この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
吉田は全域にわたってかなり高い山々が起伏しており、中央部にはこれらの山稜を縫っ
て吉田川が蛇行しつつ西流している。中心部の町並みは、この川沿いに開けた所にあるが、
国道、鉄道は域内を通過せず、掛合で国道51号と分かれ、吉田川沿いに6㎞も遡らなけ
ればならない。総面積の約93%が山林という地域でもある。
地名の由来は、古代に川ヨシが群生していたことから、ヨシノタといわれ、のちに吉田
となったといわれる。(歩行約1.3㎞)
吉田へは山陰本線から木次線を利用してJR南大東駅で下車、そこから雲南市民バスに
乗り換えなくてはならないが、接続が悪くて相当な時間を要するのでレンタカーで訪れる。
(稲わら工房近くに駐車、🚻あり)
吉田川右岸に集落が集中する。
吉田の町並みは田部(たなべ)家の土蔵群から始まる。
職人長屋のような建物。
白壁になまこ壁の蔵が18も立ち並び、米蔵、鉄蔵、道具蔵などと表示されているが、
中には嘉永蔵など時代の名が付くものもある。
田部氏は室町期の1460(寛正元)年、一族集まって鈩製鉄を始めたという。戦国期には
旧主である備後山内城主・周藤氏のもとに復帰し、各地を転戦する。周藤氏は毛利氏の臣
として参加したが、1581(天正9)年総領の宗左衛門の戦死により、その子原右衛門は武
士を捨てて吉田の故地に帰任し、鉄師業を専業とした。
その後、1923(大正12)年廃業するまで連綿と製鉄業を伝え、巨富を築き上げてきた。
(階段から先は私有地)
松江藩は、1727(享保12)年「出雲国鉄方方式」を定め、藩内の有力鉄師9人にたた
ら株を与え、たたら場を制限した。鉄師は春先に先納銀を納め、秋には利子を足した額の
米を受け取るということで、藩の財政は潤沢となった。
一方、鉄師たちは藩の保護のもと、山林所有と森林の伐採、伐採後の開墾も許されるな
ど財力を持つようになる。
製鉄業が最も盛んだった江戸末期から明治期には、年間290tの生産量を誇っていた
が、洋式の製鉄技術が入ってくると、たたら製鉄は徐々に衰退に向かい、菅谷たたらでは、
1921(大正10)年に鈩の火が消える。
田部家は農地400ha(小作人1,000人)、山林24,000haという膨大な土地所有
者で日本一の山林地主でもあった。
緩やかな上り坂は石畳み。
吉田町商工会館は、吉田信用購買販売利用組合の事務所として、昭和初期に建てられた
擬洋風建物である。
鉄で作られた出雲阿国の像。
1889(明治22)年町村制の施行により、吉田町、吉田村、民谷村の区域をもって吉田
村を形成するが、平成の大合併で雲南市吉田町となる。
鉄の歴史博物館は、1969(昭和44)年「最後のたたら師による操業」の際に、高齢の
村下(むらげ)たちの健康管理を担った常松医師が、医院を当時の吉田村に寄贈したものであ
る。
博物館入口に鉄穴ヶ谷鈩原から出土した「鉄塊」がある。
たたら製鉄や鍛冶技術に関連する道具などが展示されているが、館内で上映される「和
銅風土記」(上映時間30分)を見ると、たたら製鉄の作業手順が理解できる。
寺町のひとつである長寿寺(曹洞宗)の開基は不明。
西福寺(真宗)の開基は1606(慶長11)年。
日本で唯一残るたたら製鉄の「高殿」と、旧吉田村の村花であったツツジがデザインさ
れたマンホール蓋。
坂根屋小路から吉田川沿いを下る。