ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

萩市の川上は阿武川ダム下流に集落 

2021年08月30日 | 山口県萩市

                 
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         川上(かわかみ)は全域の90%が山林で、中心部を阿武川が西流し、中央部に阿武川ダム
        があり、南から佐々並川流れ込む。その阿武川沿いに集落が点在する。
         地名の由来は「椿郷の内にて水上に当る故に川上と申し御座候」とある。(歩行約5.2
        km) 

        
         1975(昭和50)年に完成した阿武川ダムの建設に伴い、水没予定地となった高瀬集落
        から移築された山村農家(郷田家住宅)である。当集落は四方を険しい山に囲まれた平家の
        落人伝説が残るほどの山村であった。

        
         現在、阿武川歴史民俗資料館内の敷地にあり、整形四間取りで通り土間を持ち、土壁を
        多用してしている点は、平野部の農家に近い造作である。
         残念ながら移築後50年近くが経過し、損傷が激しいため立入禁止となって内部は拝見
        できなかった。

        
         川上村の大部分は山林のため炭焼きも盛んで、1955(昭和30)年代まで多くの人が木
        炭生産に係わってきた。
         この炭窯は昔ながらの炭焼き窯を再現したもので、近年まで使用されていたとのこと。

        
         歴史民俗資料館はコロナ感染防止のため見学できなかったが、ダムで消滅した集落の民
        俗文化を保存伝承するために整備された資料館である。
         湖底に沈んだのは旧川上村6集落と旧福栄村3集落の206戸とされる。その中で51
        戸と大きな集落であった高瀬集落は、阿武湖に突き出た「望郷半島」付近にあった。

        
         ダムは慢性的な水害を防ぐための洪水調整、用水確保などを目的として完成した重力式
        アーチダムで、堤高は95mもある。

        
         中国電力佐々並川発電所は、1959(昭和34)年4月阿武川水系の佐々並川を利用した
        ダム水路式の発電所である。

        
         萩バスセンターから防長バス25分、阿武川温泉行きがあるが便数は少なく、民俗資料
        館からから中心部の筏場まで約3.2kmも離れているので車で訪れる。(三徳橋付近の路肩
        に駐車)

        
         阿武川の左岸にある筏場地区が旧川上村の中心だったようだ。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、近世以来の川上村がそのまま自治体を形成す
        る。平成の大合併で萩市となるが、それまで使用されていた村役場が現存する。

        
         遠谷川に架かる河鹿橋左手に森林組合、右手にはJAがあり、基幹産業は林業と農業で
        ある。

        
         旧川上村には横山姓が多いとされる。(横山商店)

        
        
         柚の里として知られ「ゆず加工所」がある。

        
         理髪店を思わすような造りの民家。

        
         1873(明治6)年川上小学校名で高瀬に創立されたが、1880(明治13)年筏場に移転
        する。
         その後、校名変更や分校の統合を重ね、1989(平成元)年阿武川右岸の灰福地区に校舎
        を新築して移転する。現在は分離型の小中一貫校である。

        
        
         遠谷川沿いの小さな平地毎に4~5軒が大きな家を構えるが、緑の中の石州瓦は映える。

        
         国指定天然記念物「川上のユズおよびナンテン自生地」、距離にして500mとある。

        
         軽トラであれば走行可能な道である。

        
         薮蚊に悩まされながら林道?を詰めると案内板等が設置されている。途中に沢があって
        案内板まで近づくことができず、どの木が天然記念物かわからなかった。
         案内によると、1941(昭和16)年国の指定を受けたユズの自生地は福昌院の寺領で、
        20~30度の斜面はアラカシ林で、その中に大小10本のユズが混在するとある。

        
         横山商店まで戻って三差路を左手に進む。

        
         村の花であったユズの実と、飛び跳ねる阿武川の鮎がデザインされた旧川上村の集落排
        水用マンホール蓋。

        
         阿武川左岸に出ると、右岸には萩市の総合事務所、保健センター、公民館、川上小中学
        校、保育園の施設が並ぶ。

        
         三徳橋で両岸が結ばれ、川はダムがあるためかゆっくりと流れ下る。

        
         明治初期に福寿院とこの地にあった生福寺が合併し、生福寺は廃寺となる。檀家70戸
        ほどが毘沙門堂を守り、1882(明治15)年本堂を建立する。1919(大正8)年12月福
        島県上之宮村にあった廃寺・玉泉寺(曹洞宗)の寺号を移して再興された。

        
         背向け地蔵の由来によると、川上の人々は木炭や薪を作り、これを川舟で萩城下に運び
        出し、売却することで生計を立てていた。1789(寛政元)年川下に水車が設置されること
        になり、水車ができると阿武川の水量が減少し、川舟の運行ができなくなる。
         1809(文化6)年嘆願したが解決せず、翌年水車を壊すべき実力行使にでたが、多くの
        村人が捕えられ、陳弁した藤原平助と岡崎権太が首謀者として打ち首になる。

        
         要求は受け入れられ水車は取り除かれ、村人の生活を守った2人を川上の義民としてこ
        こに祀られた。この2つの地蔵は、大切な交通路だった阿武川を見つめ、道路に背を向け
        ているので「背向け地蔵」と呼ばれている。


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