ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

雲南市菅谷はたたら製鉄の高殿がある地

2022年04月07日 | 島根県

         
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         菅谷(すがや)は中国山地の奥深くにある集落で、川が谷間の集落を結うように流れている。
        (歩行約1.1㎞)

        
         吉田の中心地より約3.5㎞の山間に、かってはたたら製鉄が行われ、技術者や労働者な
        どが暮らした菅谷集落がある。

        
         菅谷地区のシンボルである「菅谷高殿」と御神木のカツラの木。(炉の土取り場より)

        
        
         駐車地から川に沿うとオオサンショウウオ。1年のほとんどを渓流の石の隙間や落葉の
        下で暮らすため、目にするチャンスに恵まれない。ここでも頭を少し出す程度で見つけ出
        すことが難しい生き物である。

        
         すべて人力によって行われていた「たたら製鉄」は、1906(明治39)年に水車が導入
        されて、たたら鈩への送風と、製鉄作業で製造された鉧(けら)という鉄塊を分割する動力と
        して利用された。

                
         カツラの木は、たたら製鉄の神様である金屋子神(かなやごかみ)が、白鷺に乗って降臨さ
        れたと伝わる木。4月初旬に芽吹き、木全体を真っ赤に染め、中旬には黄金色、下旬には
        鮮やかな緑色に染まるという。

        
         菅谷川上流に向かって長屋形式などの住まいが30軒ほど並んでいたという。 

        
         たたら製鉄の生産場所や従事していた居住場所を総称して「山内(さんない)」という。改
        築が繰り返されたようだが、山内が栄えた頃を偲ぶ町並みが今に伝える。 

        
         たかどの橋の先が生産拠点で、道の左側に村下屋敷(現在改修中)、三番屋敷があり、右
        手の屋根の上に小屋根を載せる建物が大銅場(鉧を割る作業場)、銑・古鉄蔵、木炭・縄小
        屋、水車などがあった。 

        
         元小屋に付随する米蔵。

        
        
         元小屋は山内を差配する事務所で、砂鉄・木炭などの原料の受払い、製品の出荷などを
        取り仕切った。
         1833(天保4)年に焼失したといわれ、その直後に建てられたものと思われる。内部は
        四畳半から十畳の部屋がいくつかあって、風呂場、台所なども完備された居住空間となっ
        ており、2~4人いた鑪場手代(番頭)のうち、一番番頭が居住していた。

        
         元小屋には内倉と呼ばれる作業場(銅造り場)で、4通りに選別され、十匁(もんめ・37.
          5g)
ぐらいより大きいものは箱詰め、その他は薦(こも)包みされて発送された。

        
         菅谷たたらは、1751(宝暦元)年から1921(大正10)年まで製鉄されたが、豊富な森
        林資源(炭)、原料である砂鉄、炉に使用される最良の土という条件を備えた最適の地であ
        った。 

        
         1751(宝暦元)年、松江藩の鉄師を担った田部(たなべ)家の一大生産拠点として高殿(た
          かどの)
が建造された。現存するのは1850(嘉永3)年の火災後、再建された日本に残る唯
        一のもので、入母屋造り、妻入り、杮(こけら)葺きである。
         この高殿に入る道の中で、村下(むらげ)だけが通ることを許された「村下坂」というもの
        がある。操業に入る日の朝は川でみそぎをして全身を清め、身にまとうもの全てを新しく
        して、この坂を通って高殿に入ったという。

        
         内部に入ると、炉の四隅に配された押立柱を軸にして、その奥に砂鉄の置場(小鉄町)と
        木炭置場(炭町)がある。

        
         左手には村下が待機する座。いつどれだけ木炭及び砂鉄を入れるかの指揮をとるのが村
        下。これまで蓄積してきた勘を頼りに炉内の状況など見極めつつ、投入する砂鉄の量や位
        置を加減していくのである。この技術は一子相伝で、口伝えで子孫にだけ伝えられた。

        
         右手には村下に次ぐ炭坂の座。

        
         炉は湿気を嫌うため地下構造から手を加える必要があり、深さ3~4m掘り下げて砕石、
        砂利、真砂土など敷き詰める。さらに炉の下には石を積み上げた大舟、地面を乾燥させる
        ための小舟が設けられ、水蒸気爆発を防ぐための工夫がなされている。

        
         この地下構造の上に、炉と送風装置である吹子(ふいご)が築かれている。作業は炉の中を
        燃焼させ、砂鉄を投入して送風を続け、指揮をとる村下のもと、一代(ひとよ)といわれる3
        日3晩製鉄作業を行う。4日目の朝、ようやく炉を壊して鉧(けら)を引き出すと高殿で一代
        は終了する。この作業を月に6回、約170年も続けたという。

        
         菅谷川に沿うと以前は木橋があったようだが、菅谷たたら製鉄用の主原料である砂鉄採
        取場所は、栃山という山の斜面で行われた。そこで鉄穴(かんな)流しという比重選鉱法で、
        土砂から砂鉄を精洗するという作業が行われた。

        
         山内の入口に鉄のつくり方を教えてくれたと伝える「金屋子神」が祀られている。村下
        がたたら製鉄の作業に入る前、みそぎを済ませた後、作業の安全と成功を祈願して高殿に
        入ったという。         


雲南市吉田町は田部家を中心とした鉱山町 

2022年04月07日 | 島根県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         吉田は全域にわたってかなり高い山々が起伏しており、中央部にはこれらの山稜を縫っ
        て吉田川が蛇行しつつ西流している。中心部の町並みは、この川沿いに開けた所にあるが、
        国道、鉄道は域内を通過せず、掛合で国道51号と分かれ、吉田川沿いに6㎞も遡らなけ
        ればならない。総面積の約93%が山林という地域でもある。
         地名の由来は、古代に川ヨシが群生していたことから、ヨシノタといわれ、のちに吉田
        となったといわれる。(歩行約1.3㎞)

        
         吉田へは山陰本線から木次線を利用してJR南大東駅で下車、そこから雲南市民バスに
        乗り換えなくてはならないが、接続が悪くて相当な時間を要するのでレンタカーで訪れる。 
        (稲わら工房近くに駐車、🚻あり
) 

        
         吉田川右岸に集落が集中する。

        
         吉田の町並みは田部(たなべ)家の土蔵群から始まる。 

        
         職人長屋のような建物。

        
         白壁になまこ壁の蔵が18も立ち並び、米蔵、鉄蔵、道具蔵などと表示されているが、
        中には嘉永蔵など時代の名が付くものもある。 

        
         田部氏は室町期の1460(寛正元)年、一族集まって鈩製鉄を始めたという。戦国期には
        旧主である備後山内城主・周藤氏のもとに復帰し、各地を転戦する。周藤氏は毛利氏の臣
        として参加したが、1581(天正9)年総領の宗左衛門の戦死により、その子原右衛門は武
        士を捨てて吉田の故地に帰任し、鉄師業を専業とした。
         その後、1923(大正12)年廃業するまで連綿と製鉄業を伝え、巨富を築き上げてきた。      
        (階段から先は私有地)

        
         松江藩は、1727(享保12)年「出雲国鉄方方式」を定め、藩内の有力鉄師9人にたた
        ら株を与え、たたら場を制限した。鉄師は春先に先納銀を納め、秋には利子を足した額の
        米を受け取るということで、藩の財政は潤沢となった。
         一方、鉄師たちは藩の保護のもと、山林所有と森林の伐採、伐採後の開墾も許されるな
        ど財力を持つようになる。

         
         製鉄業が最も盛んだった江戸末期から明治期には、年間290tの生産量を誇っていた
        が、洋式の製鉄技術が入ってくると、たたら製鉄は徐々に衰退に向かい、菅谷たたらでは、
        1921(大正10)年に鈩の火が消える。
         田部家は農地400ha(小作人1,000人)、山林24,000haという膨大な土地所有
        者で日本一の山林地主でもあった。

        
         緩やかな上り坂は石畳み。

        
         吉田町商工会館は、吉田信用購買販売利用組合の事務所として、昭和初期に建てられた
        擬洋風建物である。

        

        
         鉄で作られた出雲阿国の像。

        
        
         1889(明治22)年町村制の施行により、吉田町、吉田村、民谷村の区域をもって吉田
        村を形成するが、平成の大合併で雲南市吉田町となる。

        
        
         鉄の歴史博物館は、1969(昭和44)年「最後のたたら師による操業」の際に、高齢の
        村下(むらげ)たちの健康管理を担った常松医師が、医院を当時の吉田村に寄贈したものであ
        る。

        
         博物館入口に鉄穴ヶ谷鈩原から出土した「鉄塊」がある。

        
         たたら製鉄や鍛冶技術に関連する道具などが展示されているが、館内で上映される「和
        銅風土記」(上映時間30分)を見ると、たたら製鉄の作業手順が理解できる。

        
         寺町のひとつである長寿寺(曹洞宗)の開基は不明。

        
         西福寺(真宗)の開基は1606(慶長11)年。

        
         日本で唯一残るたたら製鉄の「高殿」と、旧吉田村の村花であったツツジがデザインさ
        れたマンホール蓋。

        
         坂根屋小路から吉田川沿いを下る。