この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号令元情複第546号)
小古祖(おごそ)は佐波川の上流域左岸に位置し、ほぼ中央を防府と石州を結ぶ石州(三田
尻)街道が通り、市に駅場が置かれた。市では三斎市(8・17・26日)が開かれ、農業
を中心として製紙なども行われた地域である。(歩行 約7.3㎞)
小古祖の地名由来について風土注進案は、当村往古は「姑蘇(こそ)村」といったことが応
永年間頃のものにある。慶長の頃から「小姑蘇」、宝暦の頃(1751-1764)より小古祖になっ
たと記す。
佐波川右岸にある北野天神の鳥居がポツンとある。創建年などは不明だが、山城国の北
野天神より勧請したと伝える。地区の方によると、祭りは防府天満宮より一週間早く行わ
れるとのこと。
中国自動車道高架下から沢沿いの細い山道を2~3分ほど登ると、竹林の中に古墳が現
存する。1976(昭和51)年の中国自動車道建設時に発見されてこの地に移転された。
横穴式石室で入口に袖石が二つある西日本特有の様式である。盗掘の穴が隅にあり、ア
ーチを作る天石はなく、埋葬された人が誰なのかは不明とのこと。
小古祖の中心地である市集落。種田山頭火は昭和8年(1933)7月28日小郡の其中庵を
出立し、山口、仁保を行乞してこの地の河野屋に投宿する。
「今日の道はよかった。山百合、もう女郎花が咲いている。~中略~ 佐波川はなつか
しかった。4時過ぎに小古祖の宿屋で特に木賃で泊めてもらった。宿前にある水は自慢の
水だけあってうまかった。何ともいえない味わいがあった。むろん二度も三度も飲んだ」
と記す。
「ふるさとの水をのみ水をあひ(び)」
この付近に河野屋があったとされるが、場所の特定に至らず。
「和可娘」の銘柄で知られる新谷酒造の醸造蔵。現在も使用されているか否かは不詳で
ある。
石州瓦と煙突。市集落では目立つ存在である。
多念寺は明治の廃仏毀釈により、1870(明治3)年島地の観宗寺(現在の観念寺)へ廃
合される。
第2銃隊は本陣を守り市街戦を想定して、本陣に近いこの多念寺を寺宿とした。
上市集落から国道に出ると、山の中腹に鳥居が見えてくる。
右手に金毘羅宮への入口。
急坂を登って行くと小古祖集落が望める展望地に出る。奇兵隊が駐屯した際に物見場と
なった所である。
水運の神様で、佐波川を利用した通船の安全と繁栄を祀った金毘羅宮。
金毘羅宮から堀方面に引き返すと、「重源の郷」への案内板があり、深谷集落へ寄り道
する。
重源の郷案内板から900mほど山間に入って行くと、深谷十三佛の標柱がある。
仏教では、故人の冥福を祈って行われる法要で、亡くなった日から7日ごとに49日ま
での中陰供養、1周忌から33回忌までが年忌供養である。これをまとめて追善供養とい
う。
①初7日・不動明王 ②27日・釈迦如来
➂37日・文殊菩薩 ➃47日・普賢菩薩
⑤57日(35日)・地蔵菩薩 ⑥67日・弥勒菩薩
⑦ 77日(49日)・薬師如来 ⑧百ヶ日・観音菩薩
⑨一周忌・勢至菩薩 ⑩三回忌・阿弥陀如
⑪七回忌・阿閃如来 ⑫十三回忌・大日如来
⑬三十三回忌・虚空蔵菩薩
亡くなった人を浄土に導く13人の仏様。初七日から33回忌まで、それぞれに担当が
決まっている。
槍(銃剣)隊は妙楽寺(のちに堀村の妙蓮寺と合併)を寺宿にして、全軍の後方部隊として
の役割を担う。緊急時には山道を抜けて物見場へ駆けつける仕組みにもなっていた。
須賀神社(祇園社)も明治の神仏分離令のあおりを受けて、仏教用語である「祇園」が外
されたため改名したとされる。神社の名称が変更されても地元の方々は「お祇園さん」と
称している。
諸隊が転営してきた当初、境内で剣撃の訓練するよう指示がなされたが、10月25日
には正福寺(現昌福寺)に変更された。
正慶院は奇兵隊・膺徴隊の本陣とされたが、同寺を選んだとされる理由は、天然の要害
と云える地形、境内から佐波川や街道を見渡せる位置にあったことによるという。
徳地にはわずか14日の滞在で山口へ移動するが、ここでの訓練や人心掌握(諭示)が、
のちの戦いに活かされることになる。
正慶院はもと京都・東福寺の末寺で長谷寺(臨済宗)といい、正慶院谷の祇園原にあった。
1574(天正2)年に山口の俊龍寺の和尚が、正慶院と改め曹洞宗の寺として、廃寺となっ
た長谷寺の跡地に開山したが、まもなく現在地に移る。
内藤隆春(1528-1600)は大内氏の重臣であった内藤興盛の五男として生まれ、姉の尾崎局
は毛利元就の嫡男・隆元の正室であった。大内氏が滅亡して毛利氏に従った後は、荒滝城
主などを務めたが、宍戸元秀の子・元盛を婿養子に迎え、家督を譲った後は下得地に移っ
て隠居する。
第一銃隊が寺宿とした澄月院(ちょうげついん)は、1870(明治3)年に正福寺と合併した
が、その寺跡がどこなのかは確認できなかった。
澄月院跡から中国自動車道徳地ICの脇を通って国道489号線に出る。佐波分校バス
停があるものの、堀バス停まで約600mの距離なので歩いて出発地に戻る。