ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

出雲市の鵜峠はかつて鉱山で栄えた小さな漁村集落

2022年04月05日 | 島根県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         鵜峠(うど)は島根半島の西端部に位置し、東部を旧平田市と接し、北部は日本海に面する。
        細長い地形をなし、ほとんどが山あいの地である。(歩行約1.6㎞) 

        

         路線バスで鷺浦を散策して鵜峠に移動も可能であるが、最終便が事前予約制のため不確
        定要素あって、レンタカーを選択する。

         ちなみに路線バスの場合、電鉄大社駅前バス停(11:15)猪目奥組行きバス35分、鵜峠バ
        ス停下車。復路は14時32分に乗車すれば日帰りができるが、昼食場所がないので事前
        に準備する必要がある。

        
         山と海が迫る狭隘な地に駐車地が見つからず、工事車両用の待機場所の一部をお借りし
        て散歩する。

        
         右手のJFしまね大社支所の傍が鵜峠バス停。

        
         鵜峠漁港は第1種漁港で、出雲風土記には「宇太保浜」とみえ、当港は鷺浦港とともに
        石膏の搬出港として一時期賑わった歴史を持つが、現在は漁業者が大半を占める静かな漁
        港である。

        
         バス路線から山手への道に入る。(右手は屋号の松下屋) 

        
         鵜峠が活気を帯びるのは、1868(慶応4)年に鉱山が開発され、1877(明治10)年代
        が鉱山の最盛期で、3,000人の従業員がいたという。
         その後、硫化鉄鉱を産出し、1897(明治30)年代にはセメント用石膏が産出され、大
        正・昭和初期には8社が鉱山経営に携わっていたが、現在は鉱山も廃坑となり、静かな漁
        村集落となっている。

        
         石州瓦に白壁が映える人家。

        
        
         入江に面した細長い谷間に入ると、格子や屋根に煙り出しを持つ家などが散見できる。

        
         谷間の路地はここで行き止まり。 

        
         犬矢来ではないが柵を設けた綿屋さん。

        
         格子を張り巡らせた人家が多い。(浜岡屋さん)

        
         迷路のような路地裏歩き。

        
         県道23号線の仏照寺前。

        
         県道筋の町並み。 

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、鵜峠浦と鷺浦が合併して「鵜鷺(うさぎ)村」い
        う動物名の村名になるが、1951(昭和26)年大社町に合併し、現在は出雲市である。 

        
         仏照寺は浄土真宗の道場(説教所)として、1914(大正3)年に建てられたもので、地区
        の寄り合いなどに使用され、地域にとって貴重な建物である。

        
         西方(さいほう)寺は浄土宗だが無住。本尊の十一年如意輪観世音菩薩は、33年毎に開扉
        される秘仏である。

        
         大宮神社の創建は明応年間(1492-1501)とされ、日本海航路の安全と豊漁を願う人々に
        崇敬されてきたという。 

        
         大宮神社の背後に大歳神社が祀られている。社伝によれば天応年間(781-782)の創建とい
        われ、もとは越目(こいのめ)にあったのが移転してきたという。

        
         昔ながらの風景、港町の雰囲気が残る地は、ゆっくりと時が流れている。

        
         重宝された土蔵も時代から取り残され、徐々に傷を負いながら消え去る日はそう遠くで
        はなさそうだ。

        
         お話した女性以外に姿を拝見することはできなかったが、のんびりできる集落だった。


出雲市の鷺浦は帆船時代の家並みが残る集落

2022年04月05日 | 島根県

         
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         鷺浦(さぎうら)は北を日本海と面し、域内を八千代川が流れる。沿岸一帯はリアス式海岸
        で、ほとんどが山間の地で陸の孤島といわれていた。(歩行約2㎞、🚻バス停にあり
) 

        
         鷺浦へは路線バスがあるものの1日4便のため、バス利用した場合には当地のみとなる
        ため、時間的ロスを考慮してレンタカー利用とする。大社町から山越えすると八千代川沿
        いに数台駐車できるスペースがある。
         ちなみにバス利用した場合、電鉄・大社駅前(11;14)から猪目奥組行き路線バスで約30
        分、鷺浦バス停で下車する。復路は14時37分に乗車すれば日帰り散策は可能であるが、
        食事場所がない。

        
        
         バス停傍の伊奈西波岐(いなせはぎ)神社は、出雲風土記以前に創建されたと推考されてい
        る。出雲大社の摂社で本殿は大社造りで建てられており、祭神は稲脊脛之命で、大国主命
        が国譲りの時に事代主命へお使い役をした神とされ、疱瘡の守護神とされる。

        
         F宅は無住のようだ。

        
         屋号であろう釜屋さんの二階になまこ壁。

        
         「NIPPONIA 出雲鷺浦 漁師町」の暖簾がかかる古民家。現在は宿泊施設として再利用さ
        れている。

        
         石州瓦で葺かれた屋根、表側には格子が設けられた建物が並ぶ。

        
         各戸には屋号と思われる表札が掲げてある。(加田屋さん)
 
        
         布野屋さんの所で道は鍵の手となっている。

        
         海への道が幾重にも設けてある。

        
        
         JAしまね鷺浦店は集落唯一の店で、店前では野菜市が開かれ、お茶も用意されてコミ
        ュニケーションの場にもなっているようだ。

        
         塩飽(しわく)屋は、江戸期に瀬戸内海にある塩飽島の塩で財をなしたといわれ、屋号の由
        縁にもなった。屋根には台所の煙や水蒸気を抜いていた煙り出しの小屋根が付いている。

        
         塩飽屋から山手側の路地に入る。

        
         路地の突き当りに向拍寺の地蔵尊が残されているが、多伎の猟師が時化で流され、方向
        が分からない時に、お地蔵さんの灯明で無事に入港できたという逸話もある。

        
         石州瓦の赤褐色が引き立つ鷺浦の町並み。

        
         枡本屋には軒先を物置、物干しとして利用した場所があるが、この地方では「もだり」
        と呼んでいる。

        
         路地を眺めながら歩くのも鷺浦の楽しみ方の1つでもある。

        
         浜古屋の塗り格子の虫籠窓。

        
        
         塩田屋の軒下には、鏝絵の本場である仁摩の職人が作った鶴の鏝絵ある。石見地方では
        多く見られるが、出雲地方では珍しいそうだ。大正初期頃の製作とみられ、戦前は丹頂の
        赤色が残っていたという。

        
        
         高台からは赤い屋根、山の緑と海の青が映える。

        
         鷺浦隧道は、1935(昭和10)年地元の人たちが岩盤を打ち砕いて作ったものだそうで、
        トンネルから町筋が額縁に入ったように見える。

        
         前庭のある家。

          
         塩田屋の蔵。

        
         海風を受けながら海岸通りをてくてく歩き。現在の漁港は第1種漁港で、帆船時代は風
        待ち港として繁盛し、明治期には定期船の寄港地であった。山陰本線の開通により廃止さ
        れて、昔の面影は残されていない。

        
         海に面する家には「間立て」と呼ばれる竹で作られた風除けが取り付けてある。海から
        の潮風など厳しい自然環境の地を垣間見ることができる設備である。

        
         鷺浦港の入口に浮かぶ柏島は、冬の荒波を塞ぐためにできたような島である。島には柏
        島神社が祀られているそうだ。

        
         鷺浦集落は八千代川で二分されている。鷺銅山は大永年間(1521-1528)に開発され、江戸
        期を通じて稼働されていたが、いつしか休山となったという。

        
         なまこ壁と格子が見られる大坪屋さん。

        
         文珠院(曹洞宗)の本尊は、文珠菩薩でなく釈迦如来という。創建は文禄年間(1592-1596)
        とされるが現在は無住のようだ。

         
         文珠院山門両側に安置されているのが粗流玄武岩に線刻された仁王像。石の表面に水滴
        ができる様が汗をかいているように見えることから、汗かき仁王と呼ばれている。仁王さ
        んが汗をかかれると雨か火事になるといわれ、特に火の元は注意したとのこと。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、鵜峠村と鷺浦が合併して鵜鷺(うさぎ)村となる。
        1951(昭和26)年大社町に合併して大社町となるが、平成の大合併で出雲市となる。
                (宿のような造りの備前屋さん)

        
         小坂屋さん付近の家並み。

        
         椿舎搾油工房近くにある人家の格子も美しい。

        
         駐車地に戻って鵜峠へ移動する。


出雲市平田は雲州木綿の集散地として栄えた町 

2022年04月05日 | 島根県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         平田は出雲平野の一角で、東は宍道湖、北は日本海に面する。市街地の中ほどを平田船
        川が流れ、近世に雲州木綿の集散地として栄えた商業の町並みが残る。(歩行約2.4㎞)

        
         雲州平田駅は1914(大正3)年一畑電車が出雲今市ー平田間で開業すると終着駅として
        開設される。翌年、一畑間が開業すると中間駅となったが、現在の駅舎は1967(昭和4
          2)年に建てられた3代目の駅舎である。
         一時期、平田市駅に改称されたが、平成の大合併で平田市が消滅すると最初の駅名に改
        称された。地元では「バタデン」の愛称で親しまれている鉄道である。

        
         平田本町商店街を直進して平田船川を目指す。(徒歩10分)

        
         木綿街道と名付けられた道は、江戸期には「松江杵築往還」の一部で、この地域におい
        て綿の生産が盛んであり、「雲州平田木綿」を取引する市場町として栄えた歴史がある。
         木綿街道と呼ばれるようになった時期は明確ではないが、「街道と木綿」をベースに地
        域住民によって呼称されたとか。

        
         「宍道湖公園湖游館」と「ゴギ」2匹がデザインされたマンホール蓋。

        
         入口に醤油樽。

        
        
         江戸期の商家の店構えを残す岡茂一郎商店(醤油製造)は、二階部分の階高が低くなって
        いるが、当時の商家特有構造(つし二階)である。二階の階高で江戸期か明治期以降の建物
        かがわかる。

        
         切妻屋根妻入りの建物が2棟。
      
        
         木綿街道交流館は観光案内所として、江戸期の「外科御免屋敷」と称される旧長崎医家
        を復元した建物である。

        
         交流館の隣にある本石橋邸は、かっての大地主で、1750(寛延3)年頃に建てた家。妻
        入り造りの狭い間口には、両脇に庇を設けて幅を広くしている。二段になった海鼠壁、親
        子格子とともに威容を誇っている。
        
        
         1872(明治5)年「学制」が発布されると、石橋孫八(1847-1915)は自宅に郷校を開設
        する。翌年旧郡屋(江戸期の村役人集会所)に平田一番小学が開校されたが、これが島根県
        内最初の小学校であった。

        
        
         旧石橋酒造は隣接する本石橋家と同じ頃に建てられたもので、本石橋家から分家して酒
        造業のほか木綿問屋も営んでいた。1752(宝暦2)年に酒造りを始め、酒の銘柄は「世界
        の花」であったが、255年の歴史に幕を閉じられた。後に酒蔵の趣を残した宿泊施設に
        変わる。

        
         なまこ壁と格子が美しい町家。

        
         加藤醤油店は明治初期の建物で、切妻屋根妻入りが2棟に分かれている。

        
         加藤醤油店のべんがら格子と蔀戸の遺構がある。

        
         新大橋の袂にある小さな祠は、何が祀られているかを見落としたが、商売繁盛のえびす
        さんだろうか。右折すると片原町筋に入る。

        
         格子に赤い円形ポストが似合う。(高橋燃料店付近) 

         
          持田本店は1877(明治10)年創業の老舗酒蔵で、現在も銘酒「ヤマサン政宗」とい
         う銘柄で伝統的な酒造りをされている。二階の格子には、長い2本、短い2本が組み合
         わされた出雲格子(親子格子)が用いられている。

         
         持田醤油店は昔ながらの木桶に仕込み、長
期間熟成させるという醤油を醸造されている。
         片原町は1876(明治9)年の大火後に再生された町でもある。 

        
         「出しの小路」は町ができた後、運河と道が付け替えられ、家屋が斜めの形になってい
        る。

        
         飯塚酒店と来間屋(くるまや)生姜糖本舗の建物は、町割りが先にできた後に、船川運河が
        付き替えられ、川に伴走するように道が付け替えられた。
         このため、飯塚酒店の屋根は斜めに切り取られたような形をしているが、来間屋本舗は
        壁の造り方を工夫されて斜めの屋根が目立たないようにされている。
         飯塚酒店は、昔造り酒屋を営み「蓬莱」という銘柄で親しまれていた。来間屋本舗は創
        業300年、日本生姜糖元祖の菓子屋だとか。

             
         片原町の町並み。

        
         宮之町に入ると左手の理容カノウは、旧雲州今市銀行の建物だったとか。

        
         宮之町の町並み。 

        
         1887(明治20)年代に建てられた平入切妻塗壁造りの小村邸。2001(平成13)年七
        宝模様のなまこ壁、格子、西側の焼き杉板など町並みの雰囲気を保存する形で再生されて
        いる。

        
         宇美神社は延喜式神名帳に記されている神社で、戦国末期に平田の町割りを行なった際
        に、熊野権現など7社を合祀して現在地に祀られた。


出雲市の小伊津は3階建ての漁村集落

2022年04月05日 | 島根県

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         小伊津(こいづ)は日本海に面する漁村で、急傾斜地に階段状の集落が発達している。(歩
        行約1.5㎞)

        
         雲州平田駅前から平田生活バス小伊津漁港行き約30分、終点の漁港前で下車する。

        
         バス内では海方向ばかり眺めていたが、バスから降りるとびっくりする光景が広がる。

        
         標高差40mぐらいの谷間に、200戸以上の家が階段状に密集するという漁村集落を
        形成している。

        
         狭い土地を有効利用するため3~4階建てである。

        
         路地歩きをするため斜面状の密集集落に入る。

        
         狭い路地に急斜面という条件のもと、どのようにして建物を建てたのか知りたかったが、
        情報を得ることができず。

              
               左右に細い路地が続く。

        
         この先、階段と迷路になっているため歩くことを残念する。

        
         今では階下を倉庫として利用されているが、海辺の家々は船を格納する所だったという。

        
         小伊津漁港は東に坂浦、西に三浦の分港があり、古くから延縄、一本釣り漁業が盛んで、
        「小伊津のアカアマダイ」としてブランド化されている。
         また、資源保護を目的に、漁協屋内に円形水槽を設置し、中間育成して放流も行われて
        いる。

        
         漁港の整備は1945(昭和20)年代後半から継続的な整備が行われ、小伊津漁港は地元
        漁業主を中心の漁港でもなく、全国的な漁港でもない第2種漁港に指定されている。

        
         集落内には生活物資を扱う店、葬儀ができる寺もある。

        
         県道小伊津港線を上がって行くと視界が開け、漁港の全景が見えてくる。防波堤も新設
        されたようで、海からの災害を防いでいる。

        
         亀甲模様に旧平田市の市章がデザインされたマンホール蓋。

        
         県道山手側にも階段で結ばれた住宅が建てられているが、クルマ社会の中にあって付近
        に駐車場所も見当たらず、どのようにされているのだろうか。

        
         集落を見下ろす位置にある三社神社の屋根は、外削りの男千木(ちぎ)である。祭神は上筒
        之男命、中筒之男命、底筒之男命の三神で、海上安全、大漁満足、家内繁盛などに神徳が
        あるとされる。

        
         三社神社近くに稲荷神社。

        
         一度災害が発生すると防止するすべがなく、幾たびか生々しい災害の試練を経験してき
        た地である。左手の小伊津アパートは、1963(昭和38)年小伊津大火災の跡地に建てら
        れた被災者のためのとのこと。

        
         小さな集落での営みは昔と変わらない漁業が中心で、人とのつながりが残る地も高齢化
        の波が押し寄せて空家も増えているようだ。