ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

松江は国宝の天守閣が残る小京都

2022年04月06日 | 島根県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         松江は島根県東部に位置し、西に宍道湖と東の中海を抱くように南北に広がり、西北の
        一部は日本海に面している。市街地は宍道湖と中海を結ぶ大橋川の南北に開けていて、大
        正期以前は水路が交通の中心で水の都として名高い。
         地名の由来は、中国浙江省の西湖に臨む風光明媚な松江府に似ていることによるという。
        (歩行約4.4㎞)

        
         JR松江駅7番のりばからぐるっと松江レイクラインで約20分、小泉八雲旧居前バス
        停で下車する。

        
         小泉八雲旧居に隣接して建てられた純和風様式の記念館。松江を世界に紹介した小泉八
        雲(ラフカディオ・ハーン)の遺品、著書、関係図書、妻セツの遺品などが収蔵されている。 

        
         小泉八雲は1890(明治23)年8月から1年3ヶ月の間、松江尋常中学校で英語を教え、
        ヘルン先生と親しまれる。
この間に小泉セツと結婚した後、かねてから念願であった「武
        家屋敷」を借りて、熊本に転任するまでの5ヶ月間、この家で生活した。
        
        
        
         塩見縄手は松江城の北堀に沿った約500mの通りで、かっては200~500石程度
        の中級武士の屋敷が並んでいた。「縄手」とは縄のように一筋に伸びた道のことをいい、
        松江藩初代藩主・松平直政の家臣で、異例の栄進をした塩見小兵衛の屋敷があったことか
        ら名付けられた。

        
         堀沿いには老松が立ち並び、城下町の風情が味わえる。

        
         塩見縄手の由来となった塩見小兵衛邸も住んでいたとされる屋敷で、有料だが「武家屋
        敷」として一般に公開されている。

        
         1733(享保18)年の大火で焼失した後に再建されたもので、主屋はおよそ67坪(約
        221㎡)で、表側に式台玄関から座敷に至る部分と、裏側に私生活の部分があるが、造
        りも材料も区別された武家の公私の区別を見ることができる。

        
         当主が来客を迎える表の間で、書院や柾目の長押、釘隠しなど格式のある造りとなって
        いる。

        
         長屋門は武家屋敷の特徴の1つで、門番や中間(ちゅうげん)の住居として使われ、上級・
        中級武士に仕えていた。

        
         今も白壁と腰板壁の長屋門が連なり、昔ながらの家並みが続いている。

        
         武家屋敷の長屋門を「MATSUE CITY」の文字で囲んだマンホール蓋。 

        
         北の高台に建つ明々庵は、塩見縄手を左折して緩やかな坂道を上がる。

        
         明々庵への途中に松江城が見える場所がある。

        
         明々庵は、1779(安永8)年7代藩主・松平治郷(はるさと)が指図して建てた茶室で、も
        とは殿町の家老・有沢邸内にあった。その後、転々と場所を移したが、1966(昭和41)
        年現在地に移築された。治郷は江戸期の代表的な茶人で、号の「不昧(ふまい)」として知ら
        れる。

        
         松平不昧公好みが反映され、2畳台目(だいめ)と4畳半の席が組み合わされ、下座床、炉
        は向切りである。 

        
         北堀町から北田川へ向かう筋。

        
         普門院は遊覧船が行き交う松江城の堀川沿いにある。

        
         普門院(天台宗)は、松江藩の初代藩主・堀尾吉晴が松江城を築いた際、祈願所として普
        門院の前身である願応寺を開創する。
         のちに寺町の大火により類焼してしまうが、1689(元禄2)年松平綱近が松江城の鬼門
        にあたる現在地に建立する。

        
         観月庵を見学することを目的に普門院を訪れたが、和尚不在のため拝観できず。180
        1(享和元)年に建てられた細川三斎流の茶室。松平治郷(不昧)も度々訪れたり、小泉八雲も
        お茶の手ほどきを受けた茶室である。(境内からは屋根のみ)

        
         堀川沿いに松江ホーランエンヤ伝承館。ホーランエンヤは、正式には「城山稲荷神社の
        式年神幸祭」で、大阪の天神祭、宮島・厳島神社の管弦祭と共に日本三大船神事のひとつ
        である。10年毎に行われる船神事で、御神霊を約10㎞離れた阿太加夜神社まで船で運
        び、7日間にわたり出雲国内の安定と五穀豊穣を祈願する祭り。
         1808(文化5)年の嵐で沈没寸前の神輿船を、大橋川河口付近の馬潟(まがた)村の漁師が
        助け、曳航して送り届けた。そこから馬潟の船が曳船役として参加し、馬潟付近にある矢
        田、大井、福富、大海崎の漁師たちが加わった。「ホーランエンヤ」の由来は、櫂かきが
        歌った掛け合いの言葉とされる。

        
         松江歴史館の先に内堀と松江城。

        
         北惣門橋は、内堀の東側にあった家老屋敷(現歴史館)と場内を結ぶ重要な橋であった。
        明治中期頃に石造りのアーチ橋とされたが、史跡にふさわしい木橋に架け替えられたとい
        う。

        
         大手から城内に入ると、外曲輪(馬溜)の先に大手門跡。かっては2階建ての楼門があっ
        たとされる。

        
         二の丸下の段から二の丸への本坂。

        
         二の丸には3つの櫓(太鼓櫓、中櫓、南櫓)がある。北隅角に太鼓を保管していた太鼓櫓、
        東側に武具を保管していたと思われる中櫓(御具足櫓)、南東角に城下を監視する2階建て
        の南櫓がある。

        
         興雲閣は、1903(明治36)年明治天皇の行幸を願って行在所(あんざいしょ)として建て
        られたが、時局が厳しく実現しなかった。1907(明治40)年皇太子(後の大正天皇)の宿
        泊所として利用され、のちは松江郷土館などに活用されたが、現在はイベントなどに利用
              されている。

        
         大広間は貸し出し中のため入ることができなかったが、大広間は大壁造りで竿縁天井、
        貴顕室は3部屋あって壁と天井は和紙が使われているとのこと。

        
         建物は木造2階建てで主屋のやや北寄りに玄関があり、外壁は下見板張りに淡緑色で仕
        上げられている。周囲には列柱廊を巡らせた洋風の外観だが、屋根は純和風という擬洋風
        建築である。

        
         1877(明治10)年西川津町に松江藩松平家の初代藩主(直政)を祀る楽山神社として創
        建されたが、松江東照宮と合祀のうえ、1899(明治32)年御殿があった地に松江神社と
        改めて遷座する。

        
         現存する12天守のうち国宝に指定されているのは、この松江城のほか松本城、犬山城、
        彦根城、姫路城で、国指定重要文化財が弘前、備中松山、丸亀、伊予松山、宇和島、高知
        の7城である。

        
         天守は本丸の東寄りに南面して建ち、外観は4重だが内部は5階、地下1階の構造(5層
        6階)で、入口に附櫓を設けた望楼型の城である。

        
         現存する天守では唯一天守内に井戸がある。

        
         松江城は別名千鳥城ともいい、堀尾吉晴が1607(慶長12)年から4年の歳月をかけて
        完成させた。実践本意の城は高さ約30mの望楼式である。
         外観は黒く、分厚い板を巡らす下見板張りで、質実剛健な構えをみせる。堀尾氏3代、
        京極氏1代を経て松平氏10代が居城し、18万6000石の城下町となる。

        
         天守最上階は天狗の間と呼ばれ、360度の展望を得ることができる。柱は四角に製材
        され、敷居や鴨居もある。

        
         北にある嵩山・和久羅山は、松江市内のどこから見ても、涅槃像の姿を見せる。昔から
        「大仏の 寝たる姿や 嵩和久羅」と言われてきた。

        
         南に宍道湖。

        
         北之門跡から水の手門跡に下る。

        
         馬洗池はその名のとおり馬を洗う池として使われたが、使用されることはなかったが、
        籠城の際は飲料水の役目も果たす池だったといわれる。

        
         松江藩主だった松平直政が、松江藩の守護神として勧請した城山稲荷神社は、ホーラン
        エンヤの神社である。千体を超える石狐が奉納され、小泉八雲は毎日の散歩で、この稲荷
        神社を訪れていたという。

        
         歩き疲れたので内堀に出て、記念館前バス停からレイクラインに乗車、月照寺前バス停
        で下車する。

        
         拝観時間の受付は15時30分までとされ、最後にしたのが間違いだったようだ。月照
        寺(浄土宗)は、1664(寛文4)年松江藩主・松平直政が、生母・月照院のために建立し、
        松平家の菩提寺とする。

        
         雷電は、1767(明和4)年信濃国(現長野県上田市)に生まれ、横綱谷風の内弟子から大
        関となり土俵を飾る。
         1788(天明8)年22歳の時、松江藩主・松平治郷(不昧)に「お抱え力士」として召し
        抱えられ、雷電為右衛門の名を給わる。21年間の相撲生活後は、力士を連れて各地を巡
        業し、一時期松江にも住んだことがあるという。顕彰碑の下に手形が刻まれているが、実
        物は月照寺に保存されている。

        
         門前払いされてしまったので一畑電車・松江しんじ湖温泉駅まで歩く。


松江市美保関町は美保神社の門前町に青石敷道 

2022年04月06日 | 島根県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         美保関(みほのせき)は島根半島の東端に位置し、東・南・北は日本海に面する。(歩行約1.
        9㎞)

        
         JR松江駅から一畑バス美保関バスターミナル行き約45分、終点で下車すると次のコ
        ミュニティバスには時間待ちすることなく乗車できる。バスに揺られること約30分、五
        本松公園入口バス停で下車する。

        
         弁天波止場の先端にある常夜灯は、灯台の役目を果たすことを目的に、1842(天保1
          3)
年に建立されたが、風化により老朽化したため再建されたという。

        
         太鼓橋先の浮島には、弁天さんが祀られている。

        
         美保関漁港は第二種漁港に指定されているが、島根半島東端に南面した天然の良港で、
        中世から交易の基地として栄えた。
        

        
         バス停から左の路地に入ると、「歳徳神御座居所」と表示された社がある。陰陽道(おん
          ようどう)
でその年の福徳を司る神とされ、この神がいる方を恵方といい、万事に吉とする
        とされる。

        
         その先左手に美保神社の境外末社である糺社(ただすしゃ)がある。祭神の久延昆古神(くえ
          びこのもこと)
は「案山子」を神格化したもので、知恵・知識の神とされる。

        
         路地を抜けると美保神社参道。

        
         美保神社の由緒によると、出雲風土記(733年編纂)及び延喜式神名帳(927年成立)
        に記される古社とされる。

        
         4月7日が青柴垣(あおふしがき)神事で参道に幟が並ぶ。

        
         1928(昭和3)年に造営された神門。

        
         拝殿も1928年築で、船庫を模した独特な造りだそうで、壁はなく、梁が剝き出しで
        天井がないのが特徴とされる。

        
         本殿は大社造りの2殿の間を、「装束の間」でつないだ特殊な形式とされ、現在の本殿
        は1813(文化10)年再建されたものという。漁業、海運、商業の神とされる「えびす様」
        を祀る全国の総本宮である。

        
         青石畳通りは、江戸期にできた参拝道で、両側には旅籠や土産物屋などで賑わっていた
        そうだ。

        
         石敷道は江戸後期の1804~1847年頃、近くの海岸からとれた青石(凝灰質砂岩)
        で造られたという。

        
         各戸にはその家の由来看板が掲げてあって、それに触れながら歩くと、歴史を垣間見る
        ことができる。
         元禄年間(1688-1704)の頃、北前船の往来が頻繁となり、神社東側界隈の海を埋め立てて
        土地造成を行なったことにより、引地の小路と称された。

        
         福間屋は宝暦年間(1751-1764)より廻船業を営むが、分家筋も廻船問屋として名を連ねて
        おり、本家が面屋(おもや)と称する。

        
         明日は祭りということで、各戸には御神竹である青竹が軒先に掲げてある。(当地は未来
        に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選の1つ)

        
         定秀家は、江戸期には廻船問屋として栄え、1905(明治38)年から旅館業「美保館」
        を営む。本館の玄関に唐破風を備えるという、明治後期から昭和初期の旅館建築の面影を
        伝えている。

        
         多くが廻船問屋で廻船の定宿にもなっていたようで、それぞれが中心的な商取引き相手
        を持っていたため、米子屋、和泉屋、加賀屋など相手国が屋号になっていた。

        
         美保関は北前船の西廻り航路の寄港地として栄え、50軒ほどの廻船問屋があったとい
        い、その物資の積み下ろしの効率化を図るため、敷石を用いたとされる。

        
         海へ通じる土間。

        
         左手の軒下にある由来看板には、廻船商人の元締めをする総問屋と称したことから、そ
        のまま「大問屋」という屋号になったと記す。

        
         美保関史料館を過ごすと石碑と小さな祠があり、左手の御幸通りに入る。

        
         参道も敷石。

        
         島根半島は修験道には格好の場とされ、三明院(真言宗)という密教寺院があった。中世
        後期には無住となったが、天正年間(1573-1592)に浄土宗佛谷寺(ぶっこくじ)として再興され
        た。

        
         三明院は隠岐に流された2人の上皇と天皇の行在所(あんざいしょ)になった寺とされる。
        鎌倉期の1221(承久3)年、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇が、出雲大浜湊(美保関)に着か
        れ、風待ちのため逗留された。
         それから100年後の1332(元弘2)年、後醍醐天皇も倒幕に失敗して隠岐に配流とな
        り、当寺で一夜を過ごしたとされる。

        
         江戸前期、江戸本郷の八百屋の娘・お七は、寺小姓の恋人に会いたいため、自宅を放火
        した罪で火刑に処せられた。(井原西鶴の好色五人女)
         お七の冥福を祈って巡礼の旅に出た恋人・吉三(名は様々)が、ここで生涯を閉じたと伝
        えられ、山門脇に地蔵尊が祀られている。

        
         円浄寺前の道を海側へ向かうと左手に定秀住宅。かっては豪壮な建物があったようだが、
                大半が取り壊されて明治前期頃に建てられた一部が残されている。
                  後醍醐天皇が隠岐配流の際、「古東館」と命名されたと伝え、北前船が入港するように
        なると、北国7ヶ国の廻船業の独占権を有したことから「北国屋」とも呼ばれるようにな
        る。

        
         青石畳通りの先にある通り。 

        
         1891(明治24)年小泉八雲は美保関の町外れにあった「島屋」に宿泊し、美保関の生
        活習慣などを題材にした紀行文「知られる日本の面影」を世界に向けて発信する。

        
         福間離れ(旧大下舎)は水夫たちをもてなす宿屋でして使われた。当地は北前船の寄港地
        でありながら、美保神社の門前町でもあり、遊女町も形成された。

        
         ここにも歳徳神が祀られている。

        
         飛び跳ねる鯛と美保関灯台、関の五本松と思われる松と、旧町章入りの美保関集落排水
        用マンホール蓋。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、美保関と雲津浦の区域をもって「美保関村」
        となる。1955(昭和30)年昭和の大合併では、千酌村、片江村、森山村をくわえて町制
        に移行したが、平成の大合併で松江市美保関町となる。 

        
         三日月のような地形の対岸から見る常夜灯と浮島。

        
         ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲は、1891(明治24)年と翌年、1896(明治29)
        年の各夏、3回にわたり美保関を訪れ、いずれもセツ夫人同伴で、この地にあった「島屋」
        を定宿とした。

        
         青柴垣神事は、大国主命が事代主命に国を譲ることを決定した後、自ら海中に青柴垣を
        作ってお隠れになった故事に因むという。
         青柴垣で飾った船に当屋夫婦を乗せて港内を一周した後、美保神社に参拝して奉弊する
        という神事である。
         美保関灯台まで約2㎞(往復1時間)を要するので、レンタサイクルを活用しようと思っ
        たがないとのことで、次の予定もあって灯台行きを残念して松江に戻る。