この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
万倉(まぐら)は有帆川の上・中流域の丘陵と冲積低地に位置する。地名の由来について、
風土注進案は郡家の西南に楠の大木があり、その木が大木であるため、この地方を覆い常
に暗かったので村名を真暗と名付け、後に万倉となったとされるが附会のようだ。マグラ
のマは「真赤」とか「真白」のマと同じで、クラは「岩、谷」のことで、「岩の多い所」
という説がある。(歩行約6㎞)
芦河内まで行くにはバスの利便性が悪く、車を使用して「楠こもれびの郷」を起点とす
る。
こもれびの郷出入口には案山子コンテスト用の作品が展示中。
宮尾八幡宮南参道は桜並木。右手は戦前まで宮競馬が行われていたようだが、今は近所
の方が畑として耕作されている。
宮尾八幡宮について風土注進案は、社地は旧万倉村の「亀之頭」にあって神功皇后朝鮮
出兵の際に軍船を作った旧跡で、応神天皇の時代に武内宿禰がその場所に一社を造立させ
たのに始まるという。その後、南北朝期の文和年間(1352-1356)厚東義武の時、現在地に遷
座して宇佐神宮より勧請・合祀したという。
境内社として玉垂神社・菅原神社などがあり、鎮守の森は椎の木を主体とした照葉樹林。
旧道に家並みが続くが、新しい住宅が主流を占める。
1889(明治22)年町村制の施行により、芦河内、今富、矢矯、奥万倉、西万倉、東万
倉村の区域をもって「万倉村」が発足。この地に万倉村役場が置かれた。
1865(慶応元)年長州藩主・毛利敬親の意を受けて各郡に招魂場を設置する。
1868(慶応3)年万倉村を知行地としていた国司純行は、土井垰山に招魂場を設置し、禁
門の変の責を負い自刃した義父・親相をはじめ、戦死した26名の英霊を祀ったのが始ま
りとする。
本殿の中央に国司親相(くにし ちかすけ)の肖像画が掛けられている。
100基を越える戦没者の霊標が並ぶ中に、幕末の禁門の変や第二次幕長戦争における
国司家の戦死者が祀られている。
護国神社から今富地区への市道を緩やかに上ってゆく。
万倉盆地の北にある正楽寺集落。
四国八十八ヶ所弘法大師御山安置札所の石碑がある。
天竜寺(曹洞宗)は初め正楽寺と称していたが、南北朝期の1348(貞和4)年厚東武村が
祈祷所として諸堂を建立し、南禅寺の末寺となる。厚東氏没落後、観音堂のみ残ったが、
1494(明応3)年末富重泰が再建して天竜寺としたが再度荒廃する。1570(元亀元)年当
地の信田之丸(しだのまる)城主・杉重良が、周防国宮野村より定林寺を引寺して菩提所とする
が、やがて衰微する。
1625(寛永2)年萩藩家臣の国司備後が、周防国下徳地二宮(現山口市徳地)から万倉村に
給領地替えになる。二宮にあった宗吽寺(しゅううんじ)を移建して菩提所とし、1743(寛保
3)年天竜寺と改称する。
堤堰堤を巡ると国司家歴代の墓所がある。(手前が国司親相夫妻の墓)
室町期の1493(明応2)年杉重春が万倉に隠居屋敷を賜ったことが見え、杉重矩(しげの
り)は陶晴賢の反乱を招いた黒幕といわれる。晴賢に組みしたが後に対立して鴨庄で討たれ
る。この境内に杉家の墓もある。
広矛(ひろほこ)神社は鎌倉期の永仁年間(1293-1299)に奥万倉の柏ノ木に創建されたと伝え、
若一(びゃくいち)王子と称していたという。1471(文明3年)社の近くに葬場が造られ、神
託により大内氏の家臣・平(杉)武辰が域内の平野に移建する。永正年間(1504-1521)頃村人
の金右衛門に神託があったが、村人はとりあわずにいたため疫病が流行したと伝える。1
571(元亀2)年領主の杉重良が神託のあった現在地に社殿を移して再興したという。
寺と神社の間を抜けて有帆川に沿う。
国司家は毛利譜代の重臣で寄組に列し、万倉伊佐地に居館を構えた。
国司親相は、毛利元美(厚狭毛利)の後を受けて、赤間関総奉行に任じられる。一代家老
に進み、七卿と萩藩の失脚を挽回すべきと、1864(元治元)年益田・福原とともに兵を率
いて上京したが、禁門の変の責任を負って切腹する。
居館跡の上方に鎮座する美登里神社は、国司信濃親相を祭神とする。出立のとき「跡た
れて 君をまもらむ みどりそふ 万倉の山の 松の下かげ」と詠む。享年23歳
県道37号線(宇部美祢線)を歩いて楠こもれびの里に戻ってくる。
室町期の1418(応永25)年に芦河内薬師堂が再建され、茅葺、寄棟造りで正面と両面
が吹き抜けという古い形の薬師堂である。
堂内には阿弥陀如来、薬師如来などの像がある。
1876(明治9)年に芦河内小学校が設置されるが、1884(明治17)年万倉小学校の分
校となる。1974(昭和49)年に廃止されて芦河内地区集会所として活用されている。
県道沿いに芦河内バス停があるが、集落までは片道約1.6㎞も離れておりバス便数は少
ない。