この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
「港のみえる丘の径」は高杉晋作と奇兵隊ゆかりの地・大歳神社から笹山町、西入江町、
入江町を経て、南部町にある金子みすゞゆかりの寿公園に至るコースである。
1998(平成10)年下関市が設定したが、当時は高層ビルも少なく港が見えていたよう
だが、今は港がみえない丘の径となっていた。
JR下関駅前の国道9号線にはビル群が並ぶ。
ビルの一角に地蔵尊。
1862(文久2)年豪商・白石正一郎が攘夷祈願のため奉納した鳥居がある。1940(昭
和15)年関門トンネル工事の折、鉄道敷地に接収されて現在地に遷座する。当時の階段は
123段で「ひふみ坂」として親しまれたが、現在は115段で「ひふみのお祓い坂」と
して、階段には人生の通過儀礼のプレートが設置されている。
「港のみえる丘の径」の起(終)点を示す案内板。
大歳神社は、平安期の1185(寿永4)年源義経が壇之浦合戦に際し、戦勝祈願して大歳
御祖大神(おおとしみおやのかみ)を祀った。翌年に4軒の漁民が義経の祈願を畏敬(いけい)して、
神祠を祀ったことに始まるという。
1863(文久3)年奇兵隊の発足に際し、高杉晋作は旗揚げの軍旗を神社に奉納した。
境内より港を見ることはできない。(下関港国際ターミナル筋)
境内から唐戸方面に向けて進む。
カラー舗装に沿うと民家の軒を縫うといった感じの場所もある。
下ってくると左手に「卍」マークのお堂があるが詳細不明。(お堂前を左折)
茶山通りという大きな通りに出るが、昔は茶畑があったことから茶山という地名になっ
たとか。ちょっとわかりづらいが七福質舗脇の細い路地に入る。
勝安寺裏を過ごすと上り坂。
坂道を進むと最初の三差路を右折し、次の分岐は直進して石段を下るとカラー舗装路に
出る。
大きな通りを横断すると稲荷神社入口に案内がある。
紅葉稲荷神社の鳥居を潜る。
正面の丘が展望広場。
高野山真言宗の福仙寺は、天平年間(729-749)行基の創建と伝わる古刹である。初めは豊
田庄にあったが、長府毛利藩家老細川中務の命により現在地に移る。
紅葉稲荷神社の由緒によると、初めは下関市長府姥ヶ懐にあったが、1741(寛保元)年
豊前田紅葉谷に遷座して祠の形で祀られてきた。1875(明治8)年豊前田町民の協力で神
社に改築されたが、その後、度重なる大火をうけて、1926(大正15)年現在地に移転改
築された。
寺前の三差路まで引き返し、日和山霊場への道を進む。
1番霊場前から公園道に入る。
1番霊場から奥の院まではほぼ階段。
太鼓橋を潜ると福仙寺奥の院。広場は霊場となっており奥の院横の道を進む。
道なりに進むと三差路に日和山公園への案内がある。
港のみえる丘の径から外れて、下関市日和山浄水場横の展望地から関門海峡を眺望する。
日和山公園は、1922(大正11)年2月大正天皇即位を記念して公園化された。北前船
時代は風待ちの丘として出航の日和を見た地である。
1890(明治23)年政府は水道敷設促進と水道事業規制(公営を原則)を目的とした「水
道条例」を公布する。
1906(明治39)年内日(うつい)貯水池から約12km離れた高尾浄水場に自然流下する方
法で給水が開始された。山口県内では最初、全国でも9番目の本格的な水道施設であった。
その後、人口増加のため上水道施設の大幅な拡張が必要となり、1929(昭和4)年日和
山浄水場が新設される。(建物は下関市水道局水道資料室(旧日和山浄水場管理事務所)
日和山公園に建つ高杉晋作像は、1956(昭和31)年没後90年を記念して建立された
備前焼の像である。1936(昭和11)年4月70回忌を記念して建立されたが、戦時下の
金属供出で接収されてしまったそうだ。
晋作像の前に「つかずの灯籠」と呼ばれる灯籠がある。この灯籠にいくら火をつけても
すぐに消えてしまうことからこの名があるという。
公園からの展望は海峡が垣間見える程度である。(右手の塔は海峡ゆめタワー)
日和山から観音崎コース。
中山身護正宗・覚弘院(かくこういん)への案内がされている。
境内地は港がみえる丘である。
西入江町の坂を下る。
大通りに出ると双方の歩道に道標。
下関市の「し」の中に市のシンボルマーク「フグ」と、その周りを海の波が描かれたマ
ンホール蓋。
次の道標で左折すると日本銀行下関支店。功徳院前を過ごした辺りで列車の時間が迫っ
てきたので歩きを終える。
三百目バス停より下関駅に戻る。