小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

今年最後のブログ――菅政権が年越しで積み残した3つの政治課題

2020-12-28 10:22:34 | Weblog
これまでの年末は、それなりに新しい年への期待と新しい年の努力目標に向かう気持ちが高まるものだが、残念ながら、そういう明るさをまったく感じない。コロナの感染がどこまで広がるのか、メディアは危機感を募らせる一方だ。
というわけで、新しい年に積み残した課題について、今回のブログで整理しておく。この正月休暇中に目からうろこを落としてほしい。

●コロナ封じ込めに、なぜガースーは失敗したか。
年末に向かってコロナ感染者数が急増している。感染状況は安倍前政権が発令した緊急事態宣言の時よりはるかに悪い。にもかかわらずガースー政権は緊急事態宣言を発令しようとしない。感染状況がそこまでは悪化していないという常識外れの認識だからだ。
そもそも「Go Toトラベルが感染拡大の主要な原因だというエビデンス(証拠)はない」とうそぶき、最後の最後までGo Toトラベル中止に抵抗して国民の命より経済活動を重視してきたガースーだから、彼の認識基準では国民の半数くらいが犠牲にならないと、危機的状況と認識できないのだろうか。
私が一つ残念に思うことがある。今年の流行語大賞は「3密」になったが、安倍政権がGo Toトラベルを前倒しして7月にスタートさせたとたんコロナの「第2波」が日本を襲い、8月中旬にピークを迎えてGo Toトラベルのせいではないかと一部で声が生じたときに、この迷言を発していたら、今年の流行語大賞は「エビデンス」が選ばれていた可能性が高かったことである。
実は私は「ソーシャル・ディスタンス」が大賞に選ばれるのではないかと思っていた。というのも、年かいもなく若い女性にそっと近づくと「ソーシャル・ディスタンスを取って!」とはねつけられるので、外出先で私が一番耳にした言葉が「ソーシャル・ディスタンス」だったからだ。「マスク美人」という言葉は昔からあるが、いま老若男女を問わずみんなマスクをしているから、若い女性はすべて美人に見える。だから今年は痴漢大流行の年になったのではないかと思っていたが、実態はそうでもなかったようだ。リモート・ワークとか時差出勤が増えて、電車の中がすし詰め状態にあまりならなかったかららしい。そういえば「リモート・ワーク」が大賞に選ばれてもよかったと思う。大賞の
選考委員が英語苦手人類なのかもしれない。
冗談はともかく、ガースーの非常識さはGo Toトラベルの一時停止を突然発表した当日に「定員」オーバーの会食をはしごしたことにも表れている。私自身は「会食は5人以内」という政府の要請そのものが、感染防止策としてはピントが外れていると思っているが、国民に会食の人数制限を要請した当のご本人が堂々とルール違反の会食を3回もはしごして「自分は感染防止対策を取っているから大丈夫」とうそぶく感覚が、私には信じがたい。
基本的に、安倍前政権からコロナ対策が非常識だった。コロナ対策の基本は「隠れ感染者」(無症状の感染者のこと)をいち早くあぶりだして健康な人との接触を防ぐ手立てを打つことだ。そのためにはPCR検査を増やすことをすべてに優先させるべきだった。
が、政府がやってきたことはせいぜい、PCR検査能力を拡大することでしかなかった。27日時点の我が国のPCR検査能力(検査可能最大件数)は112,953
件だが、当日の検査実施数は32,677人でしかない(これは日曜日のせいでもある。平日は6万人以上を検査している)。それでも平日の検査実施数は最大能力の55%程度しか実施していないのだ。つまり検査能力の44%は「宝の持ち腐れ」状態なのだ。なぜか。

●日本でPCR検査を受けるためのハードルが高い理由
なぜか政府(厚労省)は世界各国の感染者数は公表しているが(データは外務省)、世界各国のPCR検査実施数は公表していない。秘密主義の日本でも感染者数や重症者数、死者数だけでなく、PCR検査の最大能力や検査実施数を毎日発表しているくらいだから、「国民の知る権利」「国民に知らせる義務」を重要視している欧米諸国がPCR検査数を公表していないわけがない。政府(厚労省)が海外のPCR検査に関するデータを明らかにしない、というより「明らかに出来ない」理由を、私が明らかにしてしまおう。
保健所の既得権益を守る――その一言に尽きる。学術会議会員の「既得権益」とやらは寡聞にして承知していないが、保健所の既得権益だけは明確である。健康保険行政を担当した厚労省職員や地方自治体の職員の天下り先として欠かせないからだ。だから、世界中でコロナが感染し始めた今年2月ごろ、政府はまずPCR検査体制の拡充を考えるべきだったのに、PCR検査は保健所と、最初から決めてかかり、保健所以外の検査を認めなかった。
実は私は日本最大の政令都市・横浜市の住民だが、3月中旬、午前中は何ともなかったのに、ちょうど正午前後から体調がおかしくなり、熱を測ったら39.5度の高熱だった。近くのかかりつけの内科クリニックに電話し、「もしコロナだったら、ほかの患者さんに迷惑かけるので診療時間外に診察してほしい」と頼んだ。が、電話口に出た受付の方が言うには「当院ではコロナの診察はできません。横浜市のコロナ・コールセンターに電話してください」と言われ、電話番号を教えてくれた。で、すぐに電話をして状況を伝えると、聞かれたことは3点だけ。
① 最近、海外渡航歴があるか?→「ない」
② 年齢は?→「79歳」(現在は80歳)
③ 持病は?→「高血圧・痛風・前立腺肥大」
コールセンターの方はご親切に「あなたはPCR検査の基準に達しませんか
ら、数日自宅で安静にしてください」という宣告を下してくれた。
私はとりあえず高熱を下げるため、常備薬の風邪薬を飲んだ。風邪薬は解熱作用もあるからだ。幸い、翌日には38度前後に下がり、そういう状態が1週間ほど続き、平熱に戻った。
その後、知ったのだが、横浜市には保健所が1か所、横浜市役所にしか付設していないのだ。人口375万人の市民のPCR検査をできる施設が1か所しかない。そりゃ、カジノでぼろ儲けしなければ市民の健康に責任が持てないという林市長の考えはよくわかる。
あっ、ゴメン。年のせいですぐ勘違いする。林市長のカジノを含むIR施設誘致の目的には「保健所増設」は入っていなかった。「自分の退職金を確保するため」という目的は入っていたかどうか、覚えていない。
いずれにせよ、当初政府はPCR検査は保健所しか認めなかった。だから保健所が1か所しかない横浜市の検査ハードルは日本1、いやギネスブッククラスのダントツで世界1位だった(今は大学病院など地域医療センター的役割を担っている総合病院にも検査を依頼しているが)。
こんなことを書きながら、クラスター(集団感染)が発生したところはどんなところだったか、考えてみた。コロナ患者を受け入れた総合病院、老人ホーム、カラオケ・スナック(老人の憩いの場所である昼カラを含む)、ホステスやホストの接客業(いわゆる「夜の街」)などだ。少なくとも保健所でクラスターどころか感染者が出たという話すら聞いたことがない。はっきり言ってPCR検査は危険な作業ではない。それをあたかも危険な仕事であるかのような喧伝をして、保健所に検査を独占させてきたのだ。そういうのを「既得権益」という。誰か、ガースーに教えてやってくれ。

●なぜガースーは緊急事態宣言を渋るのか?
日本がもうすぐ感染大国になるエビデンスを明らかにしよう。私は6月中旬頃から厚労省発表のコロナ関係のデータを取り続けている。
6月15日は、PCR検査実施数は4,908件で感染が判明した人は73人。緊急事態宣言の発令で、ある程度感染拡大を抑え込みに成功していた時期だから感染者数も少ない。この日の陽性率(検査で感染が判明した比率)は1.5%と極めて低かった。
ついで「第2波」がピークに達していた8月15日は、PCR検査実施数が11,750件で、感染が判明した人数は1,133人。陽性率は9.6%に達している。
そして直近の12月25日は検査数は63,512件で、感染者数は3,849人。陽性率は6.0%である。「第2波」の8月に比べれば陽性率は下がっているが、検査数は5.4倍に増えている。(なお参考記録として27日は検査数32,677人で感染者数3,694人。陽性率は11.3%に達している)
常識がある人なら理解できると思うが、PCR検査数を増やすということは、検査を受けるためのハードルを低くすることを意味している。だから検査を増やせば増やすほど陽性率は下がる…はずだ。
私が一貫して分科会に統計学者を入れるべきだと主張しているのは、PCR検査数の増加に伴って陽性率がどのくらい下がれば感染状況が良化しているのか、それとも悪化しているのかのエビデンスが得られるからだ。分科会に統計学者をこれから入れるのが難しければ、厚労省が独自に大学に依頼して統計学的分析をなぜ頼まないのか。
そうすれば、「第3波」と言われている現在の感染者の急増が、実は現状維持にすぎずPCR検査数を増やした結果かもしれないし、やはり緊急事態宣言を発令しないと大変なことになる状況かが、確実なエビデンスで示せる。
私の直感では、PCR検査数の増加に対して8月の「第2波」のピーク時に比して下がり方が小さすぎる感じがする。緊急事態宣言で感染をある程度抑え込んだ6月中旬の陽性率が1.5%だったことを考えると、8月のピーク時に比べてPCR検査数を5.4倍に増やしていながら陽性率が6%もあるということは、感染状態は8月の「第2波」ピーク時より悪化していると考えるのが自然ではないか。分科会に統計学者を入れないのは、感染状態のエビデンスが明確になることを恐れているのか、ガースーよ。

●学術会議会員の任命拒否でガースーが放った流行語大賞並みの「迷言」
ガースーが日本学術会議が新会員として推薦した105名の学者のうち6名を任命拒否した「任命権」問題も、まだ尾を引いている。
日本学術会議は戦後の1949年、戦前・戦中の科学者の軍国主義への傾斜を反省して設立された「学者の国会」と呼ばれた学術団体である。当初は研究者たちによる直接選挙で会員が選出されたが、1983年に日本学術会議法が改正され、「優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し」「内閣総理大臣に推薦するものとする」(17条)と選考方法が変更された。
問題が生じたのは同法7条の「会員は日本学術会議が選考・推薦し、内閣総理大臣が任命する」との条文を、「総理大臣に任命権がある」と解釈変更し(法改正を行った故・中曽根康弘総理は国会で「総理大臣の任命は形式的な行為に過ぎない」と答弁した)、ガースーは「総理に任命権がある」と主張して安保法制や共謀法に反対の姿勢を明確にしていた6人に対して任命拒否した。
この問題はかなり複雑で、基本的に法解釈として総理に任命権があるのか否かという問題と、仮に総理に任命権があるとした場合、日本学術会議の選考権(学術会議法で認められている学術会議の選考権を総理が侵害することにならないか)についての問題に分けて考える必要がある。
まず簡単な方から片付けよう。仮に法解釈の変更によって総理に任命権があるとして、学術会議法17条に明記されている選考基準とは別の選考基準を総理が恣意的に設けることができるのか、という問題だ。
ガースーは、学術会議の会員について、会員選考の偏り(女性会員が少ない、私立大学の研究者が少ない、地方の研究者が少ないなど)を指摘したが、ガースーが任命を拒否した6名のうち女性が1人、私立大学の学者が3人含まれている。国会や記者会見でそうした矛盾を突かれると、ガースーは「人事のことだから、お答えできない」と逃げ、また「総合的・俯瞰的観点から判断した」との迷言も残した。
よく考えてみれば、「総合的・俯瞰的観点」は争点外しの名文句とも言え、流行語大賞の本命候補になってもよかった。安倍さんも、「桜を見る会」前夜祭で、安倍事務所が会費を負担することにした秘書について「総合的・俯瞰的観点から事務所が費用の一部を負担すべきと判断した、と聞いている」と答弁すればよかった。
宮崎健介氏やアンジャッシュ・渡部建氏、東出昌大氏も不倫についてメディアから追及されたら「総合的・俯瞰的観点による行為だ」と、記者たちをけむに巻けばよかった。政治家も何か問題を起こして国会や記者会見の場で説明責任を求められたときの言い訳のための常とう句が、「秘書が」「秘書が」から「総合的・俯瞰的観点です」に代わるのでは…。

●日本学術会議を政府機関から除外すべき理由
私は実は現在の学術会議の在り方には疑問を持っている。「会員」になることによって何らかの「既得権益」が生じるのか否かは不明だが、ガースーが勝手にいろいろ勘違いしていたことは事実だ。たとえば位置づけは確かに「特別職の国家公務員」だが、それは身分を意味しているだけで政府との間に雇用関係は一切ない。だから、会員が会議などに出席したときは日当的な手当ては出るが、特別職国家公務員としての給与などは出ていない。
例えば安倍前総理の公設第1秘書だった配川博之氏はすでに12月24日に辞職したが、彼も特別職の国家公務員であり、給与ももらっていれば退職金も出る。が、学術会議会員は国から給与も出ていないし、辞めても退職金は出ない。学術会議には予算が10億円出ているとガースーは言うが、その金の大半は事務局の人件費で消えている。もう少し、きちんと調べてから文句をつけるならつければいい。官邸のだれがフェイク情報をガースーに吹き込んだかは知らないが、Go Toトラベルに投じた予算からすれば微々たるものだ。あまりでかい面はしない方がいい。
が、学者の世界はカネよりも名誉を巡って醜い争いが絶えないことも周知の事実だ。現に東大総長のポストを巡って醜い争いが生じている。
私は日本学術会議法などという法律は廃止して、独立法人として政府機関から切り離した方がいいと思っている。人事をめぐる争いは組織である以上、どんな形を作っても避けられない。ただ本当に学問の自由を大切にするというなら、軍事研究を専門とする学者でも、日本会議の会員学者でも排除すべきではない。また政府に提言する場合でも、両論併記を原則にするなど、政府との関係は見直すべき点も少なくない。私自身は権力とか権威といったものの価値を一切認めない主義だから、考え方を一つに絞るといったことには賛成しかねる。
だいいち、歴史学者が一生懸命に書いた歴史教科書。かつては「家永教科書」を巡って紛糾したことがあり、「新しい歴史教科書」の採用を巡って市民を巻き込んだ騒動にもなっているが、中学校でも高校でも日本史の授業で昭和の時代まで授業をしている学校はまずない(すべての学校を調べたわけではないので断定はできないが)。授業でやらない昭和の時代の記述を巡ってバカみたいな主導権争いをしているのが学者の世界だ。生徒も、授業でやらないから、どんな内容であろうと読みもしないし、影響も受けない。アホみたいな話だ。
なぜ授業でやらないのか。昭和の時代については歴史観がまだ定着していないため、入学試験の問題に出ないからだ。学校側や歴史の先生に言わせると「授業時間が足りない」というが、そうではない。最初から昭和の時代まで進まないように授業の時間割を作っているからだ。どうせ授業をしないのだから、日本史の教科書から昭和史を外した方がいい。その分、日本の財政難は少し解消する。

●憲法15条の援用で、ガースーは任命権(罷免権?)を行使できるか
なぜこんなことで揉めるのか。小学生や中学生ならいざ知らず、いい年こいた大人の政治家や学者が揉めるような話では、もともとない。言うまでもなく総理の「任命権」の存否問題だ。
学術会議法7条に、会員は学術会議が選考して推薦し、「内閣総理大臣が任命する」との記述があるから「総理に任命権がある」というバカげた主張をしたのがガースーだ。この文脈から「総理に任命権がある」と解釈するのは文理的に無理がある。もし、そういう解釈ができるのなら、憲法6条の規定により内閣総理大臣を任命する天皇に「任命権」が生じる。天皇は政治的権能を有さない「国民の象徴」という位置づけはどうなる?
この問題はこれまでさんざんブログで書いてきたので繰り返さないが、ごく最近、内閣法制局が私の主張を認めた。その内容に絞って書いておく。
ガースーは学術会議法7条の援用だけでは任命権行使のエビデンスとしては弱いことに気付いたのだろう、だれの入知恵かは不明だが、憲法15条の条文を援用することにした。これが致命的墓穴を掘ることになる。
憲法15条は1項だけである。その最初の1行目に「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」という記載がある。ガースーはこの1行に飛びついた。学術会議の会員は「特別職の国家公務員であり、従って国民の代表である内閣総理大臣に任命権がある」と主張し、この判断は内閣法制局が認めたと。
が、実は憲法15条は、この1行だけではない。改めて全文を掲載する。

公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
公務員の選挙については、成人者による普通選挙を保障する。
すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、そ
の選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

あらかじめ、このブログの読者の皆さんにご理解していただく必要があるのは、現行憲法は1946年11月3日に成立・公布され、半年間の周知期間を経て47年5月3日に施行されている。そのため、旧仮名使いの文章になっており、かつ用語についても戦前・戦時中の用語を継承していることだ。つまり、憲法15条で使用されている「公務員」という用語は、現代用語と必ずしも同じではないことを理解していただく必要がある。
そのことをご理解いただいたうえで、憲法15条の「公務員」がいかなる立場の職位を指しているかを考えてほしい。憲法15条には「公務員」という言葉が3か所出ている。1行目の「公務員」はすでに明らかにしたように、ガースーが援用した記述である。この1行目だけでは何とも言い難いのだが、果たして特別職公務員の学術会議会員を国民が選定する固有の権利を有しているか、という疑問が生じる。日本学術会議法7条によれば、会員の選定は学術会議の専権事項とされている。ということは、学術会議は国民の代表であるか、さもなければ国民の固有の権利を侵害していることになる。
次に、やはり国民の固有の権利である「公務員」の罷免権である。日本学術会議法26条に会員の罷免についての規定が定められている。

内閣総理大臣は、会員に会員として不適当な行為があるときは、日本学術会議の 申出に基づき、当該会員を退職させることができる。

ガースーが任命拒否した6名は学術会議が会員としてふさわしいとの判断で選定して総理に推薦している。推薦したばかりの会員候補を、学術会議が推薦を取り消して総理に罷免を申し出たという事実はない。
さらに罷免権は国民固有の権利であり、その権利を学術会議が収奪したという事実もない。この1行が、総理の選定・罷免の権利になりうるのか。内閣総理大臣が「国民の代表だから、国民固有の権利を代行してもいい」という判断を内閣法制局は下したことになる。

●内閣総理大臣は国民固有の権利を代行できるのか
実は憲法前文には内閣法制局が誤認した根拠が記載されている。憲法前文は主権在民の原則を明確に定めていながら、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という規定が明記されているのである。この憲法前文を援用すると、内閣総理大臣は国政においては国民の代表者として権力を行使できることになる。
この規定は、主権在民をうたっていながら、権力が国民の代表として何でもできてしまうことを意味し、我が国憲法が抱える最大の矛盾箇所である。この規定を援用すれば、内閣総理大臣は国民の代表として国会議員から地方自治体の首長、地方議員まですべて任命権を有してしまうことになる。日本の総理大臣は中国の習近平や北朝鮮の金正恩をも超える強大な権力を持つことになる。
さすがに内閣法制局も、そこまではガースーをバックアップできず、「内閣総理大臣は国民の代表」という位置づけだけにとどめたようだが、そのため墓穴を掘ることになった。憲法15条の2行目、3行目を見てみよう。憲法15条が想定している「公務員」は、学術会議会員などの「特別職国家公務員」も含まれるのか。
とりあえず2行目は公職者すべてに共通する「公務員」の立場を規定した条文であり、研究者・学者にそういう重荷を負わせることについての是非は、とりあえず置いておく。問題は3行目である。この1行で、学術会議会員は憲法15条が想定する「公務員」ではないことが明確になる。
3行目の「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」が意味することは、憲法15条が想定している「公務員」は成年者(有権者)による普通選挙で選出される人間を想定しているのだ。つまり国会議員や地方自治体の首長、地方議員たちのことである。学術会議会員が、国会議員や地方自治体の首長、地方議員ではないことは中学生でもわかっている。
どうしてこういう誤認識が生じたのか。あらかじめブログ読者の注意を促したように、現行憲法は文章においても、また条文中の用語についても戦前・戦中の用語をそのまま継承してしまっているために、こうした誤認識が生じたのではないかと思う。
実際、私たちが通常イメージしている公務員については憲法73条(内閣の権利・義務を規定した条文)の4項に、こういう記載がある。
「法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること」
「掌理」などというおそらく死語になっている語彙は辞書によれば「担当して取りまとめること」とある。内閣は言うまでもなく行政府であり、総理大臣は行政府の長である。各中央省庁には担当大臣や長官がいるが、省庁に君臨する内閣府にはトップの職名がない。内閣総理大臣が内閣府の長だからだ。

●内閣法制局が私にギブアップした
これだけの材料を、私は内閣法制局にぶつけた。「戦前・戦中に似派議員のことを公務員と称し、現在の公務員は官吏と称していたのではないか」と疑問をぶつけた。
内閣法制局の職員は「いやあ、まいりました。おっしゃる通りの可能性が強いですね」と私の推測を肯定した。
「少なくとも、憲法15条で菅総理(さすがに内閣法制局の職員に対して「ガースー」とは言えない)の学術会議会員の任命権を裏付けることができますか」
「いや、ちょっと無理でしょうね」
「では、お聞きしますが、憲法15条の1行目を持ち出せば任命権の法的裏付けになるのではないかというのは、内閣法制局の方から助け舟を出したのですか、それとも官邸の方から法制局に諮問があったのですか」
「いやあ、それは私の口からはちょっと…。内閣府にお尋ねください」
で、私は内閣府に電話した。内閣法制局職員とのやり取りを話して、「いったい、このアイデアは官邸の方から出たのですか、それとも法制局が助け舟を出したのですか」
「いやあ、まいったなあ」
「諮問もされないのに、法制局の方から助け舟を出したりするわけ、ないですよね」
電話口の向こうで内閣府職員が困惑している感じが伝わったので、それ以上いじめても意味がないと電話を切った。
私の完勝である。野党議員もメディアも、肝心の学術会議も破れなかったガースーが築いた壁を、私がぶち破った。この正月はうまい酒が呑めそうだ。

●ついでに、安倍前総理もやっつけてしまおう
私のブログの読者なら、安倍総理(当時)主催の新宿御苑を借り切っての「桜を見る会」前夜祭問題はすでに私以上にご存知と思う。私はジャーナリストの信条としてスキャンダル問題には手を出さないことにしている。
実際、現役時代は出版社編集部を経由して(当然のことながら自宅住所は公開していないため)、わんさとスキャンダル情報が寄せられたが、私は一切手を出さなかった。
私は現役時代、同業者からやっかみ半分で「もう少し汚れてくれよ」などと言われたことがある。しかし私も人間、重箱の隅をつつくように調査されたら、犯罪とまではいかなくてもスキャンダル種になりそうなことが絶対ないとは言い切れない。人様のスキャンダルを批判する資格が、私にあるという自信がなかったからだ。
だから「桜を見る会」問題は外野席から見るだけにしておくつもりだったが、野党議員やメディアがまだ気づいていない大きな問題があるので、そのことだけ明らかにしておく。
 それは、安倍氏が「秘書が」「秘書が」と自らは身の潔白を主張していることへの問題だ。もちろん、野党議員やメディア、評論家たちも様々な視点から追及はしている。が、前夜祭の事務方を仕切った公設第1秘書の配川博之氏がウソの報告を何百回したかは知らないが、配川氏が略式起訴され罰金100万円の略式命令が確定して自ら「辞職」したのは12月24日。それまで安倍氏は配川氏に対する雇用責任者として何の処分もしておらず、野党議員もメディアもそのことへの追及はしていない。
国会法で国会議員の公設秘書として国費での雇用が認められるのは3人まで。政策秘書1人、公設秘書2人である。身分は「特別職の国家公務員」である。つまり形式的には学術会議会員と同等の身分である。だが、学術会議会員には国費による給与は支給されていないが、同じ特別職国家公務員の配川氏には国費で給与が支払われてきた(辞職するまで)。安倍氏を騙し続けてきたうえ、安倍氏によれば「安倍事務所が補填してきた金は私の預金から」だそうだ。ということは、配川氏は事務所の金庫番だけでなく、安倍氏個人の金庫番もしていたことになる。つまり安倍氏は自分の預金通帳も自分では管理できないようなのだ。もっとはっきり言えば、配川氏は安倍氏の公設第1秘書だけではなく、「成年後見人」でもあったのだ。成年後見人を必要とするような人(旧「禁治産者」)に国会議員が務まるのか。
だいいち、自分の個人預金から配川氏が安倍氏に無断で勝手に使っていたとしたら、立派な業務上横領罪になる。なぜ安倍氏は配川氏を懲戒解雇し、かつ業務上横領罪で告訴しないのか。そんなことをしたら自分の「お友達政治」という政治信条に反してしまうからか。
もし、安倍氏が「自分の金の管理まで任せていたわけではない」というなら、ホテル側に補填していたカネの出どころは、やはり安部氏の個人預金からではなく、事務所の預金あるいは金庫から、ということが明確になる。そうなると安倍事務所が補填していたことになり、公職選挙法違反や政治資金規正法違反
だ。
なお、特別職の国家公務員である公設秘書は、懲戒解雇ではなく自己都合退職の場合、国費から退職金まで出る。9年近く、わが国の最高権力者の地位についていた人の個人預金から、配川氏は「自分がいい顔をしたいからかどうか」は知らないが、勝手に引き出し、使っていたことになる。立派な業務上横領罪が成立する。
 単純横領罪は親告罪だが、業務上横領罪は親告罪ではない。略式起訴や軽い罰金刑で済む話でもない。
なお、配川氏が辞職した当日の24日、皮肉な巡り会わせだが、いったん東京地検が不起訴処分にした「マージャン男」の黒川弘務・元東京高検検事長について、検察審査会は「起訴相当」を決定した。東京地検は「起訴すべきか否か」再捜査することになった。
前夜祭の補填問題について、安倍氏が正直にすべて語っているとしたら、配川氏の「略式起訴・罰金100万円の略式命令」は、特別職の国家公務員の犯罪行為に対する処分としては軽すぎないか。検察審査会に持ち込んで正式起訴すべきだと思う。さんざん配川氏からコケにされてきて面目丸つぶれの安倍氏としても、正式起訴にもちこんで、これ以上国費の不当な出費を防ぐためにも、検察に全面的に協力するだろう。
安倍氏が「男を上げる」最後のチャンスだ。


 【追記】安倍さんがおかしなことを言い出したらしい。「桜を見る会」前夜祭の費用補填の問題についてだ。
 これまで安倍氏は安倍事務所の費用補填の事実を一貫して否定してきたが、否定しきれなくなって補填の事実は認めながら、「補填は秘書が私の預金から出していたようだ」と、「秘書が」「秘書が」で逃げられると思っていたようだ。
 実はこのブログでは書かなかったが、匿名のSNSで「自分のカネを自分が管理できずに、秘書に管理してもらっていたということは(この場合、秘書は『成年後見人』という立場になる)、安倍さんは『禁治産者』ということになる」と書いた。最近「禁治産者」という言葉は禁止になったが…。
 その安倍さんが、またおかしな言い訳を国会でしたようだ。
「飲食代を安倍事務所が負担したのであれば、公職選挙法違反になるかもしれないが、会場費等の負担は寄付に当たらないから問題ない」
 このひとはどこまで往生際が悪いのだろう。いままでさんざん「明細書はない」とうそぶいていながら、明細書がなければ「成年後見人」の秘書が勝手に補填した800万円の金の使途が、安倍さんにわかるわけがないだろう。
 野党議員もメディアも、「明細書がないのに、どうして補填したカネが会場費等に使われたと言えるのか」と追及すべきだ。(31日)



 【追記2】『朝まで生テレビ』を見ていた。いつもの通り白熱した議論が行われたが、こうした討論番組を見ていていつも疑問に思うことがある。
「やりたいこと」は、ほぼ異論が出ない。そりゃ、当たり前だ。だけど、「やりたいこと」が「やれる」とは限らない。基本的に「やりたいこと」が議論の対象になる場合は、「やれるかどうか」の検証である。
 コロナ対策と経済対策の両立をしたい…ガースーの基本理念だ。誰も、その理念自体には反対はできない。私ですら、「両立が可能であれば、それがベスト」と思う。
 だけど、「両立をしたい」→「両立させる」という方程式は、いまだかつてない。そんな方程式があったら、人類は苦労しない。
 『朝まで…』ではちょっとオリンピック開催もテーマになった。誰だって「やれれば、やってほしい」と思う。とくに、東京オリンピックでのメダルを目指して常人には不可能な努力を積み重ねてきたアスリートのことを考えたら、彼らの努力の成果を見てみたいと思う。体操の内村選手が、峠を越えたとみられながら、日本選手権で最高難度の技を成功させたのを見て、私も眼がしらに熱いものを感じた。彼らの努力の成果を、東京オリンピックの晴れ舞台で発揮させてやりたいと思う気持ちは、みんなが共有していると思う。
 だけど、だから「東京オリンピック」を強行するという結論が、まずありきではない。どうやったら「東京オリンピックを実現できるか」と考えたら、その前にコロナを完全に封じ込めることに成功しなければならない。が、コロナ封じ込めの前に「コロナ対策と経済対策の両立」という、世界のすべての国が失敗してきたことに、ガースーはまだしがみ付いている。
 言葉は「両立」だが、「両立」とは相反することを実現することであり、事実上不可能な「努力目標」だ。たとえば「一生懸命勉強して、成績を上げる」ことは「両立」ではない。「遊びほうけながら、成績を上げる」のが「両立」だ。
そういうことが可能な人が絶対いないとは限らない。しかし、「遊びと成績」を両立させることができる人は天才である。ガースーは日本人すべてが天才だと思っているのか。自分は「はしご会食してもコロナに感染しなかった」からすべての日本人がはしご会食しても大丈夫と考えているのか。たまたまガースーは酒が呑めなかったから、だけだろう。日本人がすべて酒を呑めないわけではない。
 私は新年の酒を呑む。ガースーが1日も早く権力の座から滑り落ちることと望みながら。(1月1日)