ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市長府の櫛崎城跡から功山寺

2023年10月04日 | 山口県下関市

               
                この地図は、国土地理院の2万5千の1地形図を複製加工したものである。
         長府(ちょうふ)は現下関市の南東部にあたり、北および西は丘陵に囲まれる。東は周防灘
        に面し、海岸に沿って平地が続き、西の丘陵から壇具川と印内川が東流する。域内を国道
        9号が町地と工場群を分けるように走っている。
         長府の町を1日で見て歩きはできないので、壇具川を境に南北に分けて歩くことにする。
        (歩行約6.5㎞、🚻各所にあり) 

        
         JR長府駅前からサンデンバス下関行き約15分、市美術館前(関門医療センター)バス
        停で下車する。

        
         バス停に降り立つと関門医療センター前には、1934(昭和9)年3月14日軍司令部総
        長伏見宮博恭が、海軍志願兵の徴募状況を視察するため、呉より荒天の中、水上偵察機で
        長府町外浦海面に着水して下関に赴かれた旨の塔が立つ。当時はこんな出来事でも碑が建
        つ時代でもあった。

        
         近代捕鯨発祥の地である下関市と長門市が共同制作した「らーじくん」を囲むように、
        関門橋・赤間神宮・海峡ゆめタワー・火の山・角島灯台・角島大橋がデザインされたマン
        ホール蓋。ちなみにらーじくんとは、「くじら」を逆さ読みしたものと思われる。

        
        
         バス停から東方向に櫛崎城跡の本丸跡が見える。

        
        
         櫛崎は長府の南端にあって、周防灘に向かって突き出した半島である。東・南の2面は
        断崖絶壁で、北・南は堅固に人工を加えて人を寄せ付けない要害の地である。
         豊府誌略には、昔日、大内氏の家臣・内藤隆春が在城するとあり。1602(慶長7)年に
        入部した毛利秀元は、長府櫛崎を城地として選定して修築するが、1615(元和元)年幕府
        の一国一城令により破却されて廃城となる。

        
         正面のくじら館は、1958(昭和33)年に建設された体長25m、重さ130トンのシ
        ロナガスクジラをモデルに作製された。この地にあった下関水族館(1956-2000)のシンボル
        的存在で、現在は閉館されてモニュメントとして活用されている。

        
         右手に関門橋。

        
        
         櫛崎城とも雄山(かつやま)城とも称したが、前述のように取り壊され、城だったことを示
        すものは自然石のままの石組み(高さ約8m、長さ110m)が残るのみである。

        
         城郭絵図によると松崎口、浜之坂口、三軒屋口に櫓建てがあったようだが、ここは松崎
        口とされる。

        
         豊功神社境内から東1.2㎞沖合に「千珠(かんじゅ)島」、さらにその3㎞沖合の周防灘に
        「満珠島」の2つの島が浮かぶ。この島は忌宮神社の飛地境内として禁足地であり、現在
        も立入りが制限されている。
         もとは国土地理院と忌宮神社の古絵図では島名が逆になっていたが、現在は整合されて
        いる。

        
         豊功(とよこと)神社の由緒によると、この宮崎の地には古くから串崎若宮(櫛崎八幡宮)が
        祀られていた。1602(慶長7)年毛利秀元が城を構えるにあたり、毛利氏の守護神宮崎八
        幡宮を安芸国より勧請して中殿に祀り、左に櫛崎八幡宮、右に高良大明神を祀って宮崎八
        幡宮と称した。のちに松崎八幡宮と改称する。
         1834(天保5)年毛利秀元の霊祠に豊功大明神の称号が許され、忌宮神社境内に豊功社
        (のち豊功神社)として創建される。1917(大正6)年現在地に鎮座する松崎八幡宮と豊功
        神社が合祀されて豊功神社となる。

        
         松崎口から県立豊浦高校と同校グランドの間を進む。長府藩は豊浦郡の大部分を長府藩
        領としたが、幕府の一国一城の命によって城は取り壊され、隣接する現豊浦高校の敷地に
        居館を構えた。
         1863(文久3)年攘夷の決行に対する報復攻撃に備え、居館を内陸の勝山に移す。

        
         田中隆は中国革命の父とされる孫文を支援したとされ、その邸宅(未完成)があるとのこ
        とで行って見ると、三菱重工の社地となり立入禁止になっていた。
         長府苑は海運業で巨額の富を築いた田中隆(1866-1935)が、イギリスの著名な建築家アレ
        クサンダー・ネルソン・ハンセル氏に設計を依頼し、大正時代に工事が開始された。
         しかし、大戦後の不況の中で破綻を迎え、建築中の西洋館は内装を残して中止となり放
        置された。

        
         孫文蓮の開花時期ではないが長府庭園内を散歩する。(入園料210円)

        
         長府毛利藩の家老格であった西運長(にしゆきなが)の屋敷跡で、小高い山を背にした約3
        1,000㎡の敷地には、池を中心に書院や東屋などがある。

        
         林兼商店(後の大洋漁業)の創始者である中部幾次郎が自邸として購入する。戦後は進駐
        軍(ニュージーランド軍)の司令官宿舎となるが、現在は下関市の所有となり一般開放され
        ている。 

        
        
         池泉回遊式庭園には椿、梅、つつじ、桜、菖蒲、紫陽花、水連、つわぶき、山茶花と四
        季折々に楽しめるように築造されている。
         ここには中国の革命家・孫文が、下関市長府の海運業・田中隆から支援を受けた返礼と
        して、中国の古代ハスの種4粒を贈ったとされる。田中の死後、大賀一郎博士の手によっ
        て発芽させたもので、「孫文蓮」と命名され、当庭園に株分けされて長府に戻ってきた。
         色を楽しむには端境期でよくなかったが、静かな庭園も味わいがある。

        
         日頼寺への道筋の土塀。

        
         長府藩家老・三吉周亮邸宅跡。説明によれば、幕末、20代半ばの若さで長州藩の内政
        ・外交に辣腕を振ったとされる。

        
        
         日頼寺の由緒によると、当初は天台宗で極楽寺と号したが、創建年代は不明とのこと。
        毛利秀元の時代に伽藍が整えられて臨済宗に改められ、毛利元就の法号「日頼洞春」から
        「日頼寺(にちらいじ)」に改称されたという。明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、その後、
        再興されて現在に至る。

        
         塚への参道より長府の町並み。

        
         山門を潜って右の石段を上がると、土盛りされた仲哀天皇の墓陵と伝えるものがある。
        4世紀頃の大和朝廷伝承の1つで、熊襲討伐の際に仲哀天皇が筑紫において急死したため、
        神功皇后がここに仮埋葬したとする塚(殯斂地(ひんれんち))である。

        
         下関の「し」にフグがデザインされたマンホール蓋。

        
         旧野々村家表門とされるやや簡略な形式の薬医門には、左右に毛利家の家紋入りの鬼瓦
        が見られる。幕末に毛利藩邸が移転する際に、この門を拝領し移築したと伝わる。

        
         1792(寛政4)年長府藩は藩校・敬業館を創設する。その後、四ヶ国連合艦隊の襲撃を
        避けて、ときの藩主が勝山に居館を移した際に敬業館も移転する。藩学跡には庶民の子弟
        を教育するために集童堂が移転してくる。入学資格は10歳から15歳までで、在籍者に
        は乃木無人(希典)や桂弥一らがいた。
         1866(慶応2)年敬業館は集童堂を吸収合併し、維新後は豊浦中学校、豊浦高校とへと
        変遷する。

        
         壇具川沿いにある侍屋敷長屋は、長府藩家老職であった西家の分家(馬廻役220石)の
        本門に付属していた長屋で、現在の位置より500mほど南にあったものが移築保存され
        た。
         中央に出入口を配した一見長屋風であるが、構造の重厚さがあり、中間(ちゅうげん)部屋
        の格子窓等は上級武士の住居の趣をよく残している。

        
                 山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く
                      春 夏 秋 冬
                 あしたもよろし ゆふべもよろし
         1932(昭和7)年種田山頭火が長府の近木圭之介邸を訪ね、しばらく宿泊した際に詠ま
        れた句とされる。

        
         壇具川は霊鷲山(りょうじゅせん)の東中腹を発し、長府地域に東流する総延長2㎞の川で
        ある。神功皇后が出陣の際、ここで壇を築いて祭事を行い、これに使った祭具を流したと
        いう古事にちなんで命名されたという。

        
         ちょっと気になる橋。

        
         壇具川に沿って上流へ向かうと、御影の井戸と案内されている。右折して20mほど行
        ったところに、瓦屋根に囲まれた井戸がある。
         菅原道真が太宰府に左遷される途中、忌宮神社の大宮司家に宿泊される。出発の前日に
        壇具川沿いを歩かれ、勧学院の井戸で自分の姿を映し「この井戸で二度と私の顔を見るこ
        とはあるまい」と‥。
         この井戸は人々の暮らしに寄り添い、歳月を重ねてきた井戸でもある。

        
         桂弥一(1849-1939)は長府藩士の子として長府侍町に生まれる。少年時代は乃木無人(希
        典)と共に集童場で机を並べて学び、同じ道を歩んでいたが病を得て断念する。
         牧畜の技術を学び、長府に帰り自営牧場を営みながら、維新の志士たちの顕彰事業に尽
        くす。(旧宅跡)

        
        
         曹洞宗の笑山寺(しょうざんじ)は、廃寺であった潮音寺を毛利秀元が移し、父の母である
        乃美大方(のみのおおかた)の菩提寺とする。1652(承応元)年秀元の父・元清の霊位を移し、
        法号にちなんで現寺名とする。

        
         境内に高さ3.38mもある十三重石塔と、瀧川辨三の彰功碑がある。幕末には報国隊
        の一員として北越戦争に参加したが、維新後は神戸でマッチ製造に取り組む。碑は荒廃し
        ていた寺を修復した縁で建てられたものである。

        
        
         境内の左奥に2代毛利光広、7代毛利師就の墓がある。上段の光広の五輪塔は、墓標の
        高さが4.13mもあって県内最大級ともいわれている。

        
         功山寺は禅宗寺院の古刹で、鎌倉期の1327(嘉暦2)年大内氏によって創建され、当時
        は臨済宗で長福寺といった。室町期の1557(弘治3)年大内義長自刃の場となってから戦
        乱で荒廃したが、1602(慶長7)年長府藩初代藩主毛利秀元が修復して曹洞宗に改宗する。
        秀元死去後に法号から功山寺と改称し、長府毛利氏の菩提所とした。(石碑は回天義之碑)

        
         功山寺の惣門をくぐると左に地蔵堂、坂を登ると三重門の山門があり、前方に仏殿があ
        る。右に法堂と鐘楼、仏殿の裏には長府藩主の墓所がある境内となっている。惣門は木造
        瓦葺き、間口4.4mであるが仏殿の次に古いとされる。(国登録有形文化財)

        
         1773(安永2)年10代毛利匡芳(まさよし)が山門を再建する。

        
         寺伝によると、仏殿は鎌倉期の1327(嘉暦2)年の創建とされるが、内陣柱上部に「此
        堂元応2年(1320)卯月5月柱立」の墨書きがあるとのこと。
         二重屋根の化粧垂木は放射状に配置されていて扇棰と称し、入母屋造の屋根は曲線を描
        き、唐様建築の特徴をみせる。(国宝)

        
         1864(元治元)年11月17日から2ヶ月間、三条実美ら五郷が功山寺に潜居する。同
        年12月15日の夜半、高杉晋作は五卿に告別の挨拶をして藩論統一のため挙兵する。境
        内には王政復古実現のきっかけを作った高杉晋作の銅像が建立されている。

        
         心字池を中心とする池泉式庭園がある。

        
         功山寺にも初代秀元をはじめ歴代6藩主に加え、藩主の正室、側室・子女といった長府
        藩主毛利家墓所がある。
         墓域は土塀に囲まれており、門は不開だが隙間から内部を伺うことができる。墓所の中
        央に毛利秀元、周辺が歴代藩主のようである。

        
         仏殿裏に三吉慎蔵(1831-1901)の墓がある。坂本龍馬が寺田屋で襲われた時、彼を助けよ
        うと自ら重傷を負った。維新後は宮内省御用掛を務め、晩年は故郷の長府で暮らす。

        
         墓所の上部に大内義長(1532-1557の死後、陶晴賢によって大友宗麟の弟である晴英(後に
        義長と改める)が大内家の当主となる。
         しかし、室町期の1557(弘治3)年4月毛利氏に攻め込まれて長福寺(現功山寺)で自害
        する。義長の死により名門大内氏は滅亡する。

        
        
         境内隣りの長門尊攘堂は、1933(昭和8)年地元篤志家の桂弥一が品川弥二郎の遺志を
        受け継ぎ、維新時に活躍した勤王の士を顕彰し、尊王精神の高揚を図る目的で京都の尊譲
        堂にならって創設した。
         鉄筋コンクリート造石貼り外壁、和風屋根は2重瓦葺きで外観全体の構成は功山寺仏殿
                と似ている。2016(平成28)年11月まで長府博物館の建物として利用されてきた。

        
        
         隣接する万骨塔は、明治維新を中心とした国事に命を捧げた名も無き人々の霊を供養す
        るため桂弥一が建立する。
         塚には「一将功成って万骨枯る」の碑と、全国の明治維新関係史跡から寄せられた石が
        供えられている。 

        
         壇具川の鴨と一緒に河口へ下って、城下町長府バス停よりJR長府駅に戻る。


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