小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

共産党が国民から嫌われる、これだけの理由。

2021-11-15 05:49:10 | Weblog
【緊急追記】共産党・穀田国対委員長が共産党の革命理念を否定した
12月1日、共産党の大幹部であり、テレビにもたびたび出演している穀田国対委員長が、記者会見で共産党の革命理念を否定する発言をしたようだ。
本文でも明らかにするが、日本共産党は【二段階革命論】を革命理念としている。第1段階の革命が『民主主義革命』で「日本共産党の綱領は、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破を実現する民主主義革命」と『しんぶん赤旗』に明記している。つまり、日本共産党は、「現在の日本は民主主義の国ではない」と規定しているのだ。
が、穀田氏の記者会見を報じた2日の朝日新聞朝刊は『共産・穀田氏「同じ立命大」 泉氏と同窓アピール』という記事タイトルでこう報じた。

共産党の穀田恵二・国会対策委員長(74)は1日の記者会見で、立憲民主党の泉健太新代表(47)に対して「私と同じ立命館大学の先輩後輩。良き同窓としてつながりが持てればいい」などと述べ、祝意を示した。泉氏が共産との「野党共闘」のあり方について見直す方針を掲げるなか、「同窓」をアピールして秋波を送った。
穀田氏はさらに同大出身者として共産の市田忠義副委員長(78)を挙げ、同大出身者には教学理念の「平和と民主主義」が「共通する土台」としてあるなどと解説。そのうえで「これからも今の自公政治を変えるためにともに力を尽くしていきたい」と続けた。

つまり朝日の記事が誤報でなければ、穀田氏は日本共産党の革命理念に反して、日本は「民主主義の国」であることを認めてしまったことになる。朝日の記者に直接確認はできないため、共産党本部(中央委員会)に電話で確認した上で、「事実ならば除名まではすべきではないが、穀田氏の立場から自己批判は必要だと思う」と伝えたところ、「平和と民主主義の国を目指すと言ったことが、そんなに悪いことですか」と反論された。
もし共産党中央委員会の認識がそうであるならば、朝日新聞が誤報をしたことになり、朝日に対して抗議と記事訂正を要求すべきだし、朝日の記事が正確だったならば穀田氏は少なくとも『しんぶん赤旗』で自己批判し頭を丸めるくらいの必要がある。
なぜなら、共産党の志位委員長は立憲との「共闘」継続について「公党と公党の約束」を堅持することを何度も要求している。一方、共産党綱領は共産党のアイデンティティであり、公党間の約束以上に重要な国民との約束だ。その約束を党の大幹部が反故にしてしまった発言を容認するようであったら、もはや共産党は「公党」とは言えないだろう。(12月3日)



いまさら、と言われるかもしれないが、なぜ立憲・共産を中軸にした野党「共闘」が総選挙で敗れたのか(なお立憲は「共闘とは一度も言っていない」と主張しているが、共産は正式に「共闘」と位置付けている)。
私自身は4年前に立憲に吹いた風は「希望の党」から排除された枝野新党に対する「判官びいき」の風に過ぎなかったと思っているし、4年前に立党の精神として掲げた「永田町の数合わせの論理には与しない」という枝野スローガンを降ろすのであれば、責任政党としての説明責任があるはずだと、選挙期間中に何度も立憲本部に申し入れてきたが、最後の最後まで説明責任は果たされなかった。その結果、小選挙区では議席数を多少増やすことに成功したものの、政党に対する支持基準である比例で大幅に議席数を減らすことになった。
一方、立憲と「共闘」した共産は小選挙区では沖縄1区で議席を維持したが、比例では11議席から2議席減らして9議席になった。比例の得票率も前回の7.90%から7.25%へと0.65ポイント減少した。共産はなぜ国民から嫌われるのか、その原因を探ってみた。

●『民主主義革命』を標榜する共産党が、国政選挙をボイコットしない不思議
実はこの選挙期間中だけでなく、共産党支持者からも、というより共産党員からもしばしば聞くのだが「共産党の党名を変えた方がいい」という声がかなり大きいのだ。とくに高齢の党員や支持者から、そういう声を聞く。
むかしの「トラック部隊」や「暴力革命主義」のイメージが党名にべったりついているかもしれないが、党名だけ変えても中身が変わらなければ「赤ずきんちゃん」でしかない。
たとえば、今回総選挙で共産党はどういう公約で闘ったか。党中央委員会幹部会の総括声明(11月1日)にはこうある。
「選挙戦でわが党は、コロナから国民の命と暮らしを守る政策的提案、自公政治からの「4つのチェンジ」――①新自由主義を終わらせ、命・暮らし最優先の政治、②気候危機を打開する「2030戦略」、③ジェンダー平等の日本、④憲法9条を生かした平和外交――を訴えぬきました。どの訴えも、国民の利益にかない、声が届いたところでは、共感を広げました」
4番目の「憲法9条を生かした平和外交」を除けば、どれをとっても自民の公約と大きな差異を感じない。一般に国民が抱いている共産党のイメージからはかなりかけ離れていると言えよう。なぜか。
実は共産党が党名を変えないのは、もちろん最終的に目指しているのが「共産主義革命」だからではある。
ところが不思議なのは、その前段階として「民主主義革命」が必要と考えている(「二段階革命」論)ことである。だから、今回の総選挙でも、どの政党とも代わり映えのしない公約を掲げており、そうした公約は実現そのものが目的ではなく、「民主主義革命」のための手段でしかないということなのだ。
つまり共産党は「いまの日本は民主主義国家ではない」という認識に立っているようなのだ。
民主主義とは選挙によって民意を反映する制度を意味する。だから共産圏の国でも表面上は民主主義を否定していない。中国でもいちおう中国共産党以外の政党を認めているし(ただし、共産党以外の政党から選挙に出馬しようとすると様々な妨害があるようだが)、北朝鮮に至っては正式国名(朝鮮民主主義人民共和国)でも「民主主義」をうたっているくらいだ。
ただ、いわゆる「民主国家」においても民意を反映するための選挙制度はまちまちであり、日本の場合は衆院選挙は小選挙区比例代表並立制で、立候補者は小選挙区と比例代表の重複立候補が認められている。が、参院選挙のほうは選挙区と比例区の重複立候補は禁止されており、選挙制度そのものに矛盾がある。いずれにせよ、共産党が「日本は民意を反映する仕組みの選挙制度ではない」と主張するのであれば、国政選挙をボイコットするのが筋のはず、と私は思っている。

●共産党が目指す「民主主義革命」とは~
実は共産党員や支持者の多くも、「日本は民主主義の国ではないか。なぜ民主主義革命が必要なのか」という疑問を抱いている。そうした疑問に正面から答えたのが「しんぶん赤旗」である(2007年12月13日)。

日本共産党の綱領は、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破とを実現する民主主義革命が、「労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって実現される」こと、「日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる」ことを明らかにしています。

ふつう選挙によって政権が交代することは「革命」とは呼ばない。共産党が主張したい「革命」とは「権力構造の変革」と考えられるが、それが武力の行使や威嚇によらず選挙によって行われたら、その新しい権力はつねに選挙の洗礼を受けなければならない。ふつう「革命」とは永続的な政治権力構造の変革を意味し、もし共産党が現在の選挙制度の下で「日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占める」ことができたとしても「安定した」権力を維持するには選挙制度そのものを中国や北朝鮮の様に非民主的なものに変える必要が生じる。
たとえ共産党が主張する民主主義革命の目的が「異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破」にあったとしても、そうした政権交代が実現し、しかも「共産党と統一戦線の勢力が国会で安定した勢力」を維持するために選挙制度を非民主化したりすれば、当然そうした権力に対する国民の怒りを背景に「反革命」の動きが生じる。彼ら「反革命」勢力は軍隊(自衛隊)や警察組織などの国家暴力組織を擁しており、なまじ中途半端な「平和的手段」による革命を実現したら、かえって壊滅的な打撃を受けることは必至だ。
単なる政権交代であれば、かつての野合政権・細川内閣や野合政党の民主党政権のような一時的なものだったら自民党も国家暴力組織である自衛隊や警察権力を発動して政権転覆をはかろうなどとはしないが、仮に共産党が目指すような政権交代が実現し、しかもその勢力の安定した維持を図ろうとしたら間違いなく自民党は国家暴力組織の発動をいとわない。
つまり共産党が第1段階として目指す「民主主義革命」とは「共産党と統一戦線が国会で安定した過半数を占める」ために民主的な選挙制度を破壊することにあるとしか、文理的には解釈できないのだ。
さらに問題なのは、共産党が「民主主義革命」の次に「共産主義革命」を目指していることだ。共産党が夢見る「民主連合政府」が「国会で安定した過半数」を占めることができたとして、では次に段階の「共産主義革命」では「民主連合政府」から共産党以外の「民主勢力」をすべて排除して共産党の独裁政権を構築することを意味する。それ以外に第2段階の「共産主義革命」の目的についての文理的解釈はありえない。つまり第1段階の革命目標である、共産党の勝手解釈による「民主主義」すら否定しようというのが、「共産主義革命」の目的ということになる。
そんなこと、自民党が国家暴力組織を動員するまでもなく、民主的な選挙で共産党は国民から排除される。少なくとも、日本は自由と民主主義が保証されている国であり、共産党も自由に活動できている。共産党だけが自由に活動できる社会を、国民が民主的と考えるわけがない。確かに私も「異常な対米従属」の状態に日本があるとは思っているが、私も含めて日本国民の大多数はアメリカとの友好関係を破壊したいとは思っていない。共産党は「異常な対米従属」から脱した日本の外交的立ち位置をどうしようと考えているのか、それが見えないから国民の多くは「親米」から「親中」に移行しようとしているのではないかという疑念を抱いている。共産党はしばしば「中立」を重視するが、日本の地政学的地位の中で、完全「中立」という選択肢はありえない。共産党は「中立」的外交の立ち位置について明確に共産党の考えを示すべきだ。

●マルクスが間違えた「土地は根源的生産手段」学説
共産主義思想の教祖・マルクスは『ゴータ綱領批判』で、社会主義・共産主義への過渡期においてはプロレタリアによる独裁が必要だと主張している。
「資本主義社会と共産主義社会とのあいだには、前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治上の過渡期がある。 この時期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない」
実はこの規定は「反革命勢力」の暴力組織に対抗するためには労働者階級が軍事力を含むあらゆる権力を奪取する必要があると考えての規定だったが、実質的には労働者階級の指導団体による独裁につながるという批判が当初からあった。とくにロシア革命を実現したレーニンがプロレタリア独裁を公式に革命政権の権力規定としたことに対してトロツキーは「代行主義だ」と批判した。
が、レーニン死後、スターリンらとの権力闘争に敗れてトロツキーは亡命、国外からスターリン批判を続けたが最後は暗殺される。
実はマルクスが【プロレタリア独裁=共産党独裁】と考えていたかどうかは不明である。マルクスは共産主義思想の教祖と位置付けられているが、私はアダム・スミスの資本主義市場経済に対する社会主義計画経済の提唱者としてみている。
もちろん政治思想家としても共産主義の教祖としての地位は揺るがないことは承知の上だが、そういう面での思想は欠陥だらけである。たとえば『剰余価値学説史』という大部の著書でマルクスは、「根源的生産手段である土地は私有を認めるべきではない」と主張し、この思想が共産圏ではバイブルとなり、中国も北朝鮮も土地は国有化している。
が、マルクスがこの定義で前提にした土地とは当時黎明期にあった資本主義社会で工業立地の土地のことであり、例えば住居の立地である土地は根源的消費手段であり(マルクスが杉田水脈のように子供を作ることが「生産活動」と考えていた場合は別だが~。ただ、その場合でも生殖活動が不可能な子供や高齢者にとっては土地は根源的消費手段でしかない)、また工業生産でも「消費を伴わない生産活動」はありえないし、人の手が入らない荒れ地や山岳地帯の土地は生産手段にも消費手段にもなりえない。
土地についての定義もさることながら、ひとが行う生産活動(ただし「生殖活動」は除く)は何らかの付加価値を生まなければ生産活動を行う意味そのものがないし、生産活動の発展もありえず、その「付加価値」を「剰余価値」と解釈して、だから資本家による「搾取」としたのも明らかに間違いである。
実際の経済は、いまは中国も市場経済を導入しており、資本主義国も社会主義的「計画経済」を取り入れている。日本でいえば需要の減少に伴い農家を保護しながら供給量を計画的に削減した「減反政策」など、典型的な社会主義政策そのものである。つまり「現代資本主義」も「現代社会主義」も事実上「混合経済」であり、市場経済のメリットと計画経済のメリットをうまく融合させた国が経済も成長するし国民生活も豊かになると、私は考えている。

●「プロレタリア独裁」論が共産党独裁政治の理論的基礎
マルクス自身は労働者や市民による権力奪取が資本家や貴族、大地主などの武力を伴った「反革命」によって圧殺された経緯(例えば「フランス革命」)から、革命勢力は政治権力を掌握するだけでなく軍事力も含めた絶対的権力を掌握する必要があると考えたようだが、絶対的権力を掌握した後、どう民主主義制度に移行していくべきかのプロセスについてはいっさい指針を出していない。むしろ新しい政治権力である共産党の独裁支配につながらざるを得ない「社会主義社会」「共産主義社会」についての定義を、やはり『ゴータ綱領批判』で行ってしまったのだ。マルクスとしては、取り返しのつかない大失敗であった。マルクスは「ゴート綱領批判」で社会主義社会、共産主義者下における「生産と分配」の関係を、こう定義している。
「社会主義社会においては、人々は能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」
「共産主義社会においては、人々は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」
話がちょっとずれるが、日米貿易摩擦の後、アメリカに進出した自動車メーカーやコンピュータメーカーの「アメリカにおける日本型経営」の実態を取材するため私が訪米したとき、現地の日本人経営者や幹部から日米の雇用関係の違いから生じる「人材育成のむずかしさ」をいやというほど聞かされた。アメリカでは人事権を直属の上司(ボス)が握っているため、自分より能力がある部下に絶対的忠誠を求める習性があるというのである。そのため能力のある部下が自分に逆らおうとしたら、たちまち有能な部下をクビにしてしまう。もちろん、その上司にも上司がいるわけだから、孫部下の能力を高く評価した場合は直属の部下をクビにして孫部下を出世させることもしばしばある。どこかの国の人事制度とそっくりではないか。
この訪米取材が先だったか、映画が先だったかは覚えていないが、マイケル・ダグラスの主演映画『ディスクロージャー』を彷彿させるケースがままあるというのだ。映画のストーリーをウィキペディアから引用する。

シアトルのハイテク企業の重役トム・サンダース(マイケル・ダグラス)は、今までの業績から昇進はほぼ確実と思われていた。だが、そのポストに就いたのは彼ではなく、本社から新たにやってきた女性メレディス・ジョンソン(デミ・ムーア)だった。実は彼女とトムは10年前に激しく愛し合った仲で、彼はこの事実に衝撃を受けるのだった。その夜、メレディスのオフィスに呼び出されたトムは、次第に彼女に誘惑されていくが、彼はこの誘いを拒否し、その場を去るのだった。しかし、次の朝、事態は急変してしまう。なんと彼がメレディスに対して、セクハラを行ったという訴えがあがっていたのだ。しかも、この訴えを起こしたのは、他でもないメレディス自身だった。会社での高いポストと、女性という立場を利用した彼女の攻撃によって、トムは仕事も家庭を失いそうになる。

ハリウッド映画らしく、その後ドンデン返しがあるのだが、実は資本主義の権化のようなアメリカでの上下関係は、共産圏の権力機構における上下関係とそっくりなのだ。直属の上司に逆らったら「おしまい」という封建時代を思わせるような人事権の「鉄のピラミッド」規律がアメリカでも共産圏でも構築されているのだ。日本共産党でも、「野坂→宮本→不破→志位」というピラミッドの頂点が絶対崩れない仕組みはマルクスがつくってしまったと言える。その理論的根拠はマルクスの「社会主義社会」「共産主義社会」における「生産と分配」の定義に集約されているからだ。
確かに「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」とか「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という「生産と分配」の制度そのものは、もし本当に公平に実現されるのであれば理想的であることは私も認めないわけではない。共産主義社会における「必要に応じて受け取る」は別とすれば、「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」制度は資本主義社会における企業経営者にとってもきわめて合理的であり理想的な制度といえる。
だいいち、アメリカ型「同一労働同一賃金」の「生産と分配」のルールは、多民族国家だったからこそ自然に構築されたものと言える。

●「成果主義賃金制度」には含まれていなかった「同一労働同一賃金」
2014年5月、安倍内閣(当時)はアベノミクスの「第3の矢」である「成長戦略」の柱として「成果主義賃金制度」の導入を打ち出した。
当時、OECDの中でも日本の労働生産性の低さが指摘されており、無意味な長時間労働が社会問題にもなっていた。で、政府の諮問機関「産業競争力会議」(議長・安倍総理)が「労働時間ではなく、労働の成果に応じた報酬制度の確立」を提案したのである。このときはまだ、「同一労働同一賃金」は諮問に含まれておらず、野党やメディアの多くは「残業代ゼロ政策」だと批判していた。私は同月21日から3日連続のブログ『残業代ゼロ政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結び付けることができるか』でこう書いた。
「私は基本的に、その方針については賛成である。が、どうして安倍総理はいつも方針(あるいは政策)が中途半端なのだろうか。総理の頭が悪いのか、それとも取り巻きのブレーンの頭が悪いのか。あっ、両方か…」(※当時はまだ3日連続でブログを書く体力があった。いまは見る影もないが~)
大企業で成果主義賃金制度を初めて導入したのは1983年の富士通である。その後、成果主義賃金制度を導入する企業が増え始めたが、バブル崩壊によって「能力の高い従業員に、能力に見合った仕事を与え、その成果に応じて報酬を払う」という意味合いが次第に薄れ、人件費の抑制手段として企業が導入するケースが増えだした。そのため厚労省は2008年の『労働経済白書』で「企業の対応は人件費抑制的な視点に傾きがちで、労働者の満足度は長期的に低下傾向にある」と指摘したほどだ。

実は私がサラリーマンだった時代、従業員300人ほどの中小企業だったが、労働組合の初代委員長をして体を壊し(休職期間中の賃金は無税で会社が支給してくれた)、復帰後、新設の社長室(室長は社長の義弟に当たる常務)に配属されたことがある。27,8歳のころだったと思う。
そこで新商品開発プロジェクトのチェックや広告宣伝、人事や労務など、やりたいことは何でもやらせてもらった。今から考えると自分でも無茶をやったなと思うが、消耗部品の価格改定を一人で勝手にやり、数10ページにわたる価格表を勝手に印刷作成までしたことがある。いま実はつくづく思うのだが、個人としてはプリンターの使用度が非常に多い方だと思うが、消耗部品はインクである。メーカーは同一品番のインクの価格は上げにくいためか、次々にたいして機能や性能がアップするわけでもないのにプリンターの新製品を発売する。目的は消耗部品であるインクをそのたびに実質値上げすることにある。で、私は「そういうことを続けると、長い目で消費者(顧客は一般消費者ではなく工場だったが)の信頼を失う」と考え、同じ性能・機能の消耗部品の値段を統一してしまったのだ。社長にも誰にも相談せず勝手にやってしまったが、結果的にはユーザーから「これから安心して新製品に乗り換えることができる」という声が殺到し、社長から褒められたことがある。
そんな無茶をやってきた私だが、労組との賃金交渉を私が今度は会社側で行うことになった。さすがに独断で賃金交渉をまとめるわけにはいかず、社長と相談しながら交渉をまとめたが、このとき私が社長を説得して「賃上げ額については労組にできるだけ歩み寄る代償として能力主義賃金体系への移行」を労組に呑ませた。事務職や営業職が大半の本社は問題なかったが、工場の従業員の反発が大きく、交渉は難航したが、「賃金を下げることはしないし、ベースアップは維持する」という約束をして何とか交渉をまとめた。
実は、そこから先が問題だった。私は完全能力主義賃金体系を目指していたので、年齢や学歴、性別、勤続年数で自動的に決まる基本給制度を廃止し、役職手当以外の諸手当(職務に伴う諸手当・扶養手当・住宅手当・通勤手当なども含む)を本給に一本化して廃止することにした。つまり属人的要素をすべて廃止してしまうことが目的だった。
が、ここで大きな壁にぶつかった。日本では通勤手当が非課税なのだ。その一方、住宅手当は課税対象の所得になっている。ちょっと考えればすぐわかることなのだが、会社(都心にあることを前提)への通勤時間と通勤費、住宅費は逆比例の関係にある。
簡単に言えば、会社への通勤時間が30分程度の近距離に住居を構えた場合、住居費(基本的に家賃)は高くなるが、通勤費は安い。住宅手当は一律であり、通勤手当は実額である。しかも片道通勤に1時間以上かけて出社する従業員と30分で出社できる従業員の労働効率は明らかに差が出る。企業側のコストとして考えたら、会社に近いところに住居を構えてくれた従業員に対する属人的コストは安くなるし労働生産性も上がる。そうした賃金制度を導入するための税制上の大きな壁が日本にはあるのだ。
我が国労働基準法では賃金は基準内賃金と基準外賃金に区別されている。基準内賃金とは労働の対価となる賃金で残業代計算の基礎となる賃金のこと。労基法によれば「家族手当、通勤手当、その他厚労省令に定める賃金(住宅手当など)が基準外賃金に当たり、残業代の対象にならない。
私はそこで考えた。いっそ、通勤手当を一律化してしまおうと思ったのだ。通勤手当が課税対象所得に含まれるのであれば問題ないのだが、そういう方法をとると従業員に不利益になる。で、とことこ所轄の税務署に出かけて行って、税務署長と直談判した。さすがに、20代の若造が簡単に署長に会えるわけがないので、社長にアポは取ってもらった。税務署長は私の考えに真剣に耳は傾けてくれ、その合理性は認めてくれたが、通勤手当の一律支給は認めるわけには絶対に行かないとの回答。ここで私の完全能力主義賃金体系移行へのチャレンジは終わりを告げた。
アメリカの賃金体系や所得税制がどうなのかまでは私も調べようがないが、自己責任が基本のアメリカではおそらく属人的要素の基本給や諸手当はないのではないかと思う。

●成果主義賃金制で安倍晋三はマルクス主義者に転向したのか~
ちょっと私事に及びすぎた。本論に戻す。
 マルクスの社会主義社会における「生産と分配」についての定義――「人は能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」。アダム・スミスやケインズもNOと言わないだろう、この定義。
が、問題は例えば、このブログを読んでくださっている方の「能力」は自分で決められますか? また自分の労働の成果に対する報酬額(働きに応じて受け取る報酬)も、あなたが自分で決めることができますか?
こうしてマルクス主義「生産と分配」方式の矛盾が爆発したのが、旧ソ連のコルホーズ(集団農業)・ソホーズ(国営農業)であり、中国の人民公社(集団農業)だった。いずれも土地の個人所有は認められなかったから、「同一(時間)労働同一賃金」制を導入したため、汗水流して一生懸命働いても、ダラダラ働いているマネをしても同じ賃金だから、労働生産性が上がるわけがない。まだ旧ソ連や中国が職業や地位に関係なく、すべて「同一労働時間同一賃金」制だったら、理想と現実が乖離したとしても、徹底した思想教育によって「労働の価値は職業・職種・地位によらず同一時間同一賃金」を徹底すれば、ひょっとしたら労働意欲が報酬目的ではなく「自己実現」にあるという考えが国民に浸透し、マルクスが本当は目指したのかもしれない公平平等な社会が実現できた可能性がないとは言えない。
たとえば習近平自身が、貧農とまでは言わないが、せめて中農や都市の平均的サラリーマン給与水準の報酬しかとらなければ、中国は発展しえない途上国として、高度な文化的生活は無理としても白黒テレビくらいは全家庭に普及する程度の生活水準に全国民が等しく達していただろうと思う。結局、マルクスが目指した社会とはそういう社会にならざるを得ないということだ。
日本共産党は、党職員の給与をマルクスの定義に応じた「時間単位一律性」を採用しているか。たとえば志位委員長の時間当たり賃金と、党本部で働いている職員の時間当たり賃金を同一にしているか。
そうではなく、「働きに応じて」が労働の成果に応じてと解釈するなら、安倍の「成果主義賃金制」と基本的な考えは変わらないということになる。むしろ「安倍総理はマルクス主義的賃金体系への転換を始めた」と高く評価すべきだった。そうでなければ共産党内の給与格差の理由の説明がつかない。
だから共産党は、「いや安倍晋三がマルクス主義的賃金制度を採用したのだ」というのであれば、「残業代ゼロ政策」は支持しなければ矛盾が生じる。例えば同じ仕事でも100の労働成果を上げるのに、Aは8時間労働で終わらせ、Bは10時間かかったとする。「同一労働同一賃金」とはAとBが働いた時間ではなく、同じ成果を上げた結果に対する対価として同一賃金にする制度だと私は考えている。だから安倍が「成果主義賃金制」を国会に持ち出した時、私は賃金体系を「欧米型同一労働同一賃金」に改めるべきだと主張したのだ。
その後、安倍は2020年3月、成果主義賃金制を「高度プロフェッショナル制度」に改め、「働き方改革」と称して「同一労働同一賃金」をベースにした「年俸制」賃金制度を導入した。ただし適用職種は高度に専門的知識を必要とし、労働の成果を労働時間を基準にするのが困難な職種(金融関係の専門職、アナリスト、コンサルタント、研究開発など)に限定した。
が、もっと重要なのは、日本型雇用・賃金体系である年功序列型(ベースアップや定期昇給)や封建時代の家族雇用形態を色濃く残した基準外賃金(家族手当・住宅手当・通勤手当)などを基本的に廃止し、純粋に労働力の対価としての賃金制度に移行するべきだった。そのためには労働基準法の抜本的改正や所得税法の改定も必要になる。そういう部分に目をつぶった、中途半端な改定にとどまったと言わざるを得ない。

●共産党が国民から警戒される本当の理由
実は国政選挙においても地方選挙においても共産党が掲げる公約・政策はかなりリベラルで、正直、私も支持できる要素が多い。
最近、特に今年9月の自民党総裁選以降、誤った理解に基づく「リベラル攻撃」がネトウヨなどから執拗に行われ、国民の意識に【リベラル=革新=左翼】というイメージがかなり浸透してしまった。
実はアメリカでも過去、【共和党=保守】【民主党=リベラル】という図式化されたイメージが形成され、共和党陣営から「民主党はリベラルだ」とレッテル張りが行われて民主党が劣勢に立たされた時期がある。
が、本来の「リベラル」は「自由主義」の代名詞であり、人々の個性や自由な発想を重視する思想で、左翼思想ではない。だから人によって「自分は保守リベラルだ」とか「革新リベラルだ」と立ち位置を明確にしているケースもあるし、私自身に関していえば「ど真ん中のリベラル」を標榜している。が、私の考え方は右寄りの人から見れば「左」に、左寄りの人から見れば「右」に見えるようだ。とくに安全保障問題に関していえば、ひとによっては「極右よりさらに右寄り」と見えるような主張もしてきた。例えば20年8月14日の『終戦から75年、私たちはあの戦争から何を学んだのか?』と題する2万字を超えるブログでは「日米安保条約を片務的なものから双務的なものに変え、日本もアメリカ防衛の義務を果たすためにアメリカに自衛隊基地をつくり、基地協定も結ばせるべきだ」と極右団体も目を回しそうな主張すらしている。実際、日本政府がアメリカにそう主張したら、アメリカが国内に自衛隊基地の設置を認めるわけがないし、そうなれば在日米軍基地の目的が日本防衛のためではなく、実はアメリカの東南アジア覇権のための軍事拠点としての意味の方が大きいことも明々白々になる。
共産党も「基地反対」は主張するが、基地問題の真相を浮き彫りにしない限り、日本は対米従属から脱して真の独立国家としての矜持ある外交を行うことが不可能だということを証明できないから、主張が「スローガン止まり」に終わり、実効性を伴う運動体を形成することができない。
私は自衛隊を「国際災害救援隊」に改組することが、現代の国際社会状況下では最大の「安全保障策」になると考えているが、共産党の「非武装中立」論は空理空論でしかないとも考えている。現に、「永世中立国」のスイスは国民皆徴兵性・国民皆武装で国を守っており、ただ「永世中立」を宣言しただけで軍事的防衛力を保持しなかったヨーロッパの小国が過去、他国に蹂躙された歴史的事実も無視しているからだ。
国民の多くは、共産党のリベラルな主張の部分についてはおそらく支持できる要素を感じていると思うが、そうしたリベラルな主張が共産党の場合「赤ずきんちゃん」ではないかとかえって警戒されるのは、最終的には共産党の独裁権力をつくろうとしているのではないかという危惧を捨てきれないからだ。
 共産党が、独裁政権を意味する「共産主義革命」路線を放棄しない限り、共産党が多くの国民の支持を得ることは不可能と思われる。