この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複第546号)
戸田(へた)はJR山陽本線が昇仙峰南麓の海岸部を迂回し、北麓に沿って国道2号線が東
西に走る。国道の北側を並行して通る旧山陽道の道筋にできた集落が戸田市である。(歩行
約4.6㎞)
1911(明治44)年に開業したJR戸田駅は、駅開設のため戸田・夜市両村をはじめ6
ヶ村が連名で請願する。駅名は戸田ですんなりと決まったが、戸田村の有力者が土地の提
供を拒んだため、村境の夜市側となったという歴史を持つ。駅舎の建造はいつなのかわか
らないが、美しい木造駅舎の1つである。
JR戸田駅から旧山陽道歩きを兼ねて戸田市を訪れることとし、駅前の国道を徳山方面
へ進み、最初の信号で国道を横断して西進する。
矢地市の三叉路には白壁の大きな家が2軒あったが、正面のH家は解体されていた。
(下右は現存中に撮影)
右手の小高い所に地蔵尊と、埴輪のような祠がたくさん並んでいる。
地蔵尊の場所から見る夜市(やじ)市の町並み。
赤坂峠(戸田と夜市の境)を越えると戸田集落が見えてくる。
船山神社(祇園社)の創建は不明だそうだが、寺社由来には建保年間(1213-18)に京都東
山の祇園社から勧請したとある。
鎮座地は南北にやや長い船形の平地山であるため船山といわれ、戸田の村名は船山にち
なむ「舮田」(へた)の書き違いだという。
この平地山を舟に見たてたため、この周囲にこれを繋ぐ「碇石」が配してあった。東側
に3つ、西側に1つあったとされるが、拝殿横に1個だけ現存する。
右側の民家奥に光西寺(真宗)があり、寺境内の便所付近に小休所があったとされるが、
今はその痕跡はない。寺伝によると、1577(天正5)年の創建とされ、1732(享保17)
年と1733(享保18)年の2年続きの飢饉の際、この寺の住職は、飢饉による餓死者を弔
う供養塔を建てたとある。(碑は柳橋から湯野温泉方向へ600mほど行った左手にある)
桜田八幡宮から西の夜地川までの約380mが戸田市であるが、個々の民家はすべて装
いを新たにしている。
右手に宮島様と呼ばれる祠があるが、祀られているのは鯛を抱えた恵比須様で、案内板
にはどうして宮島様といわれるのか定かでないとか。水の中に立てて祀られている由縁だ
ろうか。
戊辰戦争時、奥州に出征した竪田家の兵が無事に凱旋したのは、氏神様のお陰であると
感謝して建てたもので、23名の名が刻まれている。
街道を右折して緩やかに上って行くと桜田八幡宮の鳥居。
次の鳥居からの石段は3方に分かれている。
桜田八幡宮は、室町期の1507(永正4)年大内義興が宇佐神宮より勧請し、この地に遷
座・造営したとされる。1859(安政6)年に現在の社殿が造営されたという。
桜田八幡宮から戸田の町並み。
江戸期の戸田村は、市の中心部が徳山藩領、他が萩藩領であった地域で、萩藩領は竪田
氏の知行地とされた。(戸田市観音がある心光寺付近)
1944(昭和19)年4月に戸田村は、徳山要港の大都市建設のため徳山市に編入され、
発展的終局を迎える。
戦前だったこともあって地元の長老数人に村役場の位置を伺うが、内1人の方が桝屋・
宗近家(写真)の反対側にあったと思うが、定かではないとのことだった。
商家だったと思われる大きな家(H家)が目を引く。
説明によると享保年中(1716-1736)に安置されたとされ、1785(天明5)年ご尊体が震
えて大量の汗を出して火災の難を知らせたので、町は難を逃れたとのこと。この堂は、1
955(昭和30)年に再建されたものである。
地蔵堂の脇に古民家があったが解体され、高齢賃貸住宅となっていた。(現存時の写真)
夜市川に架かる柳橋で戸田市の西端となる。
山田家は小早川隆景の家臣であったが、のちに湯野の竪田元慶の家臣になる。この本屋
は武家屋敷の趣きと民家風の構えを持った屋敷で、物見の役を兼ねていたとされる。19
66(昭和41)年に旧屋敷の60%が徳山市街地に移築され、現在は湯野温泉に再移築され
ている。
国道に沿って800mほど東進すると道の駅ソレーネ周南があり、バス利用して戸田駅
に戻る。