この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 546号)
遠崎(とおざき)は旧玖珂郡の南端部、南は海で笠佐島が浮かぶ。藩政時代は周防大島が萩
藩領であったため、大畠瀬戸を渡海する船着場として、比較的潮流の緩慢な遠崎を港とし
て利用するため萩藩領とされた。(歩行約7㎞)
山陽鉄道は明治期に神戸を起点に、馬関(下関)まで14年の歳月をかけて、1901(明
治34)年5月27日に開通する。
1897(明治30)年に広島~徳山間が開通したが、柳井港駅は設置されなかった。19
29(昭和4)年に地元県会議員が時の首相・田中義一(萩出身)に運動して開業させた政治駅
である。
駅前が小瀬上関往還道で、街道を東進すると国道188号線に合流する。山陽本線と並
行して大畠方面へ進むと、途中に旧大畠町と柳井市の境をなす境川がある。藩政時代の萩
藩領と岩国領の境でもあった。
江戸末期の幕長戦争で亡くなった人を供養するため、周防大島の海中に建てられたもの
を引き揚げ、この地に建立されたと伝えられる。南無阿弥陀仏の南の字が欠落しているこ
とから、首なし地蔵さんと呼ばれている。(説明板より)
国道から離れて再び小瀬上関往還道に入る。その先の遠崎地区学習等共用会館のある地
は、海を埋め立てて建設されたもので、街道は海傍を通っていたことになる。駐車場に月
性の立像がある。
共用会館の反対側に松戸八幡宮の御旅所がある。大きな常夜燈が設置された当時は港が
すぐにそばにあり、船にとって目印になったとされる。
ここには戦死者の国への忠義と正義の心を顕彰する「忠勇義烈」の碑がある。
長命寺は真言宗であったが、江戸期に浄土宗として再興されたといわれている。
1773(安永2)年に木喰五行上人が全国各地に自作の仏像を残そうと、56歳の時に思
い立ち、1799(寛政11)年この地に1日滞在する。その際に彫った3体が現存し、うち
2体が同寺にあるという。
街道を行き交う人や共同井戸として利用されたと思われる井戸。
鍵屋(旧秋元家)は、海産物を俵に詰める俵物の下請け問屋で酒造業も営んでいた。18
66(慶応2)年の幕長戦争・大島口の戦いでは、高杉晋作がここに宿泊したとされる。
正面に妙円寺、右手に月性資料館、左手は民俗資料館。
妙円寺境内にある清狂草堂(せいきょうそうどう・別名:時習館)は、1848(嘉永元)年に
月性が開塾し、赤根武人、大楽源太郎、大洲鉄然、世良修蔵らが学ぶ。尊皇攘夷として「
海防」の急を説いたことから、「海防僧」と呼ばれたという。西郷隆盛と共に入水した僧
・月照とは別人である。
1855(安政2)年以降は不在がちで、帰郷の際に塾を開いたとされる。
本堂西側に月性の墓があり、墓石面面には「清狂師之墓」と刻まれているだけで、誰が
いつ頃に建立したかは明らかでないとのこと。
月性(1817-1858)はこの地で生まれたが、母・尾の上が岩国の寺に嫁ぎ、月性を身籠った
が不縁となり、実家(妙円寺)に戻り、月性を出産する。
13歳で得度し、15歳からは豊前国・安芸国・肥前国で漢詩文や仏教を学び、23歳
で帰郷する。再び大坂・江戸などに遊学し、多くの人と交流する。長州を攘夷に向かわせ
るのに努めたが、明治という新しい時代を見ることなく42歳で病没する。
男児立志の碑は、月性が1843(天保14)年に京阪地方へ向かうとき、出発に際し詠ん
だ詩が刻まれている。
男児志を立てて郷関を出ずづ
学もし成る無くんばまた還らず
骨を埋むるなんぞ期せん墳墓の地
人間到るところ青山あり
月性が諸国を遊説したときに使用した網代笠。清狂」の大きな字は、篠崎小竹の書によ
る。(展示館にて)
当時はこの地より東約50mの所にあったが、老朽化したため門下生が、1890(明治
23)年に現在の草堂を建てる。
寺の上第2踏切を越える。
道なりに進むと旧遠崎小学校校舎が見えてくる。1873(明治6)年妙円寺の一部を借り
て開校して2度ほど移転し、1912(明治45)年現在地に遠崎小学校校舎が完成する。
しかし、2013(平成25)年に旧神西、鳴門の3校が統合し、大畠小学校となり廃校に
なる。
東門から西門(正門)へと校庭を歩くと、校庭の中央にシンボルの銀杏の木が残されてい
る。
遠崎の中心部よりやや山手に鎮座する松戸八幡宮は、天暦年間(947-957)に宇佐神宮より
勧請される。
松堂(まつど)山に鎮座し大島郡中の祈祷所となったが、その後、現在地に遷座して「松戸
八幡宮」といわれるようになったとか。
参道石段を上がれば遠崎小学校、大島(屋代島)や豊後水道に接する瀬戸内、室津半島の
山並みが一望できる。
境内には本殿の他、篠原社、蛭子社、荒神社、石鎚社なども祀られている。
坂道の途中に「大賀ハス」の看板があり、「山口大学」よりやってきたとあるが、やっ
てきた由縁は記されていない。さらに長い急坂を上がって行く。
平坦になると次の集落が見え、分岐には水車が置かれている。國木田独歩の「欺(あざむ)
かざるの記」の明治27年(1894)8月17日に、弟の収二と散歩した記述がある。「昨日
午後1時少し前、収二と共に琴石山麓の山家点在せる辺りを散歩す。渓流に沿うて山路を
辿り、松林に入りて山腹を横ぎる。サコンタを止めて水に浴し、路傍を沿うて棗(なつめ)を
盗む」とあるが、サコンタとはこの水車のことか?
最上部に上がると国手溜池と遠崎、海に浮かぶのは笠佐島。
心光寺(浄土宗)は国木田独歩の「欺かざるの記」では、「山寺に入りて僧の眠りを驚か
し、犬に吠えられて笑って石を投げつく」とあるが、山寺とは当寺のことか?
寺から薄暗い坂道を下り、次の集落へ移動する。
中電柳井火力発電所の煙突を左手に見ながら茶臼山を目指す。
竜華川に沿って上がって行くと、茶臼山登山道の案内板がある。
祇園社への鳥居があり、ここが登山口のようで擬木階段が続いている。
途中にある祇園社。
1892(明治25)年地元に住む2人の少年が発見した茶臼山古墳。この地域を支配した
豪族の陵墓であると考えられ、全長80m、高さ8mの前方後円墳である。
後円部の一番高いところに、この地域の豪族が眠る石室があるという。
築造当時の姿を再現すべく古墳全体を葺(ふき)石で覆い、142基の埴輪のレプリカが置
かれている。
標高60mの場所にあり、古墳からは海と中国電力柳井発電所が見える。
1991(平成3)年の発掘調査で、墳丘が3段に築かれて埴輪が並べられていたことが判
明し、築造当時の姿をできるだけ忠実に再現されている。
前方後円墳をぐるりと一周できる。
竜華川に沿って下り、小瀬上関往還道に合わす。
岸の下踏切を左折すると江の浦地区。柳井港の沖に浮かぶ裸島周辺は好漁場で、藩政時
代は萩藩領である遠崎との間でしばしば漁場紛争が起きていた。
1763(宝暦13)年漁場の見張りの体制を整えるため、この一帯に村ができ、柳井港や
駅ができると商店が建ち並ぶようになったという。(この先にJR棚井港駅)