この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
松江は島根県東部に位置し、西に宍道湖と東の中海を抱くように南北に広がり、西北の
一部は日本海に面している。市街地は宍道湖と中海を結ぶ大橋川の南北に開けていて、大
正期以前は水路が交通の中心で水の都として名高い。
地名の由来は、中国浙江省の西湖に臨む風光明媚な松江府に似ていることによるという。
(歩行約4.4㎞)
JR松江駅7番のりばからぐるっと松江レイクラインで約20分、小泉八雲旧居前バス
停で下車する。
小泉八雲旧居に隣接して建てられた純和風様式の記念館。松江を世界に紹介した小泉八
雲(ラフカディオ・ハーン)の遺品、著書、関係図書、妻セツの遺品などが収蔵されている。
小泉八雲は1890(明治23)年8月から1年3ヶ月の間、松江尋常中学校で英語を教え、
ヘルン先生と親しまれる。この間に小泉セツと結婚した後、かねてから念願であった「武
家屋敷」を借りて、熊本に転任するまでの5ヶ月間、この家で生活した。
塩見縄手は松江城の北堀に沿った約500mの通りで、かっては200~500石程度
の中級武士の屋敷が並んでいた。「縄手」とは縄のように一筋に伸びた道のことをいい、
松江藩初代藩主・松平直政の家臣で、異例の栄進をした塩見小兵衛の屋敷があったことか
ら名付けられた。
堀沿いには老松が立ち並び、城下町の風情が味わえる。
塩見縄手の由来となった塩見小兵衛邸も住んでいたとされる屋敷で、有料だが「武家屋
敷」として一般に公開されている。
1733(享保18)年の大火で焼失した後に再建されたもので、主屋はおよそ67坪(約
221㎡)で、表側に式台玄関から座敷に至る部分と、裏側に私生活の部分があるが、造
りも材料も区別された武家の公私の区別を見ることができる。
当主が来客を迎える表の間で、書院や柾目の長押、釘隠しなど格式のある造りとなって
いる。
長屋門は武家屋敷の特徴の1つで、門番や中間(ちゅうげん)の住居として使われ、上級・
中級武士に仕えていた。
今も白壁と腰板壁の長屋門が連なり、昔ながらの家並みが続いている。
武家屋敷の長屋門を「MATSUE CITY」の文字で囲んだマンホール蓋。
北の高台に建つ明々庵は、塩見縄手を左折して緩やかな坂道を上がる。
明々庵への途中に松江城が見える場所がある。
明々庵は、1779(安永8)年7代藩主・松平治郷(はるさと)が指図して建てた茶室で、も
とは殿町の家老・有沢邸内にあった。その後、転々と場所を移したが、1966(昭和41)
年現在地に移築された。治郷は江戸期の代表的な茶人で、号の「不昧(ふまい)」として知ら
れる。
松平不昧公好みが反映され、2畳台目(だいめ)と4畳半の席が組み合わされ、下座床、炉
は向切りである。
北堀町から北田川へ向かう筋。
普門院は遊覧船が行き交う松江城の堀川沿いにある。
普門院(天台宗)は、松江藩の初代藩主・堀尾吉晴が松江城を築いた際、祈願所として普
門院の前身である願応寺を開創する。
のちに寺町の大火により類焼してしまうが、1689(元禄2)年松平綱近が松江城の鬼門
にあたる現在地に建立する。
観月庵を見学することを目的に普門院を訪れたが、和尚不在のため拝観できず。180
1(享和元)年に建てられた細川三斎流の茶室。松平治郷(不昧)も度々訪れたり、小泉八雲も
お茶の手ほどきを受けた茶室である。(境内からは屋根のみ)
堀川沿いに松江ホーランエンヤ伝承館。ホーランエンヤは、正式には「城山稲荷神社の
式年神幸祭」で、大阪の天神祭、宮島・厳島神社の管弦祭と共に日本三大船神事のひとつ
である。10年毎に行われる船神事で、御神霊を約10㎞離れた阿太加夜神社まで船で運
び、7日間にわたり出雲国内の安定と五穀豊穣を祈願する祭り。
1808(文化5)年の嵐で沈没寸前の神輿船を、大橋川河口付近の馬潟(まがた)村の漁師が
助け、曳航して送り届けた。そこから馬潟の船が曳船役として参加し、馬潟付近にある矢
田、大井、福富、大海崎の漁師たちが加わった。「ホーランエンヤ」の由来は、櫂かきが
歌った掛け合いの言葉とされる。
松江歴史館の先に内堀と松江城。
北惣門橋は、内堀の東側にあった家老屋敷(現歴史館)と場内を結ぶ重要な橋であった。
明治中期頃に石造りのアーチ橋とされたが、史跡にふさわしい木橋に架け替えられたとい
う。
大手から城内に入ると、外曲輪(馬溜)の先に大手門跡。かっては2階建ての楼門があっ
たとされる。
二の丸下の段から二の丸への本坂。
二の丸には3つの櫓(太鼓櫓、中櫓、南櫓)がある。北隅角に太鼓を保管していた太鼓櫓、
東側に武具を保管していたと思われる中櫓(御具足櫓)、南東角に城下を監視する2階建て
の南櫓がある。
興雲閣は、1903(明治36)年明治天皇の行幸を願って行在所(あんざいしょ)として建て
られたが、時局が厳しく実現しなかった。1907(明治40)年皇太子(後の大正天皇)の宿
泊所として利用され、のちは松江郷土館などに活用されたが、現在はイベントなどに利用
されている。
大広間は貸し出し中のため入ることができなかったが、大広間は大壁造りで竿縁天井、
貴顕室は3部屋あって壁と天井は和紙が使われているとのこと。
建物は木造2階建てで主屋のやや北寄りに玄関があり、外壁は下見板張りに淡緑色で仕
上げられている。周囲には列柱廊を巡らせた洋風の外観だが、屋根は純和風という擬洋風
建築である。
1877(明治10)年西川津町に松江藩松平家の初代藩主(直政)を祀る楽山神社として創
建されたが、松江東照宮と合祀のうえ、1899(明治32)年御殿があった地に松江神社と
改めて遷座する。
現存する12天守のうち国宝に指定されているのは、この松江城のほか松本城、犬山城、
彦根城、姫路城で、国指定重要文化財が弘前、備中松山、丸亀、伊予松山、宇和島、高知
の7城である。
天守は本丸の東寄りに南面して建ち、外観は4重だが内部は5階、地下1階の構造(5層
6階)で、入口に附櫓を設けた望楼型の城である。
現存する天守では唯一天守内に井戸がある。
松江城は別名千鳥城ともいい、堀尾吉晴が1607(慶長12)年から4年の歳月をかけて
完成させた。実践本意の城は高さ約30mの望楼式である。
外観は黒く、分厚い板を巡らす下見板張りで、質実剛健な構えをみせる。堀尾氏3代、
京極氏1代を経て松平氏10代が居城し、18万6000石の城下町となる。
天守最上階は天狗の間と呼ばれ、360度の展望を得ることができる。柱は四角に製材
され、敷居や鴨居もある。
北にある嵩山・和久羅山は、松江市内のどこから見ても、涅槃像の姿を見せる。昔から
「大仏の 寝たる姿や 嵩和久羅」と言われてきた。
南に宍道湖。
北之門跡から水の手門跡に下る。
馬洗池はその名のとおり馬を洗う池として使われたが、使用されることはなかったが、
籠城の際は飲料水の役目も果たす池だったといわれる。
松江藩主だった松平直政が、松江藩の守護神として勧請した城山稲荷神社は、ホーラン
エンヤの神社である。千体を超える石狐が奉納され、小泉八雲は毎日の散歩で、この稲荷
神社を訪れていたという。
歩き疲れたので内堀に出て、記念館前バス停からレイクラインに乗車、月照寺前バス停
で下車する。
拝観時間の受付は15時30分までとされ、最後にしたのが間違いだったようだ。月照
寺(浄土宗)は、1664(寛文4)年松江藩主・松平直政が、生母・月照院のために建立し、
松平家の菩提寺とする。
雷電は、1767(明和4)年信濃国(現長野県上田市)に生まれ、横綱谷風の内弟子から大
関となり土俵を飾る。
1788(天明8)年22歳の時、松江藩主・松平治郷(不昧)に「お抱え力士」として召し
抱えられ、雷電為右衛門の名を給わる。21年間の相撲生活後は、力士を連れて各地を巡
業し、一時期松江にも住んだことがあるという。顕彰碑の下に手形が刻まれているが、実
物は月照寺に保存されている。
門前払いされてしまったので一畑電車・松江しんじ湖温泉駅まで歩く。