てられたもので、途中
        から二階建てとなっており、2階部分に畳が敷かれ、朝廷などの要人が訪れた際に南側の
        境内を観ることができるようになっているとか。

        
         十九社は旧暦の10月の神在月(全国的には神無月)に、全国から八百万(やおよろず)の神
        々が集まり、7日間の神議り(かむはかり)の間、この社に宿泊されるため、この期間はすべ
        ての扉が開かれる。東十九社は出雲大社より東地域の神社(鹿島神宮など)、西の十九社は
        出雲大社より西地域の神社(厳島神社など)が滞在する。
         ちなみに十九社とは、「1」は物事の始まりで、「9」は物事の終わりを示す数字を結
        合したものとされる。  

        
         釜社(かまのやしろ)の祭神は食物を守護する神とされ、11月23日の夜、拝殿で執り行
        われる「古伝新嘗(しんじょう)祭」では、この社より御釜を拝殿まで移動させて御釜神事が
        行われる。

        
         1667(寛文7)年の遷宮に際して新造された文庫(図書館)は、寄棟造りで中央が土蔵造
        りの架蔵部屋で、その左右が畳敷きの閲覧部屋になっているそうだ。

        
         本殿の真後ろに建つ「素鵞社(そがのやしろ)」は、大国主神の父神である素戔嗚尊が祀ら
        れている。
         社では砂がいただけるそうだが、砂をいただくための手順があるそうで、出雲大社から
        西にある稲佐の浜の砂を持参し、参拝後に砂を社の軒下にある木箱に入れる。この手順を
        踏まないとご利益のある砂はいただけないそうだ。

        
         彰古館は1914(大正3)年、宝物や歴史的遺品などを展示する施設として建てられた。
        入母屋造の二階建てで、正面中央に切妻造りの玄関を設け、二階部には高欄を設けるなど
        社寺建築の要素が取り入れられている。

        
         本殿などの屋根に「千木(ちぎ)」と、中央に棒状の「鰹木」と呼ばれるパーツがある。
        千木の先端が地面と水平になっていれば「内削ぎ」で、社殿に祀られているのは女神とい
        われ、地面に垂直になっているのが「外削ぎ」で男神が祀られているという。
         鰹木は形が鰹節に似ていることから、この名があるようだが、茅葺き屋根や檜皮葺き時
        代、屋根を抑えるための重りとされる。

        
         出雲大社宮司の祖先を祀る氏社と西十九社。

        
         もとは千家国造家の大広間と使用され、「風調館」呼ばれていたが、明治に出雲大社教
        が設立されると、神殿としても使用された。
         現在の建物は1981(昭和56)年に造営され、神楽殿として祭典、祈願、結婚式などが
        執り行われている。

        
         国造家の住まいと潔斎場を合わせ持った出雲千家国造館。

        
         出雲阿国の道を220mほど行った右手に「連歌庵」がある。出雲阿国(1572-没年不明)
        は、出雲大社の巫女であったが、戦国時代後の混沌とした社会で、参拝者も少なく修繕費
        もままならない状況にあった。文禄年間(1592-1596)に出雲大社勧進のため、諸国を巡回し
        たところ評判になったという。
         かぶき踊りを創始し、この踊りが様々な変遷を経て歌舞伎になったといわれる。晩年は
        大社に戻って尼となり、連歌を楽しんで余生を過ごしたといわれ、そのため、この草庵は
        阿国寺“連歌庵”と呼ばれるようになる。 

        
         庵はもともと生まれた中村町にあったが、大火で焼失してしまい、後世になって養命寺
        の下に再建されたが、その後、この地に移築された。

        
        
         阿国の没年は諸説あってはっきりしないし、京都大徳寺の三玄院にも同様な墓がある。

        
         信号交差点まで戻ってお宮通りに入る。

        
         大社町時代のマンホール蓋で、日御碕灯台と経島(ふみしま)のウミネコがデザインされて
        いる。

        
        
         1889(明治22)年の町村制施行により、杵築東村と南村の区域をもって「杵築町」と
        なる。1925(大正14)年杵築町と杵築村が合併して「大社町」となるが、町名は出雲大
        社の鳥居前であることによる。現在は出雲市大社町で、大社町の呼び名が「たいしゃまち」
        から「たいしゃちょう」となる。 

        
         お宮通りの町並み。
    
        
         出雲大社は杵築大社ともいい、伊勢神宮と並び称される古社である。祭神は大国主神で
        「古事記」「日本書記」によると、高天原の天照大神は国譲りの代償として、大国主命に
        対し壮大な宮殿を与えた。これが出雲大社の始まりという。(神迎えの道)

        
         越峠荒神社の創建年代は不詳とされ、三宝荒神(生活の守護神)が祀られている。

        
         歯科医院の看板がある建物。

        
         神迎の道の町並み。 

        
         1877(明治10)年出雲大社に訪れる参拝客のために開いたという竹野屋旅館。神門通
        りに唐破風の玄関を持つ木造旅館を眺めて駅に戻る。